コトバ表現研究所
はなしがい114号
1996.1.1 
 わたしは調理師の専門学校で十五年間、中学卒業の生徒に国語と算数を教えてきました。はじめは高校に進学できない生徒のひとつの進路として一年間のコースで始まりましたが、今では三年間の通学で調理師免許と同時に大学受験の資格もとれるようになりました。

 ところが残念なことに、学校の方針で今年の四月に入学する生徒から募集を中止しました。今の一年生が、このコースの最後の生徒になるでしょう。わたしはいま教えている高校卒業生のクラスの社会と一般教養の国語を担当することになりそうです。

 これを機会に、これまでかかわってきた中学卒業生の教育がどんなものだったのか考えなおす気になりました。わたしの教えてきた勉強は、まったく基本的なものでした。国語では読み・書きの能力、算数では小数・分数の計算力と割合の考え方の教育です。しかし、ただ科目を教えていたたわけではありません。学校という場を生かした教育についても考えてきたつもりです。

●「学校」のはたらき

 そんなとき、斎藤喜博『君の可能性 なぜ学校に行くのか』(ちくま少年図書館一九七〇年)を読みました。著者は有名な国語教育学者で、土屋文明について短歌も学んだ人です。やさしく読みやすい格調のある文章で、学校というものの原点を考えさせてくれます。はじめは中・高校生のために書きはじめたが、自分自身に言いきかせるような気持になり、最後はおとなたちに読んでもらいたいと思うようになったと書かれているように、おとなにも自分の可能性について考えさせてくれる本です。

 学校について考える場合、問題になるのはたいてい学校の仕組みです。しかし、学校のはたらきについても考える必要があります。斎藤さんの本の「第二部 学校で学ぶとは」では、学校のはたらきを二つの点からとらえています。第一に、学校がみんなで協力して新しい考え方を生み出す場であるということ、第二に、学校は人と人との出会いの場であるということです。

●「ひとりより、みんなで」

 一つめのみんなの協力については、ある小学校の卒業式の六年生の答辞を引用しています。そこには、学校で学んだことが次のように述べられています。

 「とび箱を美しくとぶために、助走やふみ切りがたいせつであることも、集中したよい助走ができるとふみ切りもやわらかくなり、とび箱も美しくとべることもわかりました。」「算数や国語は頭のよい子ができ、とび箱や水泳は運動の得意な子がよくでき、声のよい子が歌がうまいと、きめつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。」

 斎藤さんは、ここに学校の本質・任務・楽しさが述べられているといいます。

 「学校というところは(中略)自分ひとりでは出せないような力を、どの人間にも出させ、それをどこまでも引き出し、高めていくことのできるところである。自分にもこんなに力があったのか、あの人にもあんなにすばらしい力があったのかと、おたがいに驚き、学び合うようなものをつくり出していくことのできるところである。」

 学校で協力するのは生徒同士ばかりではありません。先生と生徒との授業での協力もあります。

 「結果のきまったものをそのまま覚えるということもあるが、それだけではない。あたらしい課題をクラス全体のなかにつくり出し、先生をふくめたクラス全体が、さまざまの知恵を出し合って、困難な課題を突破していくのである。その結果、ひとりひとりの生徒が、自分の考えに固着しているのではなく、つぎつぎと自分のそれまでの考えを否定し、あたらしい、より高い新鮮な世界へと移っていくのである。」

 斎藤さんが学校のはたらきと考えるものは、教室の内部にかぎりません。クラスや学年を越えた協力もあります。  「ひとりの先生が一人の生徒を教えるのではなく、クラスの力をつかい、またクラスとクラスの関係の力をつかい、さらに上学年と下学年との関係のなかで、学校全体の力のなかで、ひとりひとりの人間のもっている可能性を引きだすところだからである。」

 いまマスコミで話題になっているイジメの原因の一つに、学校が協力の場として機能してない点がありそうです。今でも「個性の教育」とはよく言われるコトバですが、組織や協力の教育への目配りを失わせる危険があります。「個性」を尊重されてばらばらになった子どもたちは、かんたんに競争原理にとりこまれてしまうでしょう。イジメは競争から落ちこぼれた子どもへ向けられた攻撃なのです。

●人と人との出会いの場

 二つめに、学校は人間の出会いと人間同士のコミュニケーションの機会を提供する場です。
 「もう一つの学校の特長は、学校に行くことによって、たくさんの先生や友だちとじかに接し、なまな人間から、なまに人間的な影響を受けていくことのできることである。」

 斎藤さんは、この例として何人かの先生たちの人物像を描いています。その描き方も魅力的です。そして、最後に斎藤さんは学校のはたらきについてまとめます。
 「クラスのなかとか、学校全体のなかとかで、おたがいに力を出し合い、影響させあって、ひとりだけでは出せないようなものを、ひとりひとりや全体のなかに出していくことこそ、勉強であり、学力であり、能力である。そういう能力こそ、学校のなかでつくり出さなくてはならないことである。」

●学校と教育の未来

 ここ十数年、マスコミを通じて、学校・教師への批判が目立っていました。その一つの結果が、日教組と文部省の歴史的な「和解」でした。それが教育にどのような影響を生みだすかはっきりするのはこれからでしょう。

 また、公立の学校を解体していわゆる民営化が導入されるのではないかという意見もあります。しかし、教育の仕事は決して利潤のあがるものではありません。むしろ気になるのは公教育への財政支出が削られることで教育内容が空洞化することです。

 教育を問いなおそうとするとき、学校というものの原点は何度も確認されるべきでしょう。


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