コトバ表現研究所
はなしがい151号
1999.2.1 

 毎年二月は、わたしの勤める専門学校の試験採点に追われる時期です。何百枚とある答案の採点は正直いってつまらない仕事です。ものを教える仕事は、教室で学生と向かい合って、刻々と変化する学生の意識をつかむところに醍醐味があります。学習の結果である答案にはおもしろみがありません。

●授業への感想

 そこで以前から、採点が楽しくなる工夫として、答案の欄外に次の一行を付け加えています。「点数に不安のある人、時間のあまった人は、この用紙のウラに、一年間の授業の感想・意見などを自由に書いてください」

 今では、わたしはこれを読むのが楽しみで、採点をしているようなところもあります。学生たちには、あらかじめ、「合格点に足らないときにはウラも参考にする」と話してあります。冗談ではなく、これまでこの文章で救われた学生も何人かいるのです。

 今年は各クラス五、六十人のうち三分の一ほどが書いてくれました。なかには授業中の白衣姿のわたしの姿をイラストで書いたり、心配だから点をオマケしてくれとはっきり書いたものもあります。

 わたしは、自分の授業がどう受け止められているか気になります。改まってアンケートをとるのも一つの方法でしょうが、書いても書かなくてもいいという自由な意志で書けるものによってこそ、本音が聞けると思うのです。とはいえ答案用紙のウラですから、その分、差し引いて考えねばなりません。

 幸いなことに、授業はおおむね好評で、「授業が楽しかった」「雑談がおもしろかった」「本の紹介があったので読むようになった」「授業の最初の新聞記事の紹介がよかった」などの感想でした。

●文章で考える授業

 今年はとくに気にした授業があります。二年課程の学生の教養講座の二年目です。一年目は、「コトバとコミュニケーション」と題して日常的なコトバのやりとりの学習です。新聞の読み方、メモのとり方、敬語を入れた話し方などです。これまで二年目には、一年目の内容をくわしくした授業をやっていましたが、今年度から、文章を書かせることで考え方そのものを教育しようと思いました。

 まずは、考えをコトバに表現すること、単語を分類して考える練習から始まります。そして、文つくり、文と文とをつなげる接続語の使い方、文章を起承転結に組立てる練習、文章の推敲の仕方、最終的には、六〇〇字から八〇〇字の文章を仕上げて提出させるものでした。それを週一時間、年三〇時間の授業で行うのです。

 実行に踏み切るまで迷いました。目標は高度なものですが、実際に学生にさせることといったら、じつに単純なのです。たとえば、単語の練習は「教室にあるものの名を三〇個あげよう」とか、「野菜の名前を三〇個あげてから、三つの分野に分けてみよう」ということです。文のつなぎの練習も、「しかし」「すると」「なぜなら」などの接続語を入れて文章をつくる単純なものです。

 わたしが気になったのは、高校を卒業した学生たちが課題をバカにしないかということでした。何しろ、ノートをとらなかったり、私語をしたり、机の上でマンガ雑誌を読むのもめずらしくない学生たちです。しかも、この練習は、はじめは中学卒業で入学した生徒のために考えた方法だったのです。

 しかし、わたしの不安は最初の授業でみごとに打ち破られました。文章の基本的な考えを話してから、実習の課題をあたえました。すると、それまでおしゃべりをしていた学生までが書きはじめたのです。教師はしんと静まり返って、ほとんど全員がノートに向かってエンピツを走らせるのでした。

 今回の感想で何よりもうれしかったのは、「今年は去年とちがって、授業の中でいろいろと書くことをしたので楽しかった」という感想です。ほっとしました。また「高校までは国語が苦手だったが、書くことがおもしろくなった」というのもありました。

 授業の仕上げとして書いた文章は配点三〇点として提出してもらいました。授業どおりに手順を追って書きあげられた文章には、練習の成果があちこちにあらわれていました。とくに、接続語を有効に使った論理的な展開が目につきました。

 若い人たちの吸収力のよさに感心しました。他に持っている文章教室のオトナたちよりもはるかに進歩がはやいのです。こんなに容易に若い人の能力が育つのかと感動するとともに、その能力を育ててこない教育への怒りさえ感じました。そして、また、そもそも教育とは何なのかと考えさせられました。

●アランの文章論

 専門学校で「教養」という名のつく授業を始めてから、いつも気にしているひとりの思想家がいます。アランというフランスの思想家です。つい最近、『アラン教育随筆』(1999/論創社)を買って、毎日、感動しながら少しずつ読んでいます。

 一冊の本のなかに七十九の文章が収められています。どれもわずか三ページ、原稿用紙四枚ほどの短いものですが、ゆっくり、じっくりと味わう必要のある密度の濃い文章で書かれています。翻訳の文章も今までのものより読みやすい気がします。

 「教養」について、アランは単なる知識の獲得ではなく、思想する能力であることをくり返し主張しています。「文章」の表現についての考えも、我が意を得たりという思いのするものです。

 アランは科学的な考え方と文章の表現とがまるで別物のようになっている風潮を批判しています。「科学」というと数学の公式をあてはめて機械的に答えが出るようなものになっている。その一方で、文章は美しい言い回しをしているが、実際の物との結びつきのない空虚なものである。そこで、主張されるのが、次のような科学と文章との一体化です。

 「現に存在している物に対する適切な叙述が、真の科学の実質的な第一課程になる。正しく叙述することができもしないで、知るとはどういうことなのか。だから、科学の第一課程は、同時に修辞学の第一課程でなければならない。」(第六章科学と判断)

 アランは、知ること・考えることは文章に表現されねばならないというのです。アランの本自体が、まさにアラン自身の考えのかたちを文章に表現したものです。わたしも貧しいながら、毎号、通信を書いて知ること・考えることがたくさんあります。そんな自分の経験を、これからも学生たちの文章教育に生かしていこうと考えています。


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