コトバ表現研究所
はなしがい141号
1998.4.1 

 前号に「キレる」子どもたちの問題を書きましたら、三月末に読者のKさんから、おハガキをいただきました。Kさんは五十代の女性で、わたしとおなじ日本コトバの会の会員です。それを読んで、わたしは、アッと思いました。わたしがあたりまえのように思っていることをあらためてKさんが指摘してくださったのです。

●コトバの力と人間関係

 Kさんは、今の子どもたちについて「なぜ、精神が未成熟なのか」と問いかけてズバリ答えています。
 「コトバ能力が未熟だからです。なぜコトバ能力が未熟なのか。それはうすい人間関係のなかで育ったからです。」
 そして、次のような図式を示しています。←→のマークは、それぞれが関係しあうという意味です。

  精神発達←→コトバの力←→人間関係

 また、だれが子どもを教育するのかということについても述べています。
 「子どもの教育は、学校と家庭だけでなされるものではありません。先生や両親のほかに、まわりにいる人たちのなかで育っていくものなのに、現在は先生と母親だけになっているからだと思います。」
 「希薄な人間関係のなかではコトバが育たず、知恵と心が育ちません。今の子どもたちにコトバを楽しく学ばせれば、ひとつの解決法にならないでしょうか。」
 わたしがハッとしたのは「コトバの力」のことです。子どもたちの自立の基礎となるコトバの力については、わたしも繰り返し述べてきたことですが、またあらためて知らされたような新鮮な思いでした。

●キレる子どもと「書く力」

 そんなときに、『論座』5月号(朝日新聞社)の特集「さまよう子供と学校」の対談をおもしろく読みました。対談者は、佐藤学(東大教授)と森薫(東京・小平二中教諭)です。内申書の問題、教師の能力の問題、などがとりあげられていますが、ここでも、Kさんのいう「コトバの力」について語られていました。

 「 私も毎日子どもたちを見てて思うのは、書くこと、思考すること、想像力を働かせる力が落ちていることです。(中略)日ごろからうざったく″思っている教師に「やめなさい」「急ぎなさい」「どうしてそんなことをしたの」と否定的、ないし支配的な言葉を投げかけられると、言語で表現せずに、いきなりキレて暴力に訴える子どもたちが増えてきています。」
 「佐藤 窒息状態にある中学生の多くは、小学生のときは明るく元気で活発でと、いい子を演じていられたんですね。でもそれは嘘っぱちだったと、中学に入って気づく。何しろ自分の身体が「これは嘘っぱちだ」と悲鳴をあげ始めてくる。このとき発散する暴力に変わりうるのは、さきほど森さんも言われた「書く力」だと僕も思っています。書くこと、自分の言葉で表現することで、たまったものに輪郭を与え、人とのつながりを築き、広げていく。ところが、そのための教育は十分にされていないから、その力は衰退している。自分を表現する手段が持てない自分に、さらなる無力感を覚えているというのが、現在の構図だと思いますね。」

 コトバの力を身につけることは、子どもたちだけではなく、おとなにとっても大切なことです。コトバの力のあるおとなと接することによって、子どもたちも成長できるはずです。

●子どもを育てるおとなのコトバ

 Kさんのハガキをきっかけに、わたしは子どもの教育にとっておとなのコトバの力の大切さの好例を発見しました。文章通信添削講座の受講者・Tさんから送られた文集『はこべのはらっぱ』第2号(97年11月。はこべの会)の文章です。娘さんの通う幼稚園の親たちがまとめた文集ですが、Tさんの文章は、親が子に働きかけるコトバの見事な例です。

 Tさんは、不登校になった小学生の息子の記録を残したいということで、添削講座をはじめました。はじめから実力のある方で、息子さんへの思いの感じられる文章をよどみなく書いていました。そのくらい書ければ、一般の文章教室ならば、手ばなしでほめられます。しかし、わたしは、かんじんの息子さんの姿が浮かんでこない点が不満でした。
 そのくらい文章を書ける人は自信もあるので、わざわざ文章の勉強などしないものですが、Tさんはねばりづよく、わたしの助言に答えてくれました。
 わたしが助言したのは、文章のなかに息子さんの姿を描きだすための技術的なことだけでした。「この文のあとに描写の文を入れましょう」「ここには主語を入れましょう」「この文のあとは理由を入れましょう」といったことです。

 一年近くつづけるうちに、Tさんの文章のなかに息子さんの姿がありありと描かれるようになりました。最近の手紙にはこう書かれています。
 「私が長男のことにこだわって書こうと思ってはじめた、文章の添削に付き合ってもらえたことに感謝します。まだ、論理的に考えをまとめることは困難ですが、自分の思い込みだけで物事を判断してしまう危険はなくなったようです。」
 文集の作品には小学二年生の二男の万引きに気づいたときの母親の対応が書かれていました。わたしはたいへん感動しました。これはもう文学作品です。  クラッカーを一七個も持っている子どもが「道で拾った」というので、母親は子どもにその道を歩かせてついて行きます。そして、ある店の中までたどりつきます。そのあとは次のように書かれています。息子さんの名は伏せてローマ字にします。


 私はTの手を引いて外のベンチのところまで行き、腰をおろしました。穏やかな小春日和です。遠くから子どもたちのかけまわる声が聞こえてきます。私はTの襟首をつかんで叱りつけることも、頬に平手打ちを食らわすこともできます。そのまま家に帰ってしまうこともできたのです。でも、私はTをベンチに座らせ静かに言いました。 「Tがしなくてはならないことは正しく思い出すことなのよ」
 私はそのまま空を見上げていました。もう西の空は赤く染まりかけていました。そのとき、Tの身体がガタガタ震えたのです。大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちてきます。
「ごめんなさい。黙って持ってきた」
 Tが泣き止んでから私は言いました。
「一人で行ってこれる」
「こわい」
「こわいけれど、Tは、自分で話さなくてはならないのよ」
 私はTを抱きしめました。

 それから、母親は息子について店に入り、息子が話すのを見守ります。それに応対する店の店長の態度も教育的な配慮のある立派なものです。ここに書かれた場面だけでも、Tさんのコトバの力と子どもの教育についての理念が読みとれます。


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