コトバ表現研究所
はなしがい139号
1998.2.1 

 わたしの勤める調理師専門学校では、二月は卒業試験の時期です。わたしはこの一年、高校卒業の専門課程の七クラスを担当しました。大学一、二年生にあたる年齢の学生です。これまで担当した中学卒業の高等課程の生徒たちとは雰囲気がだいぶちがいました。以前にもいくつか専門課程のクラスを担当したことがありましたが、今年ほど多くのクラスを担当したことはありませんでした。

 わたしは、かれこれ二十五年近く、おもに中学生の子どもたちの教育にかかわってきました。これまでも何度か、子どもたちが急激に変わったという実感を抱いたことがありましたが、今年もそんなことを感じました。

●子どもたちが「キレる」時代

 考えてみると、わたしが中学生の塾で教えていたときに急変化を感じたのは一九八〇年ですから、ちょうど今年の学生が生まれたころでした。それからは、いわゆる校内暴力が盛んになった時代でした。そして一九九〇年代はイジメの時代です。それが今、「キレる」時代に変わろうとしています。

 この二十年ほどを振り返ったときに、わたしたちの意識に大きな影響を与えたできごとは、やはりバブル景気の騒動でしょう。印象に残っているのは、一九八五年のNTT株の売り出しに始まる一大株式投資の時代です。書店には株式投資の雑誌が数多く並んで、株に関心のないわたしの目にもつくほどでした。それから五年ほど地上げによる土地投機のブームがありました。しかし、一九九〇年の株の大暴落によってバブル経済の崩壊がはっきりします。

 この時代の流れに今年教えた学生たちを置いてみると、小学校時代にバブルの浮かれ景気を経験して育ち、中学校時代は一転して不景気の流れに投げこまれたわけです。小学校までの家庭の雰囲気と中学校からの家庭の暮らしぶりには大きな変化があったことでしょう。

 わたし自身のことを考えても、自分に金が入ってくるわけでもないのに、世の中の景気のいい話を聞いて浮かれたような気分でいたようです。

●専門学校の学生の雰囲気

 わたしが今年の学生たちに感じるのは、まず何よりも非常に冷めた態度が目立つということでした。わたしの授業での話はかなりくだけたものです。学生から質問や発言を引き出して、それをきっかけにして話をすすめるものです。これまでは、一クラスで何人もの学生が発言をしてくれて、話しの盛り上がる授業ができた気がします。中には話題から外れる発言もありますが、それを授業内容に結びつけるのはこっちの腕の見せどころというわけで気になりませんでした。

 しかし、今年度は学生はまったく発言が少ないのです。しかも、これまでずいぶん気になった授業中の私語も少ないのです。ひとりひとりが席に着いていても、それぞれが孤立したようにぽつりぽつりといるだけという感じです。その中で、せいぜい数組が二人で小声で話し合うという感じなのです。

 私語については「話をやめてくれ」と言えば収まるので、それほど気になりませんが、それよりもその孤立感のようなものが気になります。私語をする者はわたしの話に関心がなさそうなのはもちろんですが、おとなしく席に着いている学生にも同じようなものが感じられます。

 そんな学生の態度は、この年代にありがちな態度であると片づけられない気がします。近ごろは人間の成熟年齢が高くなって、なかなかオトナになれないのだとよく言われます。わたしも学生たちの話を聞いていると、それは感じます。しかし、一方では、まるで年寄りのような気力の弱さも感じるのです。とくに男子学生には、それが目立ちます。授業中の反応でも、生き生きした表情や輝くような目つきの学生はほんの一割ほどです。

●「対話」とコミュニケーションの教育

 わたしは学生たちに何かを教えるという立場にあるものですから、こんな状態を嘆いてばかりはいられません。今年を振り返って来年のことを考えねばなりません。いったい何からはじめようかと根本的なことを考えるとき、わたしがいつも考えの基礎にするのは、ソクラテスやプラトンに代表されるギリシャ哲学です。

 ギリシャ哲学というと、まず思い浮かぶのは「対話」という考え方です。わたしは以前から「対話」の重要性を繰り返し考えてきました。わたしの考える「対話」は、今から二千五百年も前にギリシァで発展したものの考え方のことです。

 はじまりはソクラテスの問答法です。ソクラテスはあるとき、神から「おまえがいちばん賢い人間だ」と告げられたことを確かめるために人びとと問答することをはじめました。その結果たどり着いたのが、「無知の知」という考えです。つまり、「ほかの人たちは自分が無知であることを知らない。しかし、自分はものを知らないかを知っている。その分だけ人よりも賢いのだ」ということでした。

 そのようなソクラテスの考えのすすめ方をのちにプラトンが対話篇という著作で仕上げました。人と人との質問と答えのやりとりがしだいに人間の意識に取り入れられて、個人のものの考え方へと発展するのです。このように、ものを考えることは、もともと自分の外にいる人たちとの「対話」としてはじまったわけです。

 聞いてみればまるで当たり前のようなことですが、今の子育てや教育のなかで、どれだけ「対話」が成り立っているでしょうか。テレビで行われる政治家の討論会や国会の議論などは、いかに「対話」が成り立たないかという見本のようなものです。むしろ政治家は自分の身の安全のためにまっとうな「対話」を回避しているように見えます。わたしたちの日常生活でもお互いの発言が「対話」になっているでしょうか。相手の話をしっかり聞いて、それにふさわしい答えをしているでしょうか。

 子どもの精神の発達にとっても「対話」は大切だといわれます。「対話」とは単にコトバがかみ合うという形式的なものではありません。人と人とが全人格をもって向き合うことです。もちろんコトバが直接の手段ですが、それに加えて人としての意識・感情・心理が向き合うことなのです。その中でコトバの能力が鍛えられるし、人格も磨き上げられます。わたしは来年度の授業にどのように「対話」を生かそうかといろいろと思案中です。


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