コトバ表現研究所
はなしがい122号
1996.9.1 
 先月、上巻を紹介したC・E・シルバーマン著『教室の危機――学校教育の全面的再検討(下)』(山本正訳。1973年。サイマル出版会)を、図書館で見つけてもらって目を通しました。下巻の中心テーマは「教育者の教育」です。アメリカの教員養成教育の歴史や教員養成の課題について具体的に書かれていました。おもしろい実践として、教員志望の学生たちに、台本つくりから上演まで演劇の体験をさせるというものがありました。しかし、下巻の全体は教育政策を中心に書かれていたので、わたしはあまり関心がわきませんでした。

 印象に残ったのは、学校教育のカリキュラムを考える基礎となる四つの原則でした。

 @独力で学び、問題を把握して、それを独力で「やりとげる」能力。これによって教師の指導から独立することができる。
 A独立して考え、「正しい批判的な疑問を呈し」、自分の直感に「きびしい吟味を加える能力」。これによって、他人の考えや意見から独立することができる。
 B美――人間によって作られた芸術の美同様、自然の美にも感応することのできる能力。
 C自分の考えや感情を他人に伝える能力。

●「教養」と人間の能力

 わたしがこの項目にひかれたのは、専門学校で今年から「教養講座」を担当しているからです。一口に「教養」といっても、おどろくほど広い分野の知識が含まれます。これまで国語や算数を教えていても、「この生徒たちに、どんな能力をつけたらいいのか。いま教えていることは、生徒にとって本当に必要なことなのだろうか」と考えつづけてきました。

 今年、教養講座を担当するときにも、「社会人の教養として必要な技術や能力とはなにか」と考えました。そして、とりあえずは専門学校で編集したビジネス知識の本をテキストに選んで授業計画を立てていましたが、「仕事に対する基本姿勢」「業務の実際」などという単元を見ると、「はたしてこの知識は学生に必要なものだろうか」と思いました。

 そのうちに、わたしたちが日常生活で必要な知識をどのように得ているかを考えることにしました。すると、新聞や本から得る知識が大きいことに思い当たりました。また、テレビを見たり、人の話しを聞くことも知識の基本となっています。

 そこで、わたしは、本の読み方と新聞の読み方から授業を始めることにしました。それから先は、話しの聞き方、話しの仕方、文章の書き方へと授業をすすめていく予定です。そんなわけで四つの原則に感心させられたのです。

●四つの原則の意義

 もう一度、四つの原則を見直してみましょう。すると、これは学校教育の原則だけでなく、一般社会人の自己教育の原則とも考えられます。大げさな言い方をすれば、人間教育の原則ともいえそうです。

 学校教育とは単なる知識を与えることではありません。人間にとってもっとも重要な能力は何かという問いかけから出発する必要があります。しかし、現実の教育内容は、ときの政府や社会の要請に影響されがちです。現代社会では、それが経済界からの要請であったり、政治の世界からの要請であったりします。それは目先の必要に追われた視野のせまい内容になりがちです。教育のカリキュラムは、五〇年、一〇〇年の先まで予測して考えねばなりません。四つの項目には、その手がかりがあると思います。

 @は、ひとりで学べる能力です。自学自習の理念といえます。今の学校教育では、「学びかたを教える」という面が弱いといわれます。かつて「自己教育の習得」が論議になったこともありますが、あっというまに立ち消えになりました。

 わたしはときどき生徒にいいます。「本当の勉強とは、自分で考えて自分で理解することだ。だから、先生がいなくなってからも、ひとりで勉強しつづけられる能力をつけてほしい。わたしはそのための方法も教えているつもりだ」

 Aは、考え方の個性化と自己批評の能力です。学ぶことは自分ひとりですることですが、ひとりよがりの勉強になってはいけません。それを避けるためには、自分の考えを他の人たちの考えと比較する必要があります。そうすることによって、自分の考えを見つめなおす能力がつけられます。

 Bは、芸術の美、自然の美に感動する能力です。感動という情緒的なことは生まれつきのものだとか、教育できないものだと思われるかもしれません。しかし、感動の基礎となる知識の教育はできますし、感動を経験させることもできます。たとえば、絵を見ることでも、好き勝手に見させる場合と、絵の見方を教育する場合では、見方に大きなちがいが出ます。教育の論議では、知・情・意などと人間の能力を分けて考えがちですが、情も意も知に支えられています。すべての面はひとりひとりの人間の人格において統一されていることを忘れてはなりません。

 Cは、コミュニケーションの能力です。自分が学んで考えたことや、美に感動したことは、他人に伝えることによってはじめて意味を持ちます。伝えた人は他人の理解を得ることで自分を確認します。伝えられた人は新たな知識や感動の姿を知ります。そこに知識や感動の共有が生まれます。

 わたしたちが毎日の暮らしで経験する人との交流には、自己教育の要素があります。お互いが人と人との交流で、お互いを教育しあっているのです。

●「教養」とコトバの能力

 さて、わたしの教養講座の学生たちは、どんな反応をしたでしょうか。たとえば、本に印しをつけて読むといった授業について、わたしはやや不安もありました。「こんな当たり前のことをやってバカにされないか」と思いましたが、意外な反応でした。「こんなことは知らなかった」「これはいい方法だ」「これから役に立ちそうだ」という声が聞かれました。

 じつは本に印しをつけて読む方法は、アメリカやイギリスの高校などでは授業で教えるのだそうです。しかし、わたしは学校で一度も教わりませんでしたし、教わったという学生はほとんどいませんでした。このような具体的な勉強の仕方については、学生たちはほとんど教わらずにきているのです。

 わたしは今後もコトバを中心に、自分で自分を教育できる能力こそ本来の教養であるという考えで学生たちとかかわって行こうと思います。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)