コトバ表現研究所
はなしがい137号
1997.12.1 

 今年の四月のことです。夕方、妻とふたりで商店街に買い物に出かけました。商店街までは五分ほどですが、今の家に引越す前は四、五十歩で商店街に出ましたから買い物もおっくうな感じです。

 その日、わたしは新規開店の一軒を見つけました。居酒屋風の店ですが明るい店構えがちょっと高級な感じでした。
 「シャレた店だね」
 わたしは妻に声をかけました。
 「そうね、日本酒がずいぶん並んでいるわね」
 通りから厨房をのぞけるウィンドウには、数本の一升瓶が並べてありました。
 「こんど来てみようか」
 わたしがいうと妻も同意しました。

 翌々日、専門学校での授業を終えて講師室にもどると、なつかしい顔が見えました。中学を出て入学する高等科の卒業生のMくんでした。
 「ひさしぶりだね」
 「こんにちは、十五年ぶりです。先生も、お変わりありませんね」
 話を聞くと、卒業してから関西で日本料理の仕事をしてきて、こんど東京に店を出したというのです。それでアルバイトの学生を紹介してもらうために学校を訪ねてきたのでした。
 「店はどこ?」
 「池上線の長原です」
 「へえ、うちは長原の近くだよ。どんな店?」
 「日本酒を飲んでもらって食事もできるような店です。日替わりの煮物なんかも出しています。勤め帰りの人が三千円くらいで飲める感じです」
 わたしの心に二日前の店が浮かびましたが、まさかそんなはずはないと思いました。日ごろ妻からあなたはなんでも知ったものを結びつける癖があるといわれていたからです。  「なんという名まえの店?」
 「あじさいです。味わうの『味』に色彩の『彩』です。アジサイの色が変わるように、毎日いろいろな味を味わってもらいたい気持です」
 わたしは驚きました。それはまさしくあの店です。看板に書かれた「味彩」という文字を見てふたりで「みさい」か「あじさい」かなどと話し合ったのでした。
 「見たよ、その店を。おととい通ったばっかりだよ」
 わたしが叫んでもMくんは冷静に受け止めて「先生、こんど、ぜひ来てください」といいました。わたしは必ず行くよと約束しました。

 それから半年の間、わたしは味彩に行けませんでした。しかし、妻の買い物に付き合って味彩の前を通るそのたびに、店員は見つかったかな、客は入っているかなと必ず厨房をのぞいて見ました。Mくんの姿を見かけることもありました。店員は常時ひとりかふたりはいるようでした。

 わたしがはじめて味彩を訪ねたのは十一月末のことでした。妻とふたりで結婚二十周年を祝うつもりで行くことに決めたのです。
 店の戸を開けると店内は三十人が入れるほどの広さでした。中央に四人がけのテーブルが三つ、右手は座敷、左手がカウンター席です。半分ほどの席がサラリーマンでうまっていました。
 「こんばんは」と声をかけるとカウンターの中からMくんが顔を向けて笑顔で答えました。
 「あっ、先生、いらっしゃい。どうぞ、カウンターにどうぞ」
 「いい店ですね。とても感じがいいなあ」
 カウンターの上には五、六種類の煮物が大皿に入れられて並べてあります。どの料理も色彩やかに美しく仕上がっています。
 わたしたちは残念ながら日本酒が苦手なのでレモンサワーを注文しました。そして、壁の黒板に書かれたメニューからカワハギの刺身を注文しました。しばらくすると、美しい盛りつけで出てきました。
 「キモしょうゆでどうぞ」という説明がわからないのでMくんにきくと笑いながら教えてくれます。
 「調理師学校の先生なのに、知らないんですか、おれが生徒だったのに、逆になっちゃったな」
 それから、タラのしぐれ煮、メゴチの天ぷら、関サバの刺身、生ガキなどを注文しました。どれも美しく盛られ、食べておいしいものばかりでした。
 Mくんは白い帽子をかぶって紺の作務衣に白い前かけ姿で、目の前で見事な包丁さばきを見せてくれます。その合間に、いろいろな話ができました。
 十五年前に学校を卒業してから、湯河原、大阪、京都と日本料理の店ではたらきました。その中には一流の高級旅館の名もありました。わたしは一つ一つの料理の仕上がりを見ながら、さすがだなと思いました。しかし、「修業したなどというのはおこがましい」とMくんはしきりに謙遜しました。
 Mくんは、わたしが専門学校につとめて間もなくできた中学卒業生のためのコースの一期か二期の卒業生です。当時の生徒たちのほとんどが中学校でのいわゆる「おちこぼれ」でした。学力も低く、気力を失ったような生徒が目立ちました。
 Mくんについても、わたしはおとなしく落ち着きのある生徒という印象がありました。そんなことをいうとMくんは冗談めかして笑顔でいいました。
 「そんなことありませんよ。なにしろ停学を三回も受けたんですから。あのころはけんかばかりしてました」
 そういえば、友だちと組み合っているMくんを引きはなしたような記憶もあります。しかし、わたしには、そんな生徒たちに困らせられたとか、うらみがましい気持はまったくありません。
 わたしはMくんの料理を味わううちに感動に近い思いで涙が出そうでした。あのときの生徒がこんなに立派な料理を作るようになって、しかも店まで持てるようになったのだ。
 途中でガスが漏れて調理を中止するという事故がおこりましたが、いっしょにはたらいている「リカちゃん」と呼ばれるかわいらしい丸顔の女性がてきぱき処置をして大事には至りませんでした。
 「開店の前日は、お客が来なかったらどうしようかと思って眠れませんでしたよ。しかし、八カ月して常連のお客さんも来てくれるようになりました。今日は暇な方だから、先生には、もっとこんでいるところを見てほしかったなあ」
 わたしはふと思いついてMくんに結婚しているのかどうか尋ねてみました。今日がふたりの結婚記念日だということを口にしようかとも思っていました。しかし、まだひとりだというので話すのはやめました。わたしはMくんの店がますます繁盛して、いつか家庭を持ってもやっていけるようならいいなあと祈るような思いで店をあとにしました。

 風が出て冷え込んできた夜道をふたり並んで歩きながら、わたしは独り言のようにいいました。
 「Mくんは、まだひとりだったんだ。だれかいい人がいるといいんだがな」
 すると、妻が「うふふっ」と笑いました。
 「ばかね。見てなかったの。すぐそばにいたでしょ」
 わたしは一瞬、だれのことなのかと迷ってから、はっと気がつきました。あの丸顔の若い女性です。Mくんの話では、学校にいるころから、アルバイト先の同僚としていっしょにはたらいていたのだそうです。
 「ああ、そうか。そうなんだ」
 わたしは、ほっとした思いになりました。空を見上げると、たくさんの星が輝いて見えるきれいな夜でした。


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