コトバ表現研究所
はなしがい105号
1995.4.1 
 新学年を迎えるために、わたしの専門学校でも教員会議が開かれました。新たに中卒クラスの担任になった五〇代のT先生から、「どうしたらイジメが起こらないようにできるのでしょうか」という疑問が出ました。

 T先生は、これまで高卒クラスの英語と社会を担当してきました。あまり学生たちと打ち解けて話し合うタイプではなく、事務的な授業をしている先生です。中卒のクラスでは授業がうまくいかないのは目に見えています。

 わたしは三つのことを話しました。一つは、イジメが起こる原因として、学校やクラスに生徒を圧迫する雰囲気があるということです。学校が生徒を頭から押さえつけたり、お互いに成績で競争させるような場合です。イジメを起こさないために教師のすべきことは、何よりもまずクラス全体をのびのびした条件におくことです。イジメが起きたときの対応は次の問題です。

 二つめは、これまで中卒のクラスでは、ほとんどイジメがなかったということです。中卒の入試では、学校で暴力をふるったような生徒は真っ先に落とされていますから、入学できるのは、中学生のときにイジメられる側にいた生徒です。実際、授業中に騒ぐような生徒もいません。むしろ活発に発言する生徒がいないので、静かすぎて困るくらいです。

 三つめに話したことは、学力の教育と生徒指導の分離の問題でした。学校教育では、一方に学力の教育、他方に「生活」指導と二つに分かれています。いわゆる「知育」と「徳育」が分裂しています。ところが、わたしの見てきたかぎり、中卒クラスの場合、学力と生活規律の向上とは一体のものです。学力のついた生徒は自然に生活態度もしっかりしますし、服装まで変わってくるものです。

知育と徳育

 では、学力とは何なのでしょうか。わたしは今、学校教育の内容や目的が、入試制度のワクのなかでゆがめられている気がします。国語の勉強というと、生徒の口からは決まって「漢字」「文法」といったコトバが飛び出します。生徒の国語ぎらいは、そんなところから生まれているのです。

 本来の国語の力とは、コトバでものを考える力です。それなのに、学校ではテレビのクイズ番組のようなラレツした知識になりがちです。それは教師にとっても教えやすいことなので、なおさらそうです。

 学校では成績の競争と入試制度のための「学力」が教育されています。その一方で、「知育」から抜け落ちた「徳育」を生活指導で押しつけています。本来の知識は資格や競争の手段ではなく、当人が生きるための力となるべきものです。バラバラに身につけるものでなく、秩序づけられて人格を形成するものでなければなりません。

 わたしの学校の生徒たちは、中学時代の成績によって進学コースから外れてしまった生徒たちです。しかし、これまでの経験では、国語でも数学でも、学ぶことをきっかけに、学力においても人格においても、見ちがえるほど成長する生徒が毎年三、四人はいます。

 学問はギリシャ時代に「知への愛」とよばれる人生と一体のものでした。それが「哲学」の語源となりました。今、日本の教育に欠けているのは、まさに哲学としての学問です。

天才の勉強術

 わたしも小学校低学年のころは理科や算数をおもしろがって勉強していました。しかし、高学年になると、学校の勉強と自分の興味がくいちがってきた覚えがあります。そうなると、勉強は義務のように感じられました。

 学校の一斉授業の形態では生徒の個人的な関心を生かすことはなかなかできません。ですから、自分の関心を殺して学校の勉強に打ち込むか、勉強を捨てて、自分の関心にすすむ道しかありません。かといって、個人的な関心というものは気まぐれなものですから、放っておいたら一時の興味に終わってしまいます。そこに教育という導きの手があれば、その興味も偉大なものに成長する可能性があるのです。

 最近、木原武一『天才の勉強術』(新潮選書・一、〇〇〇円)を読みました。天才が育つためには、当人の興味がどれほど大切にされねばならないかを教えてくれます。また、本来の勉強というものがいかに偉大な仕事を成し遂げさせるものか分かります。しかも、はっきりとわかりやすい文章で書かれているので、読み物としても楽しい本になっています。

 著者は、長い歴史のなかで人間がずっと学び続けてきた理由を次のように書いています。
「ものを学ぶことが楽しくてたまらないからである。もちろん、学校の授業や本を読むことばかりが勉強ではない。何か新しいことを知ったり、何か新しい能力を身につけたりすること、そして、それをさらに深めたり高めたりすること、それがものを学ぶということであって、人間が味わう感動や楽しみの大半は、こういったところから生まれてくるものではなかろうか。」

 「天才」といわれる人たちは、「ものを学ぶ楽しさ」をもっともよく知っている人のことだといいます。この本にとりあげられた天才は九人です。頭に浮かんだ曲を一息に書き上げてしまったというモーツァルト、卵をゆでるつもりで時計をゆでてしまうほど集中したニュートン、生涯に何度も経験した恋愛から学んだゲーテ、一日に三時間しか眠らなかったといわれるナポレオン、なんでも集める趣味があったダーウィン、子どものころから落第生だったチャーチル、長い生涯をたくさんの絵を描きつづけて過ごしたピカソ、たいへんな読書家だったチャップリン、おどろくほど多くのものごとに関心をもっていた平賀源内。

 これら九人の天才たちに共通するのは、学ぶことや勉強が義務や苦しみではなく、楽しみだったことです。そして、勉強とは、ただ知識を身につけるのではなく、当人の人格を形成し、人生の一部であったのです。それには、興味や関心が周囲からつぶされずに学びつづけられるという幸運もありました。

 わたしは授業のたびに生徒たちに、学ぶことの楽しさや、考えることのおもしろさを伝えようとしてきました。この本は、そのために何よりの参考になりました。これからも何度も読み返したい本の一冊です。勉強は子どもだけのものではありません。みなさんも、あらためて「勉強」と「学ぶこと」の意味について考えてみませんか。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)