コトバ表現研究所
はなしがい106号
1995.5.1 
 マスコミは連日オウム真理教の話題をとりあげています。教団の幹部が逮捕されるに連れて、どんな経歴の人たちが指導していたのか分かってきました。スポークスマンであるA弁護士、J外報部長、刺殺されたM科学技術庁長官などに代表される幹部はいわゆる一流大学を優秀な成績で卒業した人たちです。そのような幹部をとりたてたA教祖自身がかつて東京大学をめざしたこともあるように、学歴重視の考えを持っているようです。

オウムと教育

 おどろかされるのは宗教団体として出発したにもかかわらず、教団の組織がまるで国家機構のようなかたちをとっていたことです。しかも、上九一色村には化学工場のような生産施設がありました。規模は小さいながら、そこに集められた機械や研究用の原材料は現代科学の最先端のものです。

 一般の信者たちの大半はマインドコントロールという操作によって入信させられたようですが、古くから参加した幹部の多くはすすんで教団に近づきました。

 「あんなに頭のいい人たちなのだから、もう少し理性や道徳があれば世の中の役に立ったのに」という人がいます。また、幹部に理科系の出身者が多いことについて、「理科系の学問は最先端にゆくほど神秘主義とすれすれになるので、宗教への道が開いているのだ」ともいわれます。

 たしかに、オウムの幹部たちは日本の教育システムに乗ってきたエリートです。だからこそ、現代の日本社会の申し子の顔を持つのです。まず彼らが集めたのはお金です。お金のためには手段も選ばぬようになって、入信や出家をさせるために「科学」を応用してさまざまなマインドコントロールをしました。集まったお金は最先端の「科学技術」を応用した機械設備の買い入れに使われました。そのほか医療設備もととのえました。そして、それらの技術のすべてを「軍事力」の強化に向けようとしたのでしょう。

 彼らの企図を「劇画宗教」と揶揄したマスコミ報道もありますが、人ごとと笑ってはいられません。たしかに今の日本の社会のパロディのようですが、ここにはわたしたちのかかえる問題があるからです。

ギリシア哲学の知恵

 そんなとき、藤沢令夫(のりお)『哲学の課題』(岩波書店一九八九年)を読みました。この人はプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学を研究して、二千年以上前の問題が現代の社会にどれほど深くかかわっているか教えてくれます。同じテーマで分かりやすく書かれている本は『ギリシア哲学と現代―世界観のありかた―』(岩波新書)です。

 ギリシア哲学の魅力は、現代のように学問の分野が細かく分かれない時代の「知」のあり方がわかることです。藤沢氏によると、プラトンは「観想(=見ること)」と「実践(=すること)」とを一体のものととらえていました。当時の政治社会を批判して、よりよい政治をするためには、ものごとをよく見て考えることが大切だと考えました。しかし、のちにアリストテレスは、もっぱら政治に対する傍観の立場をとってしまいました。

 この二つの区分によって「観想」の立場からは、事実↓理論↓科学の考えが発展しました。もっとも進んだものが現代の「科学技術」です。他方、「実践」の立場では、価値↓倫理↓道徳の考えがあります。このように二つの対立項を立てることによって立場を区別することは考えを整理するには役に立ちますが、実際のものごとが二つに分かれているわけではありません。

 今日の経済や科学の発展から生じた問題はものごとをもっぱら「客観」としてとらえたことから起こったといいます。そのために、あらためて倫理や道徳が問われることになりました。その一例が、原爆製造にかかわった科学者の平和への責任問題です。また、近ごろは最新医学の臓器移植やバイオテクノロジーの技術でも人間のモラルが問われています。

生命と幸福の教育

 ギリシア時代の「知」とは、何よりも生命や幸福の実現を目ざすものでした。人間の生き方と切り離されたものは「知」ではなかったのです。オウムのエリートたちは学校の勉強のよくできた人たちですから、知識は身についていたでしょう。しかし、その知識は人間の幸福とは結びついていませんでした。だから、彼らはオウムの理想にひかれたのでしょう。一流大学を卒業して大企業にはいったものの、ふとしたきっかけで教団にはいったのも、価値を求める心があったからでしょう。しかし、もともと二つに分裂していたものをあとからくっつけるわけですから、うまくゆくわけがありません。

 教育基本法では特定の宗教や政党の思想を教育することが禁止されています。また、倫理や道徳についても客観的な立場をとっています。しかし、教育に「客観性」や「不偏不党」を求めることは、価値観について子どもたちの心に空白を作ることになりそうです。倫理や道徳の教育というものは必ずしも特定の宗教や政治の教育となるわけではありません。子どもたちがものごとの価値を評価できる能力を育てることも教育の一部です。この点が今の教育では空白になっている気がします。

 さて、オウム真理教の問題には、子どもたちをどう教育してはいけないかの教訓があります。教師やおとなが考えるべきことは、知識の教育を価値の教育と切りはなさいということです。それはあらためておとなに勉強の意味を考えさせてくれます。

 第一は、勉強をせまくとらえないことです。学校の勉強ばかりが勉強ではありません。人が何かを学ぶということが勉強なのです。第二に、勉強は社会における人間の価値と深くかかわることです。知識は人間の生き方や人生に結びつかない限り意味がないのです。第三に、勉強の成果は自分の利益にとどまらずに、広く人びとの生命と幸福を育てるためのものです。

 子どもたちも、おとなと同じように日々の生活や目先の利益に追われて、つい広い視野を見失いがちです。そんなときに目を開いてくれるのが哲学です。なかでも対話の形式で語られるギリシア哲学は、わたしたちに人間と人生について分かりやすく教えてくれることでしょう。


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