コトバ表現研究所
はなしがい131号
1997.6.1 
 インターネットにホームページを開設しました。毎日のように手を入れて更新中です。アドレスは、http://www2s.biglobe.ne.jp/~kotoba/index.htm です。内容は二本立てで、わたしが事務局長をつとめる日本コトバの会の宣伝とコトバ表現研究所に関するものです。そのほか、おすすめするの本のコーナーも作りました。ゆくゆくは「はなしがい通信」のバックナンバーや教育論も掲載するつもりです。

 ホームページというと、ふつうはカラフルなイラストや美しい画像を取り入れたヴィジュアルなものを目ざすのですが、わたしはあえて文字とコトバにこだわりました。たしかに、画像などの視覚的なものは、ものごとの理解を助けてくれます。説明のむずかしい複雑な機械の形などは、図にしたほうがわかりやすくなります。しかし、日ごろ視覚的なものにたよっているために、そのものが見えさえすればわかった気になる危険もあります。

●文字とコトバのホームページ

 わたしが文字とコトバにこだわるのには三つの理由があります。

 まず第一に、技術が未熟なので作るのがめんどうだという理由です。わたしはホームページを個人でまとめる書物のように考えていますから、画像を入れる技術を勉強するより、内容の充実をはかりたいという気持があります。  第二に、ホームページの物理的性質によるものです。わたしのプロバイダ(個人のパソコンをインターネットにつなぐ業者)に預かってもらえるホームページの容量には5MB(メガバイト)という制限があります。およその計算で、文字データなら四百字原稿用紙で六二五〇枚、単行本二〇冊分ほどの情報が入ります。

 ところが、画像を入れようとすると、ちょっとした画像ファイルでも原稿用紙六〇枚分ほどを占めます。それに、画像が入るとホームページを閲覧ソフトで読みこむのに、いらいらするほど時間がかかるようになるのです。

 第三に、ヴィジュアル先行の風潮に対して、まだまだ文字で表現できるし、むしろ文字とコトバによる情報こそコミュニケーションの原点だと主張したいのです。でも、それが実現できるかどうかは、これからの更新作業にかかっています。

●コンピュータ時代の教育論

 つい最近、以前に買って積んであった佐伯胖(ゆたか)『コンピュータと教育』(1986/2岩波新書)を読みました。自分がホームページを作成した経験を教育に結びつけられないかと思ったからです。

 読んで驚きました。教育への単純なコンピュータの導入について書かれた本ではなく、人間が記号を使ってものを考えるという思考の原点から説きあかしていたからです。

 まず感心したのは「コンピュータをブラックボックスにしてはいけない」という主張です。ブラックボックスとは、黒くて中が見えない箱のことです。何かを入れると入れたものに操作が加えられて出てきますが中の原理は分かりません。「とにかくコンピュータに慣れればいい」などといわれますが、著者はそれには反対します。コンピュータをブラックボックスにしたら、教育ではないというのです。

 ほかにおもしろかったのはコンピュータの二つの性格の話と「知識」の有効性の話でした。

 第一点では、著者はコンピュータの性格を「考える機械」と「思考する道具」とに分けています。コンピュータ開発の目標も大きくこの二つの傾向に分けられます。「考える機械」としては人工知能やロボットの研究です。「思考の道具」としての研究は、いかに人間にとって使いやすいものになるかというものです。この両側面が相互におぎないあってコンピュータの未来がひらけるといいます。

 第二点は、「知識」は単なる知識ではないという主張です。一問一答のようなかたちで蓄積された知識はほんものではない。ちょうどコンピュータのデータベースのように、たくわえられた知識が他の知識との関連で活かされるものだと考えています。

 データベースにある情報は、いくつかの項目に分けられています。たとえば、ある人の情報は、姓、名、性別、年齢、住所、電話番号などに分けられます。何万何千のデータでも、コンピュータを使うとすばやくかんたんに必要な情報を取り出したり、まとめたりできます。

 本物の知識とは、必要に応じて、ある面から他の知識との関係を考えたり、組み替えたりできるものです。今の教育は「知育偏重」などといわれますが、問題は知識の量ではなく質です。わたしは本物の知識はまだまだ不足していると思っています。

●歴史の知識と時代

 先日あらためて基本的な知識を教えることの重要性を感じました。担当する専門学校の社会の授業で、学生たちの知識不足を実感したからです。

 社会では、おもに現代の社会の問題をとりあげます。現代を知るために、現代とはいつなのか話さねばなりません。そのためには、明治以来の近代の歴史をたどっておくことが必要になります。

 どんな勉強でも基準となる知識というものがあります。わたしは明治時代以降のいくつかの年代の知識がそれにあたると思います。とはいっても、大げさなものではありません。出発点としては、明治維新が一八六八年、終戦の年が一九四五年、明治、大正、昭和、平成と年号が変わったこと、明治が四十五年、大正が十五年、昭和が六十四年まで続いたというほどの知識でいいのです。

 そんなことは常識だろうと思っていました。ところが「明治維新は西暦何年だったか」という問いに答えられる学生はどのクラスでも数人です。恥ずかしがっているのかと思ったのですが、ほんとうに知らないのです。高校で日本史をやらなかったという学生が大多数で、学んだという学生でも「明治からあとはほとんどやらなかった」といいます。  そんなわけで、わたしの社会は今年も、明治からあとの歴史や戦後の歴史の概略を話しながら現代の問題に近づいていくことになります。

 子どもたちにとって、社会がブラックボックスであっては困るのです。コンピュータを使いこなすのに人間の能力が前提となるように、社会の内容を説きあかすために、基準となる知識が重要なのです。それは子どもばかりでなくおとなにも言えます。


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