コトバ表現研究所
はなしがい125号
1996.12.1 
 今月は遅れたことをお詫びいたします。なにしろ十五年振りの引っ越しがやっとすんだところなのです。今月八日から表記の住所に移転しました。電話とファクシミリの番号は変わりません。というわけで、ここ二週間ばかり考えることができませんでしたので、最近、感動したオリヴィエ・ルブール著『人間的飛躍 アランの教育観』(1996年。勁草書房)からアランの教育論のエッセンスをご紹介します。アランはフランスの思想家で、自ら学校の教員をしていた人です。せまい意味での教育論ではなく思想と言える考えを展開しています。その思想のポイントを著者のルブールが的確に紹介しています。

 「人間的飛躍」というのは、アランの弟子がアランの教育論の本質をとらえたことばです。つまり、子どもたちの人間としての飛躍を目ざすのが教育の目的だという考え方です。

 全体は次の六章の構成です。第一章 教育と政治、第二章 子供と大人、第三章 家庭、学校、遊び、第四章 教育学、第五章 教養、第六章 障害。

 あちこちにすばらしい考えを発見しましたが、あまりにたくさんなので「第一章 教育と政治」だけから紹介します。(著者のことばの引用は「 」、孫引きは『 』、引用のタイトルはわたしです)

●序より

・観察から出発する作文教育――「ラテン語やギリシャ語を詰め込み、文章の規範を叩き込むまえに(というよりその代わりにというべきか)、川を自由に観察させたり機械を自由に分解させたりしてから、これらを叙述させるべきだ。これが文章を書くには恰好の方法である」

・子どもの人間的飛躍を見ること――「どんな子供にもある、大きくなりたい、自分を越えたい、一人前の人間になりたいとする欲求である」

・カントの子供観――『子供を教育するには人類の現在の状態を範とするだけではなく、可能な、人類の、将来の、より良い状態を模範としなければならない』(カントは十八世紀のドイツの哲学者)

・人間的飛躍のための教育――「教育とは、個々の子供において、人間的飛躍を、その目標のほうへ導いてやる技術である』

●第一章 教育と政治(アランの教育論の基礎となる国家や社会についての考えが述べられます)

●第一節 権力

・熱狂なき服従――『服従しながら軽蔑するのが王者である』(アラン)「服従のおかげで各人が自分自身の暴力を克服し、自分の判断を自由にできるからだ」「彼の軽蔑するのは彼らの権力だ。それはまた……われわれ自身の内にある権力指向に対するものなのだ」

・思考による抵抗――「思考のみが偏見と集団的狂信を解体させる」「沈黙を守るのをいさぎよしとせず、『政治にかかわること』、公開の集会において報告を求めること、一切の悪習慣を新聞で叩くこと」

●第二節 民主制と教育

・民衆の能力形成の教育――「教育の役割は、声なき多数が自分の考えを述べられるようにしてやり、民衆の知恵が理解され、応用されるようにしてやることである」

・なぜ工員にも数学を教えるのか――「恐怖も夢想も抱かないで世界に立ち向かうことができるような、そうして、いいことであれ悪いことであれ、われわれには何も求めて来ない事物の大きな仕組みが理解できるような、そういう現実を与えてやることを意味している」

・文学教育で人間を育てる――文学教育によって「民衆は自分を表現できるようになる」「プロレタリアは……選挙の立候補者とか組合委員長とかに、犠牲的精神の部分と立身出世欲の部分、信念の部分と偽善者の部分がカギわけられるようになる」

・民衆の教育――「アランが求めているのは、掃除夫が皆、技師になることではなく、掃除夫が掃除夫のまま教養を身につけること、そうして、ユークリッドにもホメロスにも無縁でないことである。」「われわれの第一の欲求は啓発されたエリートを得ることではなく、啓発された民衆を得ることである」『万人に、地位へ近づく道を開いてやることではなく、人類の知的かがやき≠ヨ近づく道を開いてやることだ』(アラン)

・ゆっくりした教育の必要――「速成的である、というのが教育の現状であり、依然として度を過ぎている。最少の時間で最大のことを教えようとするその意図は、教育に反するばかりでなく、民主制に反する。その結果、先頭集団を選ぶことになるからだ」。教育とは「機械の性能を最大に出そうとするようなものではなく、『運転手から精神を救うような』(アラン)ものである。「『ゆっくりとした』授業法が必要である。そうすれば、弱者も花開き、出来のいい者自身、知識をしっかりと根づかせることができる」「この教育が作ろうとするのは、数学者ではなく、判断力のある人間である。つまり、経験を判断する精神力を自分の中に保てる人間である」

・教養の教育こそ真の教育である――科目選択教育というものがあります。「自分の適正と趣味に応じ、自分で自分の進路を定め、最も才能に恵まれていると自分自身自ら評価するか、あるいは評価される科目を伸ばし、他の科目においては軽い授業だけでいいとか、授業そのものを受けなくていいとかいう、各子供にまかされた可能性のことである」。アランは反対します。「万人に選択という幻想を与えながら、エリートを選り分ける最も偽善的な手段となる」「専門家は得られても人間は得られない」

・国家と教育――「物と接触することのない観念論者と官僚とかが支配し、労働者が無教養を運命付けられた国家なら、民主制が存在しなくなる」「真の平等のためには「『仕事を分担することと知識を分担すること』、そうして上に立つ者の境遇と労働者の境遇が相互に絶えず往き来できることが必要だ」「今すぐ、あらゆる労働者に、長になれるための教養を与え、また土方に文字を与えればいい。だからといって、土方が土方を止めてはいけない」

●第三節 教育とユマニテ

・ものを考えるのは集団ではなく個人である――「群集であれ、会衆であれ、国家であれ、社会にはもともと考える力がない。集団的な概念というものはあっても、集団的な思考というものはない。……社会というものには少しも人間的なとこがない」「民主的な政治結社は存在するだろう。……しかし、それは、われわれの代わりに考えてくれる必要はない。ただわれわれが考えることのできるようにしてくれなければならない」

・人間性(ユマニテ)とは――「ユマニテとは、まずわれわれをすべての人間に結び付ける運命共同体を意味し、また社会の一員としてのわれわれが、破壊しないで覆い隠している本性を意味する。……現実の社会を継ぐような事実の世界でなく、現実の社会を超越し、これを批判する見えざる共同体である」

・文学への崇拝――「人間たちを偉大な作品に対する畏敬の念によって和解させ、人間をユマニテに同化させる『崇拝』というものがある」「人間はもしこれらの文学的記念碑や、あらゆる科学的思想がなくなると、獣よりも低いところに転落するだろう。のみならず、この崇拝は、……われわれが自分を発見できるようにしてくれるし、自分であることができるようにしてくれる。なぜなら、詩と芸術作品においてこそ、われわれは最もよく自分を判断し、自分の情念の鍵を発見し、自分の最も内奥の思考に光を当てて、自分固有の観念を説明できるからだ」

・民主制教育への期待――アランが教育の理想とする人物像は次のようなものです。「判断することができ、権力の陶酔と服従の陶酔に抵抗することができ、また恐れずに服従し、憎しみをもたずに抵抗することができ、そうして自分の責任を決して譲り渡さずに全うできる」ような人間。


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