コトバ表現研究所
はなしがい133号
1997.8.1 
 先日、主婦たちのコトバ勉強会のグループの講師をしたあと、喫茶店の反省会で父親の役割が話題になりました。神戸の中学三年生の連続児童殺傷事件について、容疑者は家庭でどんな教育をされていたのかという話になったのです。

 ある人が「不登校の家庭の母親を三人知っているけれど、どの家の父親もおとなしくて何も言わないような家庭だ」といいました。そして、神戸の事件の家庭についても、きっと父親が弱くてしっかりしてなかったのだろうというのです。

 わたしは、青少年の事件が起こるたびに家庭での父親の役割が問題にされたり、ラジオの教育相談で必ず「お父さんはどのようにお考えですか」と尋ねるカウンセラーのことなどを考えました。

 たしかに、家庭での父親の役目は大きいものです。しかし、問題解決の特効薬のように父親を登場させることには疑問を感じていました。問題は父親がどんな理念で子どもをどう教育するかにあると思えたのです。

●「父性の復権」とは

 そんなことから、以前から書店で見かけていた本を買いました。林道義(はやし・みちよし)『父性の復権』(1996中公新書699円)です。昨年の春、出版されたときにも見ましたが、タイトルから内容を予想して買うのを躊躇していました。「父性」から「父親の権力」、そして「天皇の地位」という一時期はやりだった政治的な発言を連想したからです。

 しかし、そんな本ではなくて、「父性」ということばを根本から問いなおして、父親の立場をいろいろと考えさせてくれるいい本でした。

 林さんは東京大学法学部を出て大学院で経済学を修め、今は東京女子大学で深層心理学を教えているようです。著書にはドイツの思想家マックス・ウェーバーと心理学者ユングに関するものがあります。

 わたしは「生まれつき」を重視するユングの心理学の考えや、文学作品の心理学的な解釈には感心しませんでした。そのかわり、社会的な観点からとらえられた現代日本の若者の意識状況や、戦中派―団塊世代―団塊ジュニアの系列で時代精神をとらえた点などには強い関心を持ちました。

●「秩序感覚」と現代の若者

 林さんは最近の女子大生たちの授業中の態度についてこんな経験を紹介しています。授業中、目の前で堂々と「内職」をしていたり、「アクビ」をするなというと不思議がる学生がいるというのです。

「こういう学生を叱るのは、じつに骨の折れる仕事である。つまり、『なぜ悪いのか』を分からせるのに、たいへん苦労するのである。」

 林さんは「父性」が育てるべき原理の中心に「秩序感覚」を置いています。若者の意識にそれが欠けているのがまず問題だといいます。また、その危機について一般の認識が欠如していることも指摘しています。わたしも同感です。林さんがこの本を書こうとした動機は、ここにあるのだと思います。

「その問題(引用注・校則の要不要)を押し拡げれば、世の中に秩序やルールというものが必要なのか不必要なのかという問題となる。そういう次元のことがじつは問題になってきているのだという認識が、大人のあいだに不足しているのである。」

●「父性」と父親の役割

 林さんのいう「父性」とは教育における原理のようです。しかし、そのはたらきが父親の役割と重なる部分が多いために、書き方にやや混乱があるようです。それで理解するのがむずかしく感じられます。

 わたしは「父性」を「秩序感覚」を生みだすための教育原理ととらえました。次のように二つの原理のキーワードを比較すると、とらえやすいでしょう。

・父性――間接的、距離、遊び、対抗、権威、客観的、抽象的、理念的など
・母性――直接的、密着、世話、共生、日常、命、心理的、具体的、項目的など

 林さんも「父性」の発生の説明には苦労したようで、ゴリラやチンパンジーの親子の例などを用例にしています。ですから、おわりの章で父性は父親だけがもつべきものではないと断っているのですが、誤解させる余地は十分にあります。本の前半では父親のとるべき態度のように書かれているので、どうしても原理ではなく方法のように読めるのです。

 家庭教育の具体的な方法を示唆するものとしておもしろかったのは、ドイツの社会心理学者アドルノらによる家庭教育の調査でした。第二次世界大戦でナチスドイツを成立させた反省から「権威主義的パーソナリティ」の研究をしました。この性格の度合から「高得点者」と「低得点者」に分けて、それぞれの家庭教育のちがいの聞き取り調査をしました。

 何よりも重要だと思うのは、「しつけ」の基準のちがいです。「高得点者」の家庭では、個々の規則に従うか違反するかの外的なもので、社会的な上昇に役立つような約束ごとや規則を押しつける傾向があります。それに対して、「低得点者」の家庭では、正直、誠実などの「原理」を重んじて、原理に対する違反に厳しいという傾向でした。

●新しいモラルと教育の理想

 わたしは、林さんがこれからの日本で教育すべきだという新しいモラルの提唱に賛成です。

 1.「美しいか美しくないか」――「美的感覚が道徳の基礎だ」(与謝野晶子)
 2.「礼儀」という観点――「迷惑をかけるかどうか」を越えて相手に与える感じの考慮
 3.その場に「ふさわしいか、ふさわしくないか」――時と場合を考えて行動する能力
 4.人間としての品位

 わたしが林さんの本を読みながらずっと思い浮かべていたのはフランスの教育哲学者ルブールのいう「ユマニテ」の精神です。林さんのあげている多くの原理は、まさに人間にとって基本的に求められるものです。それをわざわざ「父性」という原理で括らねばならないのか疑問に感じました。

 父性と母性とは対立することばです。まとめの章で林さんは、母親でも「父性」をもつことができると書いています。となると、問題は、父性と母性を越えたところにある教育の理想的な原理は何かということになります。

 教育の原理は、父親も母親も共通に持つべきものです。それを前提にしてこそ、家庭教育におけるそれぞれの役割も明確になることでしょう。


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