コトバ表現研究所
はなしがい121号
1996.8.1 
 週五日制、自由時間の拡大、コンピュータの導入などが教育の話題になっています。それらの課題が今後の教育にとって有効なものかどうか、これまでの教育の歴史との関係で考える必要があるでしょう。

 古本屋でアメリカの教育改革について書かれた本を見つけました。C・E・シルバーマン著『教室の危機――学校教育の全面的再検討(上)』(山本正訳。1973年。サイマル出版会)です。わたしの買った上巻は三百ページほどで、二段組みの小さい文字の印刷です。上下二巻なのでかなりぶ厚い本です。

 二五年前の本ですが、少しも古いとは思えません。一九六六年から三年半をかけて、アメリカの教育の現状について大規模な調査研究をして、教育の問題点を掘り起こし、教育改革の方向を提起しています。まず驚かされるのは収められたデータの量です。あちこちに引用された「実例」を読むだけでも、なにが問題なのかよくわかります。

 当時のアメリカで教育が問題になったのは、一九六〇年代のベトナム反戦運動、黒人解放運動、各地の大学の大学改革運動などの社会的な背景がありました。この本はたちまちベストセラーとなって、教育関係者必読の書といわれたそうです。

●アメリカの学校教育

 全体は四部構成で、第三部後半からは下巻です。
「第一部 教育的社会の時代――教育の危機と未来」は一九六〇年代がどんな時代なのか、なぜ教育改革が問題になるか書かれます。そして、教育とは学校だけのものでなく、テレビなどのマスコミや社会のさまざまな分野と関連すると述べられます。

「第二部 教室の危機――学校の欠陥は何か」は「実現されない平等」「従順を強いる教育」「学校教育の改革と失敗」の三章です。おどろいたのは、当時のアメリカの学校でも強制や圧力が問題になっていることです。生徒にやる気がないとか、自主性が尊重されないなどの問題があげられています。

「学校」にとって逃れられない性格として次の四つがあげられています。

(1)「強いられる」――子どもが望むと望まないにかかわらず、学校に行かなければならない
(2)長期間行かなければならない――一日五、六時間、週五日、年三、四〇週間、十二年間またはそれ以上を要する
(3)集団的経験――学校にいるということは群集の中にいるということである
(4)つねに何かが評価されている――言葉や行動が評価される・生徒と教師の間の力と権威のはっきりした境界線がある

 いま日本で問題の不登校やイジメの問題の根は、まさにここにあります。このような問題から脱するために、教育改革の具体的な方法があげられています。その一つに「チーム・ティーチング」があります。教師が複数で授業をする方法ですが、それぞれの教師がいかに工夫をこらしても、教育内容のまとまりが失われる危険があります。また、授業の工夫として、テレビを応用した授業が問題にされますが、けっして教師の授業にかわるものにはなりません。そして、早くもコンピューターの導入も検討されています。しかし、ハードそのものの価格が高すぎること、授業用ソフトの開発の費用がかさむこと、そして創造的な能力を伸ばすソフトの開発の困難さが問題点としてあげられています。

 つまり、ハウツー的な教育改革はまちがいであり、重要なのはカリキュラムそのものの根本的な検討だといいます。

・教育は何のためにあるか
・われわれはどのような人間、またどのような社会をつくりだしたいのか
・それらの目標を達成するためには、どのような授業方法、学級組織方法、どんな教材が必要か
・どのような知識がもっとも価値あるものか

 さらに、教育について、学者や哲学者たちのことばが引用されています。
「教育とはレッスンが忘れ去られてしまった時に残っているものである」(クロンバック)。「あなたが教科書を失い、講義のノートを焼き捨てて、試験のために暗記した細かいことを忘れて初めて、あなたの学習は役に立つのである」(ホワイトヘッド)

●インフォーマル・スクールの教師

「第三部 新しい学校の構想――何をいかに変えるか」で、教育改革の参考とされたのはイギリスのインフォーマル・スクール(型にはまらない学校)でした。インフォーマルというと、「自由放任」のイメージがありますが、学校の規制をはずした単純な自由や放任を唱えるものではありません。教師が自らの立場を語る次のようなことばがそれを証明しています。

「無意味な甘やかしで単に『まあ、よくできたわね』ということはやさしいでしょう。しかし私たちは、ここにいる子どもたちにただ何かを発見させるのでなく、教えるためにいるのです」「(教師は)自分がしようとしていること、そしてそれをどのような方法であるか、なぜそれをするかを明確に知っていなければならない」「子どもにどうやって考え、どうやって判断し、どうやって識別するのかを学ぶのを手助けする」

 日本の教師も「教える」「手助けする」などといいます。しかし、インフォーマル・スクールの教師と生徒との対応には根本的なちがいがあります。イギリスでは、教師の声の出し方からしてちがいます。

「フォーマル・スクールの教師はクラス全体に、命令したり、話しかけたり、個々の子どもに話しかけたりするとき、独特の『先生的な声』を出すものであるが、インフォーマル・スクールにおいては、苦もなく規制することができるので、教師も校長も子どもたちも、ふだん話すときのように語りかける」

●日本の教育改革のために

 この本を読みながらわたしは日本の教育改革が気になりました。一つは日本の教育改革の遅れです。当時のアメリカ問題点は、それなりに改革されて今に到ったようです。当時、日本でも教育改革は問題にされましたが、これといった変化もないまま二十五年が過ぎました。今になって持ち出されている改革は、まるで当時のアメリカと同じです。しかも、この本で問題にされた危険性には目がとどいていないようです。

 もう一つ、わたしが感じたことは、アメリカやイギリスの教師たち自身が、自らの仕事に感じている自由と権利の意識の高さです。子どもの教育にかかわるときに、自らが教育者として、個人的な責任を自覚して、自主的に教育の可能性を探ろうとしていることです。それは日本の教師たちには欠けている意識だと思います。学校教育の「新学力観」では、自主性の尊重が、まるで教師が何も教えないことのように単純化される傾向があります。

 下巻の「第四部 教育者の教育――新しい教育を求めて」では、教育者自身がどのように教育されるべきかが問題にされています。わたしも下巻を探して教師として自己反省しながら読んでみようと思います。


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