コトバ表現研究所
はなしがい113号
1995.12.1 
 十一月二十三日のNHKテレビで「学校は揺れている」という特集がありました。五つの中学校のビデオ記録を材料に三人の教育関係者がコメントをしました。そのひとりに、わたしが学生時代に勤めた塾の同僚の佐藤学さん(東京大学助教授)がいました。わたしは毎月えんえん十時間近い教員会議の話し合いなどなつかしく思い出しました。当時はジャリトラというあだ名からジャリと呼んでいました。

 ジャリは、これまで学校の制度の改革ばかりが論じられてきたが、これからは学びの場としての学校をいかに再生させるかが問題であると発言していました。しかし、わたしは今さらそんなに学校を弁護する必要があるのかと思いました。ビデオでも学校の先生がいかに忙しいか訴えていたので、学校と先生の責任を免除するようにも感じました。わたしはもっとくわしくジャリの考えを知りたいと思いました。しばらくして書店で、佐藤学『学び その死と再生』(太郎次郎社・一八九〇円)を見つけました。

●教育者の原点

 この本は一九九三年十二月から一九九五年十月まで教育雑誌『ひと』に連載されたエッセイをまとめたものです。エッセイといっても、近ごろ流行の軽い調子の雑文ではありません。著者自身あとがきで述べるとおり、まさに「自分さがし」の格闘として書かれた本です。観念的な表現はあるものの大学の先生にありがちな無味乾燥な文章ではありません。

 まずおどろいたのは、自伝風の文章「学校の原風景から・個人的断章」でした。ジャリとは塾で数年間ともに過ごし、しばしば飲み食いを共にしましたが内容の多くは初耳でした。東大の大学院生だったジャリはカゲのある神経質な人物には見えましたが、このような育ちをしたとは想像もしませんでした。

 小学校のときには多動癖のある子どもで、教師に叱られて外に出されてしまいます。知恵遅れの友だちといっしょにヘビのアタマとシッポを引っぱって殺すような遊びもします。中学校は無難に過ごしたようですが、高校では「エリート校の偽善的空気」にふれて「自我意識の解体」のような体験をします。教科書代わりに受験問題集を使う化学の教師に反発して図書室に閉じこもったり、音楽室で楽器練習をするという生活を送ります。このあたりの事情は観念的な文体で書かれているので事実についての疑問もありますが、ジャリの教育論の原点がどんなものかよくわかります。

 こんな体験からジャリは、学校制度の目的と機能をとらえる「制度論的なアプローチ」ではなく、一人ひとりの経験の内側にある学校をとらえる「存在論的アプローチ」が必要だというのです。

●「学びの共同体」としての学校

 ジャリの提案が光るのは、第U章「学びの共同体へ」に収められた三つの文章です。「学校を内側から再生するために――小さな共同体への再編成」では、過去十数年間、毎日のように全国各地の学校を訪問した成果から、学校改革の三つの原則をあげています。@「よい学校=問題のない学校」という観念からの脱却、A学校を「学びの共同体」として再組織すること、B学校改革を内外の人間関係の民主化の実践とすることです。そのために、学校をいくつもの「ハウス」に分割する方式を提案しています。一つの建物の生徒数は二〇〇名程度、教師数は一〇人程度で、ハウス単位の「校長」も決めて独自の運営をします。この方式の実現可能性も、現代の教育環境から説得的に説明されています。

 二つめの「提案・学びの共同体へ――フレネ教育とリテラシー革命」は、シンポジウムへの報告で、教育についていくつかの概念が検討されています。わたしが関心を持ったのは「子ども中心主義」の教育でした。これは外国では「効率性」中心の教育や「大量生産」の教育のもつ画一性と形式性への反論として提唱されたもので、個性化を含む「学びの共同体」の構築をめざすものでした。しかし、日本ではもっぱら「個性化」の教育のみになりました。

 たしかに、今の子どもたちの態度や行動には「共同体」の意識が見られません。いま話題のイジメなど、まさに子どもたちの「共同体」意識の欠如のあらわれでしょう。わたしが近ごろ主張している〈コミュニケーションの回復〉のめざすものも、ジャリのいう「共同体」につながるものです。

 三つめの「文化の媒介者としての教師――ヘンなおじさん(おばさん)≠フ学校改革」では、学校に教師ばかりでなく一般の社会から文化をもちこむ試みのすすめです。すでに各地の学校で父母などを招いて授業をする試みがあります。ジャリは、それこそが本来の「マルチメディア」だというのです。

●自立の能力の教育

 わたしが感心したのはもっぱら「制度的アプローチ」の面でした。残念ながら、第V章「自分さがしの旅」に収められた演劇「みんなが孫悟空」や、ほかに紹介された授業の実践は本に書かれた限りでは魅力を感じませんでした。それは、おそらくジャリが授業を「神話」や「物語」の成立といった角度からとらえているためでしょう。教師が子どもたちと人間的なかかわりをもって交流することの価値については、わたしにも異議はありません。しかし、授業を文学的な感動の場のようにとらえようとする点が気になりました。もちろん、わたしの判断は本に書かれた限りのものですが、理想とする授業があまりに特殊なものに思えるのです。

 ジャリの授業論に感じる不満は、あまりにも多く授業における教師の熱情に期待しすぎる点にあります。ジャリの伝記を読んだとき、わたしが知りたくなったのは、ジャリが今日あるような学力をどこでどのように獲得したのかということでした。小学校での多動児が、高校で教師に反抗しながらも、いかにして東大への入学が可能な学力を身につけられたのか、そこにこそ教育の秘密があると思うのです。

 わたしは子どもたちが共同体の一員であることを自覚できる能力とは何かを問う必要があると思います。その中心となるのはやはり言語論理能力であると思います。授業というものすら、子どもの成長にとって補助的な手段と考えるべきでしょう。教師の熱烈なかかわりがなくても、子どもたち自身が自ら学んでゆけるような教育こそわたしの理想です。

 さて、いろいろ注文をつけましたが、この本はわたしが最近読んだ教育の本のなかではもっとも刺激に満ちた内容の本でした。日本の教育を考える人たちにはぜひとも読んでもらいたい一冊です。


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