コトバ表現研究所
はなしがい123号
1996.10.1 
 専門学校で社会を教えるようになってから、あらためて社会について考えさせられています。教育の目標というと、「社会意識を育てる」「社会性を身につける」「社会生活の能力をつける」などがあげられます。社会に適応する教育は、幼いときからはじまります。人と会ったらあいさつするとか、行動するときにはまわりの人を意識するとか、親や家族からしつけられます。

子どもにとっては身近なコミュニケーションが最初の社会ですが、成長するにしたがって、身近な世界がさらに広い社会にとり囲まれていることがわかります。ときには、広い社会に適応しようと努力したり、社会を改革しようと考えることもあります。それは個人がいきなり広い社会に接触して実現するわけではありません。けっきょく自分が直接に接している人や周囲とのかかわりを通じて、より広い社会につながることになります。ですから、「社会」についての教育も、社会の広がりをとらえるとともに、行動の仕方や人とのかかわり方の教育までが含まれなければなりません。

●イギリスの中等学校の生徒たち

 こんなことを考えたのは、ポール・ウィリス著『ハマータウンの野郎ども』(ちくま文庫。1996年9月)を読んでいるからです。

 著者はイギリスの社会学者です。人口約六万人ほどの工業都市の新制中学校(日本の中学校にあたる。十一歳から十五歳まで五学年制)の十二人の生徒たちの卒業の年から就職して六か月まで一年以上つきっきりで取材しました。そして、生徒たちにインタビューしてさまざまな話を引き出しています。録音したナマのことばを分析して、彼らの社会意識とイギリス社会における立場を分析した本です。一九七七年に書かれて、一九八五年に日本で翻訳刊行されたときから話題になりました。それが今回、文庫に収録されたのです。

新制中学校の卒業生の多くは就職します。学校に順応する生徒たちもいますが、インタビューされた十二人はいわゆる「落ちこぼれ」の生徒です。本の内容の半分近くを占める生徒たちの発言は、さまざまな分野にわたっています。授業、友だち、金、盗み、服装、セックスなどについて率直な発言があります。著者はそこから生徒たちの社会的な意識を読みとって、生徒たちの社会的な立場を明らかにします。授業中の生徒たちのようすは、つぎのように描きだされています。

「授業中はできるだけ仲間同士で寄り添うようにして、椅子をかりかりと引っかいてみたり、教師のちょっとした指図でも不満たらたらに舌うちしてみせたり、およそ椅子の上でとりうるあらゆる姿勢を試しているかのように始終そわそわしている。自由課題の授業中などは、おかしくてやれるかとでも言いたげに机に耳をあてて寝てしまおうとする者もいれば、まるでそっぽを向いてしまって窓の外を眺めたり、壁とぼんやり対面している者もいる。教室にはとらえどころのない不服従の空気が流れる。」

 わたしの生徒たちの態度と重ねて読みました。ただし、まったくこのとおりだったのは十五年ほど前のことで、最近では、こんなあからさまな態度はなくなりました。しかし、根本にはこのような意識がありそうです。おそらく、当人は自覚しないまま無意識にこんな態度をとっているのでしょう。

著者は生徒たちの態度の根本には、教師への反抗、さらには学校という制度への対抗意識があり、それが新たな文化を形成するものとみています。その文化の支えとなるのは、彼らの父親に代表される労働者階級の文化だといいます。つまり、中産階級である教師や学校という制度への反抗を実現するために、彼らは自らすすんで労働者階級の文化を選びとるのであり、そこに自信と誇りすら感じられるといいます。だが、それが父の代と同じ階級関係を若い世代が再び形成するになる皮肉を著者は嘆いています。

●日本の子どもたちの文化

 この本の時代背景は一九七〇年代後半のイギリス社会です。このような見方がそのまま現在の日本の状況に適用できるわけではありません。しかし、わたしには刺激になりました。

 わたしの教える専門学校の生徒たちの多くは、自営業者やサラリーマンの家庭の出身です。以前のように労働者階級とよべるような家庭の出身者は少なくなっています。しかし、教師への対抗意識や学校の制度への反感は明白です。

 しかし、イギリスの生徒のような積極的な反抗ではありません。わたしの記憶では、生徒たちの反抗に積極性があったのは、一九七〇年代後半までだったと思います。そのころはまだ、労働者の文化とよべるような価値観が政治や教育の体制を批判するときの支えとなっていました。しかし、今では生徒たちの支えとなるような文化や価値観というものは見当たりません。

●日本社会の未来と教育理念

この十数年間、日本の社会がたどった道すじを見ると、現状に対立する文化や価値観がないのも当然のような気がします。労働運動の衰退、国鉄の分割民営化、保守党の再編成、社会党の消滅などのすべてが、対立のアイマイ化につながっています。

イギリスの生徒たちは、労働者階級の価値観を支えにして集団を形成し、文化を形成しました。それは、イギリス社会の階級の固定化という不幸な一面を生み出しましたが、他方では、自らの価値観や文化を形成することになりました。それに対して、今の日本で、生徒たちが依拠するような価値観や文化はあるのでしょうか。人間と労働とに価値をおくような文化はほとんど失われています。ある教育学者は若者が労働の意義を見失い、きらっていることを大きな問題だとしていました。

社会が自らかかえる問題点を克服して行くためには、生き生きとした流動性を保つことが必要です。その原動力となるのは、社会に複数の価値観が存在することです。価値観の対立こそ、社会の発展のエネルギーとなるものです。いちばん困るのは社会が一つの価値観にくくられてしまうことです。近ごろはやっているディベートの教育は、こんな社会を活性化するための試みのひとつかもしれません。こんな社会において生徒たちにどのようにかかわるのか、それがわたしにとっての「社会」の問題なのです。


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