コトバ表現研究所
はなしがい148号
1998.11.1 

 今年は専門学校で、高校卒業生のクラスのみを担当しています。これまでの中学卒業生のクラスとは区別して対応してきましたが、最近、思っているよりずいぶん子どもなのだと気づきました。「今の成人年齢は三〇歳」とも言われているそうです。

 わたしは中学卒業生のクラスを担当しているころ、生徒のノートを見るとOKとサインをしていました。「OKマーク三〇個でハワイ旅行、五〇個で世界一周旅行」などと冗談を言ったものです。わたしの授業時間は年間三〇時間足らずですから、毎時間もらっても三〇個にもなりません。それでも生徒は知ってか知らずか、なかば冗談と思いながらも、OKマークを楽しみにしていたようです。課題が仕上がると、はい、はいと活発に手をあげてくれました。

●OKマークと学生たち

 今、高校卒業生には、読み書き、話し聞きの教養の授業のほか法規も担当しています。法規では条文を読まねばなりませんので、教科書の内容を五分の一ほどに要約して板書し、学生に筆記させています。プリントして配ってほしいという希望もあるのですが、一度は条文を読んでもらいたいので書いてほしいと説得しています。

 あるクラスの授業のとき、早く写せたらノートを見せて終わりにしていいと言いました。すると、一人の学生が先生にノートを見せるのかと聞くので、そうしようとわたしも答えました。それからOKマークをつけるようになりました。

 初めわたしは高校を出て二十歳に近い学生がわざわざノートを見せてマルをもらうようなことをするだろうかと思いました。ところが、学生たちは黒板を写し終えると、列をつくって並ぶようになりました。ノートを写さずにとぼけて逃げてしまう学生は、思ったより少ないのです。

 わたしは、どうして、こんな小学生のようなやり方にしたがうのだろうかと思いました。しかし、こんなことを始めたおかげで、わたしの方も学生のノートを見ながら、ひとりひとりに「きれいにまとめているね」などとちょっとしたことばをかける時間ができました。また、学生たちの方からも、わたしに声をかけてくれるようになりました。考えてみれば、学生たちがほしいのは、OKマークではなく、ノートのチェックを通じて、わたしと交流することなのではないかと思えて来ました。

●「心の教育」とは

 最近、「心の教育」ということばがはやっています。いったいどこから来たのだろうかと思っていましたが、たぶんこれだろうという本を見つけました。梅原猛『心の危機を救え―日本の教育が教えるもの』(1998。光文社文庫)です。

 著者は日本の古代史の研究者ですが、三年前のオウム真理教の事件にショックを受けたために初めて教育の本を書いたといいます。高学歴の信者たちが、サリン殺人のような犯罪をなぜ実行できたのかという問題を出して、その結論が、戦後日本の道徳教育の欠如であり、道徳教育は「心の教育」だというのです。

 しかし、「心の教育をせよ」と唱えるだけで、教育の内容は語られていません。戦後の日本には、道徳=心の教育がないから、あらためてやらねばならないというだけです。どうしたらよいか、どうすべきか、という教育の方向は見えてきません。具体的にあげられているのは、「ウソをいわない」「人を殺さない」という二つの道徳くらいです。

 あえて、この本から梅原の主張を読みとるなら、古い時代の仏教による宗教教育をもう一度復活させるか、戦前の天皇崇拝の道徳教育を復活させるかしかないということになります。

 そのことよりも、梅原が力をこめているのが、戦後の「平和と民主主義の教育」への批判です。これはマルクス主義を広めようとする教師たちの考えだというのです。梅原の歴史観には社会を階級の対立として見る考えがありません。ある時代の思想を単純に一色に塗ってしまいます。だから、戦後の教育は、革命の役に立つか立たないかという道徳であったなどと割り切っています。

 しかし、「平和と民主主義」は、「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンとともに、戦前の思想の復活に反対する思想でした。しかし、宗教や道徳にふれることをタブーとして避けたために、そこに空白が生まれたことも確かです。

●新しい道徳の意味

 道徳は、学校で「道徳」という科目として教えるようなものでしょうか。わたし自身のことを考えると、家庭や学校で「道徳」として教えられたのではなく、日常的な人と人との関係から身についたものです。家庭では、兄弟や親戚や近所の人たちとのつきあい方について、親から「こうしてはいけない。ああするべきだ」というルールとして教わりました。また、学校でも、友人たちとのトラブルなどがきっかけで人間関係のルールとして学びました。道徳の時間もありましたが、印象に残る思い出は一つもありません。

 わたしは梅原とはちがって、新しい道徳が育っていないのは、家庭や学校の道徳教育がなかったからだと思いません。より根本的には、戦後に人と人との関係がしだいに疎遠になり、家庭や学校での人と人とのかかわりが薄くなったからだと思います。

 戦後の日本には、戦前のような天皇崇拝のような国家の目的はありませんでした。そのかわりに、経済発展至上主義とでもいえる国家目的がありました。それが今では、モノの作りすぎによる経済不況、人間よりも経済のシステムを優先するリストラ政策に至っています。

 わたしは「ウソをつくな」「人を殺すな」といった基本的なことは道徳というよりも、社会生活における人間同士の基本的なルールであると考えています。そして、これらのきまりが守られるためには、間近にお互いの顔が見えて、気心が知れる付き合いができるという条件が必要です。

 もし、新しい道徳の体系をつくるのなら、それは古い時代の宗教や天皇崇拝の思想の復活ではありません。わたしたちの祖先が長い間かかってお互いが生きやすいように工夫された人間関係のルールの集大成です。「道徳」などという名で教えるものではなく、「教養」や「常識」の一部になるでしょう。その意味では、わたしの授業も、学生たちとの交流を基礎にした「心の教育」なのだと思っています。


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