コトバ表現研究所
はなしがい150号
1999.1.1 
 新しい年を迎えました。今年も『はなしがい』をご愛読お願いします。昨年は十年ぶりに文部省の学習指導要領の改訂が行われました。わたしも、暮れにインターネットで文部省を訪ねて「国語科」の内容をプリントして読みました。最近、表現よみ(朗読)に力を入れて人前でよむことを目指しているので、音声言語の教育が気になっていたからです。

 音声言語の教育が取り入れられたのは十年前の指導要領からですが、今回のものを読んでも「ああ、この程度か」というくらいでした。小学一、二年生では「姿勢、口形などに注意して、はっきりした発音で話すこと」、小学三、四年生では、「その場の状況や目的に応じた適切な音量や速さで話すこと」「書かれている内容の中心や場面の様子がよく分かるように声を出して読むこと」があげられています。

 しかし、小学五、六年生では「読み」も「必要な情報を得るために、効果的な読み方を工夫すること」となり、中学生では、「話すこと・聞くこと」への音声言語の教材の利用が書かれていますが、「読むこと」は、ほとんど情報を集めるための読みが目標になっています。また、わたしがいちばん大切だと思うコトバを通じての論理の教育が弱いのも相変わらずでした。

●子どもとコトバの発達

 暮れから正月にかけて、コトバの教育を根本から考えさせてくれるいい本を読みました。岡本夏木『ことばと発達』(1985/岩波新書)です。この本では、子どものことばの発達を二段階に分けてとらえています。一つは、誕生してからコトバを獲得していく幼児期の「一次的ことば」、もう一つは、学校に入った学童期の「二次的ことば」です。著者は、二つのことばが層を成して積み重なっておとなのことばに成長してゆくのが理想だと述べています。わたしは、この二つのことばの関係は、子どもばかりでなく、おとなのコトバの能力を考えるうえでも重要だと思いました。

 「一次的ことば」というのは、(1)現実の生活場面で、具体的な時期と関連して、(2)コミュニケーションの相手は自分をよく知っている親しい人で、(3)相手との間で一対一の「会話」を通して用いられることばです。それに対して、「二次的ことば」とは、(1)現実の場面をはなれた状況で、(2)抽象化された相手に向けて、(3)自分の側から一方的に発せられるもので、(4)「話しことば」ばかりでなく「書きことば」も加わっています。  二つのことばの、このようなちがいから、いろいろな問題がおこります。それについては、直接に本を読んでいただくことにして、わたしが、なるほどと思ったのは、子どもが「二次的ことば」に移ることのむずかしさをのべたところです。

 「二次的ことばとして、その場の人皆に向けて話されていることばを聞く時も、子どもはそれを自分に話されているものとしてとらえることはかなりむずかしいようである。(中略)幼児は先生がクラスの皆に話していることを、同時に自分に話していることとして聞くにはかなりの経験を必要とする」

 かつて専門学校の中学卒業の生徒に授業をしているときには、「みなさん……」という呼びかけでは、全体の注意を引くことはできませんでした。ときどき「○○くん、□□さん」などと、一人ひとり名ざししなければなりません。騒がしいときでも、全体に「うるさい」と言うのでなく、「だれだ。うるさいのは」というと、はっとしたように静まるのです。

 ところが困ったことには、生徒たちは自分の名を呼ばれることにじつに神経質で、まちがって名ざしされて注意を受けたりすると、「おれじゃない」と興奮して食ってかかるのです。

 今年、わたしがもっぱら高校卒業の学生の授業を担当するようになってから驚いたことがあります。始めは、学生たちはおとなだからと思って「みなさん……」と呼びかけていました。何しろ各クラスには脱サラ転職の学生もいるのです。ところが、話に集中できない学生が意外に多いのです。

 わたしは、教養講座という一般常識のような科目だから興味がもてないのだろうと思いました。ところが、そのうちに、中学卒業の生徒と大差ないかもしれないと思うようになりました。

 そんなときに、こんな経験をしました。授業中にすぐ前の席で二人並んだ男子がおしゃべりを続けていました。ついでにお話しすると、わたしは声の大きさの話しもよくします。「私語はすべきでないが、せざるを得ないなら、話している先生の耳に入らない声の大きさでしなさい」。しかし、こんなことは最初にあげた指導要領の小学三、四年生の目標です。

 それはさておき、まず二人を意識しながら一般的な話として「授業中に先生に聞こえるような私語はすべきでない」と繰り返し言いましたが、止まないので名ざしで注意しました。すると「授業の話をしていた」といいます。「たとえそうであっても、今は、わたしが話しているのだからやめるべきだ」というと、不満気な態度で「じゃ、いいや」というような意味のわからないことばを口の中で言うと、不貞腐れて机の上にうつぶしてしまいました。

●おとなのコトバ能力

 こんな学生はあからさまな例ですが、クラス全体に向けられた話は聞けないけれども、一対一で話すと、それなりに話せるというのは一般的な傾向です。それで、たいていの先生は、まあいいかと安心してしまうのですが、「二次的ことば」が不十分なことに変わりありません。

 子どもの成長において、「一次的ことば」は、両親や、兄弟や、親しい友人などとの関わりで身につくものですが、今の社会の人間関係を考えると、どこまで深く実感をもったコトバが身についているかどうか疑問です。また、学校で学ぶ「二次的ことば」の能力も不十分に感じられます。今、教育の課題としては、目前の状況に直接に感情的に反応するのではなく、ものごとを客観的に考えたり、一般化して考えられる力が求められています。それも「二次的ことば」の課題です。

 しかし、ふつうのおとなでも、おしゃべりはできても人前で話したり文章を書くのが苦手な人は多いものです。そう考えると、「一次的ことば」と「二次的ことば」の総合的な能力づくりというのは、子どもたちばかりでなく、わたしたちすべてに求められていることになります。そのためには、学校での国語科教育、そして、おとなたちの生活の中でのコトバ学習がやはり重要なのだと思っています。


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