コトバ表現研究所
はなしがい126号
1997.1.1 
 新しい年を迎えました。今年は牛どし、牛はスローなもののたとえです。「牛の歩み」「暗がりから牛を引き出す」といったことわざもあります。

 一般にスローはマイナスに思われていますが、まんざらそうとばかりはいえません。先月ご紹介したアランもゆっくりした教育の必要性を唱えていました。ゆっくりした教育こそ、ものごとをよく考えて判断のできる人間を育てるというのです。

 わたしは、オリヴィエ・ルブール『人間的飛躍―アランの教育観』(1996年。勁草書房)を読んでからアランにとりつかれてしまったので、今月もつづいてアランの教育論のエッセンスをご紹介します。前月ご紹介した「第一章 教育と政治」は総論でした。続いて、第二章 子供と大人、第三章 家庭、学校、遊び、第四章 教育学、第五章 教養、第六章 障害、結語 人間的飛躍とユマニスムの問題、となりますが、記憶に新しい第六章からご紹介します。

 この章の中心問題は、子どもの教育において何が障害になっているのかということです。それは当然、子どもをどう見るかという考えにつながります。

●教養の基礎と子ども

 アランの教育をかんたんにいうなら、子どもに教養をつけさせて人間に育てあげる、ということになります。教養などというと、一般には学ぶほどの価値のないものと思われがちですが、アランは教養こそ教育の中心だと考えます。その軸となるものが二つあります。古典文学と幾何学です。古典文学というのは、ギリシアの叙事詩や聖書など人類の歴史に残された文学です。そして、幾何学というのは図形を使って論理的なものの考え方をする訓練です。この二つこそ教養を受けいれる基礎だといいます。

 アランは子どもたちの潜在的な意志を生かして、人間的飛躍をさせるのが教育だと考えます。子どもには、おとなになりたい、今の自分を越えたいという欲求があります。それを子どもたち自身に発揮させるのが教育の仕事です。しかし、人間的飛躍の障害となるものをとらえておく必要があります。 「子供は新しいことを試そうとする場合にすべて、まず事は簡単であると考え、次いで、その逆の誤りに陥り、事は不可能であると考える。この思いあがりと落胆の入れ替わりが克服できるには、教師の指導と教科に段階を設けることしかない」

 アランは、いわゆる生活に密着した知識のようなものは教育の問題ではないといいます。子どもたちが初めからおもしろがって、とっつきやすい勉強は本ものではないと考えます。ひとりで取り組むのが困難な問題を、深く考えられることに本来のおもしろさがあるというのです。しかし、子どもたちがひとりでそこにたどりつくことは困難ですから、その手助けをすることが教育者の役目となります。

●情念と子ども

 子どもたちの人間的飛躍をじゃまするのは、自らのいだく情念です。情念というのは、怒り、怠惰、注意力散漫、愚行などのことです。教育者は子どもたちの情念を単純に抑圧するのではなく、その奥に秘められているものを見る必要があります。

 情念についてのアランの分析には、まるで心理学者のような深さがあります。たとえば、すべての情念の下地としての「興奮」をとらえています。興奮とは特別に異常なものではなく、「嬉々とした高ぶり」、「あり余ったエネルギーの連鎖的な爆発」なのだといいます。それが問題になってしまうのは、おとなたちが、子どもに羞恥心と怒りを起こさせるような対応をするからです。興奮している子どもたちを「粗暴だ、愚かだ、横柄だ」などと決めつけるので、なおさら子どもが暴れるようになるのです。

 また、「怠惰」や「臆病」なども、子どもたちが「うまく行かない」「努力してもむだだ」と思いこむ「運命論的な観念」が原因だといいます。だから、おとなや教師がすべきことは、子どもたちを勇気づけることなのです。

●アランの道徳教育

 アランの子ども観の基礎には、フランスの思想家ルソーの考えがあります。

 「重要なのは性格を変え、本性をたわめることではなく、逆に、これを行けるところまで遠くへ押しやり、磨きあげ、そのいいところを失わないようにしてやることだ。なぜなら、そのようにしてこそ人間は、いまの能力いっぱいのものになるからだ」

 アランはさらにすすんで、子どもたちの短所とされるところが逆に長所となる可能性も見ています。

 「子どもの正しい書体が金釘流から生まれるように、子どもの暴力を勇気に、強情を誠実に、遅鈍を粘り強さに、虚栄的野心を教わりかつ教えたいとする願望に、転じることができる。……各人は、自分の欠点から、この欠点に似た(もっと正確にいえば、自分に似た)美徳を引きだすことができる。」

 そして、教育者には「尊敬」と「信頼」が要求されます。「尊敬」とは、子どもたちの私生活を詮索するような無遠慮を避けるとともに、愛情の押し売りもしないことです。非現実的な美徳を説くのでなく「汚れている者を洗ってやること。できれば、ボロをまとった者に着せてやること。自ら、義と善とを実践すること。子どもたちを赤面させないこと」が必要です。「信頼」とは、努力の芽生えを認めて勇気づけることです。子どもを絶望させたり、屈辱を与えたりせずに、自信をもたせることです。「粗暴で怠け者でうそつきで悪いやつだ」という決めつけは、「運命的な観念」の植えつけになります。

 また、アランは道徳も重視していますが、それは自由を実現するためのものです。

 「アランがだれよりもよく承知しているのは、礼節とは目的ではなく、自己統御の、数ある手段のうちの一つの手段にすぎない。」「真の教育とは、意志の教育であり、自力教育でしかあり得ない。なぜなら、だれも、他人に代わって他人を統御できないし、他人のために決断できないからだ。」

 アランの教育論の根底は、ユマニテと称する人間性への愛です。「人間が人間を信じられるようにするこの人間信仰、証拠がなくても、いやあらゆる人間が精神において平等であるとの原理に立っており、たとえ外観が絶えずこの原理を裏切っても、人間としての形あるものは何であれ一個の人間である。」

 そして教育者には、子どもたちに自らと対等な人間を発見することが求められます。「各生徒のなかに、同類とか対等者とかを発見することである。赦さないで求める。あきらめないで期待する。」

 ここにもゆっくりとした教育の主張があります。


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