コトバ表現研究所
はなしがい117号
1996.4.1 
 先日、新聞で、坂口安吾の「風と光と二十の私と」という文章に安吾の教員生活と教育観が書かれていることを知りました。無頼派と呼ばれ、「堕落論」で知られる作家が教員をしていたというのは意外でした。

 じつは、わたしには安吾に特別な親しみを感じるわけがあります。安吾はわたしの故郷の群馬県桐生市で晩年の三年を過ごしました。安吾の住んだ書上邸は同じ町内の四、五軒となりでした。安吾が亡くなったのは、昭和30年で、わたしが三歳のときでした。

 安吾の教育理念は、ひとことでいうと、子どもへの愛情と子どもの立場の尊重です。それは安吾自身の子ども時代への反省から生まれたもののようです。

安吾の子ども時代

 安吾は明治三九年(1906)に新潟に生まれました。父は地元の名士で、米穀取引所の理事長や新聞社の社長を勤め、県会議長から衆議院議員にもなりました。初めの妻が三人の娘を残して亡くなり、迎えられた後妻が安吾の母となる人でした。

 安吾は十人生まれた子どもたちの下から二番目で、小さいころからさびしい思いをしたようです。幼稚園にあがっても、型通りの生活をきらって、通園しないで街をさまよっていたそうです。小学校のころは、近所で鼻つまみ者のガキ大将でした。中学校にもほとんど行かずに落第したので、親が心配して家庭教師をつけましたが、逃げまわります。そのうちに、とうとう放校になってしまいます。

 それで父は安吾を東京に呼び寄せて、私立の豊山中学(現・日本大学豊山高校)に入学させますが、ここでも学校をサボりつづけ、熱心にやったのは、野球・水泳・陸上競技などのスポーツでした。

 一八歳のときに父が亡くなり、二十歳で中学を卒業しますが、学校のきらいな奴は大学へ行っても仕方がないという周囲の意見で代用教育になります。たった一年でやめてしまいますが、この経験が大学進学のきっかけであり、のちの文学にも影響したようです。

代用教員としての安吾

 安吾が代用教員をしたのは、大正一四年(1925)、世田谷区の下北沢の分教場で、教室の数が三つ、教員は五人でした。当時の下北沢はまったくの武蔵野で、学校の前にお寺、学校の横に学用品や駄菓子を売る文房具屋が一軒あるだけの「ただ広芒かぎりもない田園」だったそうです。

 安吾の担当したクラスは、学力についても、家庭についてもいろいろな問題がありました。

「私は五年生を受持ったが、これが分校の最上級生で、男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校へ押しつけていたのではないかと思う。七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名で自分の名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。このてあいは教室の中で喧嘩ばかりしており、兵隊が軍歌を唄って外を通ると、授業中に窓からとびだして見物にいくのがある。」  安吾の子どもの見方は作家らしい人間的なもので、本心から子どもが好きなのがよくわかります。

「本当に可愛い子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温かい心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。」

 安吾は「悪い子供」の中に自分を見ているのでしょう。強く生きるための性格を育てることを教育の根本としているのもユニークです。

青年の悩みと子供への愛情

 当時二十歳の安吾自身、人生について思い悩んでいました。空想の中で安吾に問いかけるものがいます。

「君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから。」

 しかし、安吾は子どもたちの中の不幸を発見します。姉が実の父と夫婦の関係を結んでいる女の子は、友だちもなく、いつも片隅でしょんぼりして、話しかけてもかすかに笑うだけです。また、豆腐屋の娘で、母の連れ子だった子は、学力が低いのですが、男の子と対等でケンカできるほど腕力がありました。いつも口をキッと結んで利口そうな顔つきですが、思いつめたようで明るさがなく、友だちもいません。

 あるとき、その母親が安吾を訪ねて、娘がひねくれていることを相談しました。そこで、安吾ははっきり「いや、ひねくれてはおりません」と答えて愛情の大切さを語ります。「問題はあなた方の本当の愛情です。(中略)あの娘は人に愛されたことがないのではありませんか。先ず親に、あなた方に愛されたことがないのではありませんか。私に説教してくれなんて、とんでもないお門違いですよ。あなたが、あなたの胸にきいてごらんなさい」

 そんな生徒たちを見ることで安吾は自分の人生について発見をします。「私は不幸というものを、私自身に就いてでなくて、生徒の影の上から先ず見凝めはじめていたのだ。その不幸とは愛されないということだ。尊重されないということだ」

 しかし、手ばなしに子どもたちを礼讃するわけではなく、子どものズルさもとらえています。「子供は大人と同じように、ずるい。(中略)ずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだ」

子どもを見る目と教員の立場

 あるとき、有力者から、子どもが家に帰って「先生に叱られた」と泣き出したという連絡があります。主任から処置を依頼された安吾はこう考えます。

「子供のやることには必ず裏側に悲しい意味があるので、決して表面の事柄だけで判断してはいけないものだ。」「子供の胸にひめられている苦悩懊悩は、大人と同様に、むしろそれよりもひたむきに、深刻なのである。その原因が幼稚であるといって、苦悩自体の深さを原因の幼稚さで片づけてはいけない。そういう自責と苦悩の深さは七ツの子供も四十の男も変わりのあるものではない。」

 安吾は泣き出した子どもから、落第生に万引きをさせられたことを聞き出します。また、悪いことがばれて叱られるのに気づいた落第生には、「良いことも悪いことも自分一人でやるんだ」と忠告します。二人の子どもへの対応はじつに的確です。

 安吾はのちに教育という仕事に関わっていた自分について反省しています。

「教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思い出すたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」

 しかし、わたしは安吾に教わった子どもたちにとって愛情あふれる先生だったにちがいないと思います。


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