コトバ表現研究所
はなしがい145号
1998.8.1 

 この通信は今号で十三年目にはいりました。わたしが人にものを教えるようになってから、ほぼ二十五年になります。教えてきた生徒たちは数千人になると思いますが、未だに「先生」とよばれることにはとまどいがあります。

 「先生」には「先に生まれたもの」という意味もあるのですから、それほど権威のあることばではなく、人生の先輩くらいのつもりで受けいれていればよいのかもしれません。しかし、授業からはなれた場で「先生」とよばれるとやはり違和感を感じてしまいます。

●はげましのコトバは必要か

 わたしには「先生」と呼ばれることよりももっととまどうことがあります。それは、生徒に何か簡潔で大切なひと言を語ろうとするときのことです。授業中に授業の内容を話すことなら何でもありませんが、ひと言で生徒たちにとってはげみになるようなことを言おうとすると困ってしまいます。

 先生たちのなかには生徒に向かって「がんばれ、がんばれ」と口ぐせのようにいう人が多いものです。少しの前のテレビの教育特集でも、生徒に日記を書かせている先生が登場して、日記に目を通すと必ず「がんばれ」と書いている先生がいました。

 また、先生でなくても、人をはげますことばとして「がんばれ」を使う人は非常に多いものです。このことばは心の病気の人にとっては禁句なのだそうですが、わたしも人から言われると、あまりいい気持ちがしません。それなのに、わたし自身、人にはつい言ってしまいます。

 「がんばる」の意味は辞典では「(1)忍耐して、努力しとおす。気張る。(2)ゆずらず強く主張し通す」とあります。ふつうは(1)の意味で使うわけですが、(2)の「我を張る」という意味が背後に感じられるので重苦しく感じられます。

 とくに、わたしが何を言ったらいいか迷うのは、生徒にもらった暑中見舞いや年賀状の返事を書くときのことです。ちょっした近況を書いたあとに、つい「がんばれ」などと書いてしまいそうになります。しかし、このことばには、相手の上に立ってものを言っているような権威主義的な感じもあります。それなので、わたしは相手と対等の立場でお互いを認め合えるようなことばがないかと考えていました。

●「希望」とは何か

 「がんばれ」に替えていうべきことばを考えるためのヒントになりそうな本を見つけました。エーリッヒ・フロム『希望の革命』(原著1968年。翻訳1970年。紀伊国屋書店)です。

 フロム(1900-1980)はドイツで生れた精神分析学者・社会学者で、フロイトの精神分析とマルクス主義とを結びつけて社会的人間の性格論を展開した人です。わたしは読んでいませんが『自由からの逃走』という本が有名です。ヒトラー時代にアメリカに亡命しています。

 わたしは「希望」ということばにひかれて近所の古書店で買ったのですが、そのときすでに生徒たちに語ろうとするべき「理想」や「夢」などということばを連想していました。

 わたしは教育がすべき根本の仕事として、また、教育に限らずに人間同士の関係でも、お互いの「はげましあい」が大切だと思います。しかし、「はげます」ということばにも「がんばれ」のような押しつけを感じていました。

 フロムの語る「希望」は自由を目ざす能動的なものです。一般に「希望」というと、受動的に何かを待つことであったり、起こりもしないことを起こそうとするように考えられています。それに対して、フロムは次のような定義をしています。

 「希望を持つというのは一つの存在の状態である。それは心の準備である。はりつめているがまだ行動にあらわれてはいない能動性を備えた準備である。」

 このまま教育の原理にしてもいいように思えてきます。さらに、次のような文学的な定義にも感動します。

 「希望はうずくまった虎のようなもので、跳びかかるべき瞬間がきた時に初めて跳びかかれるのだ。」

 このような「希望」の定義から出発して、フロムは「希望」を準備するために必要な人間性の条件を論じています。

●人間性を育てるもの

 フロムは〈人間的体験〉ということばで、人間のとるべき態度として、いくつかの要素をとりあげています。それは現代の人間から失われつつある貴重な性格の項目です。

 現代の人間に目立つのは〈貪欲〉で、種々の欲望にかり立てられた不自由な状態のことです。そこから脱して自由になるための要素として、まず「思いやり(tenderness)」があり、「同情(compassion)」や「感情移入(empathy)」があります。

 この三つは広い意味での「愛」といってもよいものです。つまり、自己中心的な感情にとらわれずに、他者に向かって心を開いていく態度です。それを実現するためには、好奇心とちがう「関心(interest)」や、自由を前提にした「責任(responsibility)」が求められます。

 わたしが感心したのは、日本でこんな項目をあげたら道徳のような抽象的なものになりがちなのに、フロムは具体的な行動のありかたと結びつけていることでした。

 最後にひとつ、人間の破壊性と暴力との関係を書いた部分を引いておきましょう。

 「人間は希望なしでは生きられないが、まさにそのことのために、希望を完全に打ちくだかれた人は生命を憎む。彼は生命を創造することができないので、生命を破壊することを欲する。これは不可思議さという点では生命の創造にそう劣るものではない――しかしなし遂げることははるかにたやすい。彼は自分が生きることのできなかった人生の復讐をしようとするのだ。そのために彼は全くの破壊性に身を投じるのであって、その結果他人をやっつけようが自分がやっつけられようが、どちらでもいいのである。」

 わたしはここを読んでハッとしました。神戸の中学生の連続殺人事件に代表される最近の犯罪事件を連想したからです。近ごろ、世間では「希望」ということばが聞かれなくなっています。しかし、わたしは希望をいだいて生きられる人間性を育てることこそ教育の目標なのだとあらためて確信しました。


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