コトバ表現研究所
はなしがい149号
1999.12.1 

 十一月十九日の新聞に、文部省の発表した新しい「学習指導要領」の案が掲載されました。前回一九八九年の改訂から十年ぶり、戦後六回目になります。学習指導要領というのは、学校教育の基本となるもので、教育内容を拘束するものです。幼稚園では二〇〇〇年、小中学校では二〇〇二年から実施されます。次の改訂まで十年くらいは有効でしょう。

●新しい「学習指導要領」

 新聞の大見出しは「21世紀の『ゆとり』教育、創意・主体性養う」で、「理数三割、英一〇〇単語削減」という見出しもあります。改訂の方針は「生きる力をはぐくむことを目指し、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育」というものです。内容の特徴は次のような点です。

 第一は、年間授業の「厳選」です。週五日制の完全実施にともなって、授業時間は週あたり二時間削減されます。わたしの気になる国語を見ると、小学校では、各学年配当の漢字の「読み・書き」のうち「書き」は一つ上の学年に移行させられます。また、小学校での全配当漢字(一〇〇六字)の「書き」も中学校までにできればよいとされています。

 第二は、「総合的な学習の時間(総合学習)」の設定です。「各学校が創意工夫を生かし、特色ある教育活動を展開する」とあります。学校の裁量拡大が初めて位置づけられたそうですが、今まで拘束されていたものが急に「創意工夫」などといわれても、とまどってしまうのではないでしょうか。

 第三は、授業の一単位時間や授業時数の運用を弾力化することです。中学では個別指導や習熟度に応じた指導や選択学習の幅が大きく広げられています。

 ほかに、ボランティア活動や自然体験活動などを通じて「道徳性」を育成することもあげられています。しかし、ボランティア活動の教育などできるのでしょうか。本来は自発的であるべき行動を教育でとりあげたら他人からの押しつけになります。教育というものは、うっかりすると、押しつけやおせっかいになりかねないものです。

●「国語」教育の問題点

 一九八九年の改訂でも「基礎・基本の重視と個性教育の推進」があげられましたが、今回の「基礎的・基本的な内容」についてもアイマイです。一見すると時代の動きを的確にとらえたと思えるような美しいことばに満ちていますが、もっとも重要な教育の「哲学」が欠けているのは相変わらずです。

 たとえば、国語を見てみましょう。コトバの力の教育として「自ら学び自ら考える」ための「基礎的・基本的」な能力を提供するものです。その「目標」は「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育て……」という書きだしです。

 わたしはもうここで、つまずきます。「国語」を表現するとはどういうことでしょうか。「国語」の力とは、一人ひとりの人間がものを考えたり表現したりするコトバの力です。日本人ならそれは日本語という言語です。しかし同時に、「国語」とは、ある国家の公的な言語という面もあります。「国家語」といってみると、「国語」という語の持つ厳(いかめ)しさがおわかりかと思います。

 つまり、「国語」を表現するとか、理解するという考えには、「自ら学び自ら考える力」の教育とは矛盾するところがあるのです。しかし、それこそが、日本国文部省作成の指導要領の「哲学」なのだといえるかもしれません。それがボランティアという名による「道徳性」の教育や、日の丸・「君が代」重視の教育につながるのも当然でしょう。

●「道徳性」と科学教育

 もう一つ、わたしは科学的なものの考え方を形成する科目である理科教育の内容が気になりました。小学校理科の「目標」はこう書かれています。(数字はわたしがつけました)

 「(1)自然に親しみ、(2)見透しを持って観察、実験などを行い、(3)問題解決能力と(4)自然を愛する心情を育てるとともに(5)自然の事物・現象について理解を図り、科学的な見方や考え方を養う。」

 ずいぶんピント外れです。常識的に最重要と思われる自然の理解や科学的な見方や考え方の養成が最後にあげられています。しかも「自然を愛する心情をそだてるとともに」と、ついでのように述べられるのです。冒頭の「自然に親しむ」ことはいいとしても、「問題解決の能力」はあげられていても、自ら問題を設定するような能力は目標にありません。これも「自ら学ぶ力自ら考える力」という方針とは矛盾します。「出題された問題に答えるのが勉強だ」という古い考え方が感じられます。

 最近、わたしは古書店で、『科学教育論』(1961年。明治図書)という本に出合いました。著者のポール・ランジュバン(1872-1946)はフランスの物理学者で、平和と正義を求めた運動家としても知られています。第二次世界大戦中はレジスタンスに参加し、反ファシズム闘争の英雄とも呼ばれています。

 ランジュバンは一般教養としての科学教育を考えています。「教育とは行動に移る準備をさせることである」という考えから、「科学の教育的価値は発見の中にあると同じ程度に、発見を達成させる努力のなかにある」といいます。また、教科書の記述を批判して、「叙述は多くの場合、教条的な形でなされ、どこからとも知れず天下り的に法則の記述がとびだし、物理学者は単に検証するだけの態度しかとらない」と書いています。

 科学教育の目的としては二つをあげています。一つは、外部の現実に適合するための科学の役割、もう一つは、それを可能にするための道具としての技術の教育です。わたしはこれを一般教養に置きかえて、コトバ能力の教育の重要性と理解します。

 また、ランジュバンは、一般教養とは「職業的専門化とは独立に、子どもを現実との接触に準備させる一切のもの」だといいます。「現実」とは、自然や社会の現実だけでなく、人間の心理や道徳にかかわるすべてを含むものの意味です。「教育が与え得るのは、教養の端緒だけであります。個人に教養への欲望と趣味を持たせることだけであります」

 古代ギリシアでは、「哲学」を「知ることへの愛」と呼びました。現代の教育に求められているのは、愛や道徳の押しつけではなく、「自ら学び自ら考える」ことで得られる「知」です。それを可能にする基礎的・基本的こそコトバの能力なのだと、わたしは思っています。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)