わたしはここ数年、日本の社会における個人の責任のとり方について考えています。今年、亡くなった政治学者・丸山眞男が「日本の社会の特徴は、だれもが責任をとらないところにある」という意味の発言をしていたのをしばしば思い出します。 専門学校で授業中おしゃべりしている生徒を注意すると、「おれだけじゃない」とか、「こいつが話しかけたから話した」と言い張る生徒がいます。ほとんどの生徒が自分の非を認めず他人に責任を押しつけます。中学卒業の生徒たちばかりでなく、高校卒業で入学した学生でもめずらしくありません。 わたしが生徒を注意するときに期待しているのは、「あっ、ごめんなさい」というごくかんたんな一言です。それなのに、生徒たちは自分がおしゃべりしたことさえなかなか認めようとしません。 自分がしたことを認めたら、教師の罰を引きうけなければならないので、どうにかして逃れようとするのでしょう。しかし、社会でまちがいを問われるのは当然としても、教育の場である学校で罪を逃れることにきゅうきゅうとするのは不幸なことです。
『This is 読売』の9月号は「教科書 これだけは言いたい」という特集でした。タイトルにひかれて読みましたが、おもしろいとは思いませんでした。しかし、近ごろの社会科教科書に批判的な立場の人たちの意見がおよそわかりました。 近ごろの教科書批判は、日本の戦争に関する問題の取り上げ方を攻撃するものです。「自国の歴史の暗い面ばかりとりあげる」「自国の歴史に誇りをもたなければならない」「わが国の過去の中で自ら犯した過ちだけでなく、誇るべき点をも明らかにすべきだ」などといわれています。 わたしは、この人たちは、もしかして戦争に関わる記述そのものを減らしたいのではないかと思いました。それが日本の戦争の責任を回避する道につながっているような気もします。 阿部謹也氏は、そんな人たちの期待をうまくかわして、日本の「誇り」とすべきことをあげています。
(1)西暦810年から1156年まの346年間にわたって死刑が行われなかったこと。 阿部氏がなによりも嘆いているのが、現行の教科書の読むにたえないつまらない書きかたです。わたしにも覚えがあります。そうなるのは、教科書が強制的に買わせるものであることが原因です。このような視点からも検定制度を問題にできるでしょう。
わたしが関心を持ったのは、特集外の三浦朱門「若者へ―「酒鬼薔薇事件」と二枚舌社会の欺まん」です。これはしたたかな文章です。マスコミが左翼的であるように暗示して、マスコミを批判しています。しかし、わたしはむしろ右に寄っていると思っています。三浦氏はマスコミの進歩的な傾向そのものにがまんがならないようです。 三浦氏は、酒鬼薔薇事件に対するマスコミの反響を「悪いのは家庭、学校、社会という大人たちの大合唱」ととらえています。そして、「社会と学校と家庭がよくならなければ、こどもはよくならない」という考えは左翼の論理であり、それがマスコミの論調だと批判しています。 三浦氏の論は、マスコミが社会や学校や家庭の問題をとりあげて検討することを牽制することになります。しかし、その反面、次のように若者への積極的なよびかけもしています。 「家庭と学校と社会にすべての責任があるとするのは、考えようによっては、若い人を侮辱する考えである。若者が自分の行動を自分の責任と考える時、はじめて本当の自我が目覚めるのである。私が悪かったと言えない人には、自我の尊厳も自身もありえない」 ただし、この雑誌の読者層を考えると、三浦氏の提言も「おとなたち」に向けたマスコミ批判にすぎないような気がしてきます。それでも、社会における個人の責任と道徳を考えさせる刺激となる部分がありました。 三浦氏は、日本人の戦争責任の追求の問題を示すために作家らしい具体例をあげています。「酒屋のオヤジ」の戦争責任です。「戦時中に、戦意高揚のために、軍服風の制服を着て住民を強迫し、女性が普通の和服を着て外出しようものなら、戦時下の現在を何と心得ると、人前でつるしあげた」といいます。 戦争の責任を問われると、この人は言います。 「自分は(中略)お役目上そうせざるをえなかった。悪いのは、当時の町会幹部にある」 すると、町会幹部は区役所へ、区役所は軍へと責任を転嫁するような言い訳をすることになります。 終戦直後に権力者たちの戦争責任が問われているときに、こんな例をあげたら問題にされたでしょう。しかし、現代社会における責任の問題を考えるためには有効な実例だと思います。まさに、ここには責任をとろうとしない日本の社会の典型があります。
自分の罪を引き受けずに言い逃れをする子どもにとって、学校は処罰の場です。本来の教育は、子どもたちのまちがいや失敗をゆるしながら、次に起こるまちがいや失敗の避けかたを教えるものです。そのためには、まず自分がなにをしたのか自覚する必要があります。わけがわからずに行動しているかぎり、責任の意識は生まれません。あまりに早い責任回避は、自分自身の行動の自覚すら失わせます。 学校の教師にも責任はあります。自らの責任の範囲で、教室を責任の自覚の場に変えられるはずです。もちろん、責任の問題は教師ばかりにかぎりません。家庭や社会においても、たとえ限られてはいるにしても、それぞれの人たちが、自ら責任をとりうる範囲内で努力できることはあるはずです。 わたしたちの責任が問われるのは、それまでの状況を受け入れるだけでなく、状況を変えようとするときです。そのとき、わたしたちは、自分自身に本当にそうなっていいのかと問いかけます。それが責任の自覚です。責任とは、それまでの習慣や考えから抜け出ようとする変革の意志なのです。
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