コトバ表現研究所
はなしがい120号
1996.7.1 
 ちょうど十年目の号です。八年目に『放し飼いの子育て―やる気と自立の教育論』(一光社。1994年)というタイトルの本をまとめてから、わたしは「放し飼い」ということばを気にしています。最近の社会が、よいにしろ悪いにしろ権威ある思想や政策を失って、無原則の印象を強めているからです。

 学校教育では、多様な評価をすべきだとか、評価をしないという新学力観が唱えられています。それも学力の本質を問わない無原則の一例です。学校の先生たちも自信を失って、家庭への依存を強めつつあります。まるで、なしくずしに「放し飼い」が実現してしまったようです。しかし、「放し飼い」には「囲い」という原則があります。教育の一つの目標は、子どもたちがモラルを自覚して行動できるようにすることです。だから、今、あらためて「道徳教育」を問題にする意義があるのだと思います。

●善と悪の問題

 近ごろ高校生の犯罪に凶悪なものが増えているそうです。テレビで、「おやじ狩り」と称して集団で強盗をする事件の特集がありました。動機の一つは、遊ぶ金ほしさ、もう一つはテレビゲームでやっていた格闘技の技を試してみたかったというものです。単純な理由におどろかされました。もちろん、一人ひとりを見れば、家族関係や友人関係など複雑な問題があるのでしょう。しかし、「金」と「遊び」が犯罪の動機といわれれば、納得できる風潮が現代の社会にあることはまちがいありません。
 インタビューされた高校生は、「絶対に見つからないなら自分もやるかもしれない」「もし先輩に言われたらやるだろう」と語っています。また、「そんなにお金が大切なのか」と問われると、「おとなだって、政治家とか、金のために悪いことをしてる」と発言していました。

 教育学者たちは「ものごとの善悪を教えるべきだ」「してはいけないことをはっきり教育すべきだ」とコメントしていました。しかし、そう簡単には行きません。ただ原則を教えるだけでは教育になりません。「ウソをついてはいけない」に対して「ウソも方便」、「善は急げ」に対して「急がば回れ」があります。あるときは善であることも、別のときには悪になることもあります。善悪の問題はマルバツ式で教えられることではありません。

●道徳は教えられるか

 最近、村井実『道徳は教えられるか』(国土社。1967年)を読んでいます。村井さんはギリシア哲学を基礎に教育を考えている学者です。わたしは、道徳教育について示された次の三つの要素に感心しました。これはアリストテレス以来、道徳行為が行われる原理とされた「実践的三段論法」だそうです。

 @行為の「原則」として、「公平であれ」「約束を守れ」などの原則が知られていること
 A自分の行為が他の人に不公平を及ぼすかもしれないという「状況」や、自分と他の人々との契約関係にあるという「状況」についての知識があること
 B@とAを照合したうえで、自分はその行為をなすべきか、なすべきでないか「結論」をつけること

 村井さんはこの三つの段階を総合的に教育することが本来の道徳教育なのだと言いいます。そして、戦後の教育と戦前・戦後の教育の比較をしています。

 戦後の教育ではAが強調されました。一九六〇年代ころの子どもたちは、「世間をよく知っており、政治についても、理論的な分析力に長じている」のですが、行動は「場当たり的であり、サイコロ勝負的である」と言われました。反対に戦前・戦中の教育は、@ばかりで、「修身教育による原理・原則の教育だけを受けて、現実の社会的条件を分析する訓練をまったく受けなかった」。その結果、国家の行った戦争に引き回されたと言います。

 村井さんは、特別な方法ではなく、算数や国語などの教育と共通する方法で、道徳が教えられることを「理解」と「実行」ということばで説明しています。ふつう道徳の教育は実行されることが目的で、実行されないかぎり道徳教育にならないといわれます。しかし、原則や目的を知識として理解できても、実行されないことがあるのは道徳にかぎったことではなく、算数や国語の教育にもあることです。

 たとえば、数学を教えるというばあい、教師はすべての数学の問題のときかたを生徒に教えるわけではありません。「ただ、生徒が実生活において遭遇する数学的問題の解決にあたって、できるだけ巧みに対処しうるように、そのための限られた準備的条件を作りだすために、最善の努力をしてやるにすぎない」というのです。これは、そのまま道徳教育の内容です。つまり、「教える」ことは「実践的な行為の保障という点に関しては、本来きわめて制限された意味しかもたない」のです。

●「より善い生活」の探求としての道徳

 村井さんは教育の目標は、子どもたちや生徒たちを「善く」することであり、教師として当然の仕事であると言います。しかし、教師の仕事の限界を自覚して正当な位置づけをしています。道徳教育では、生徒が不都合な行為をすると、子どもだけでなく、教師がしっかり「教え」なかったと非難されます。しかし、道徳の場合、ほかの教科よりも子ども自身の自律性・自主性への依存は大きいのです。

「子どもが道徳的に失敗したばあい、その責任は学校や教師にあるよりも、子ども自身に、あるいはそれ以上に、道徳という問題の、国語や算数とは比較にならぬほどに複雑な構造からきていると思う」

 これは教師の責任のがれではありません。子どもに実行を押しつけることの無意味さを語ることばです。教師は生徒にかわってあまりに責任をとりすぎる傾向があります。おせっかいと思えるほどです。しかし、教育という仕事は、生徒自身が人生に立ち向かうときに「できるだけ巧みに対処しうるように、そのための限られた準備的条件を作りだすために、最善の努力」にとどまるのです。

 とはいっても、親も教師も道徳的に完成された人間であるとはかぎりません。

「私たちの人生というものは、道徳的にはほとんど失敗に充満しているといってよいのかもしれないのである。ただ道徳においてたいせつなのは、このような度重なる失敗にもかかわらず、たえずより善い生活を求めて探求し工夫するという基本の態度なのである」

 子どもたちの課題は同時にわたしたちおとなの課題でもあるのです。


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