コトバ表現研究所
はなしがい103号
1995.2.1 
 雑誌『ひと』(太郎次郎社)はユニークな教育雑誌です。「子どもとおとなの関係」誌″と銘打つとおり、一般の人たちもおもしろく読めます。「いま、教育の争点はなにか」を特集している95年2月号を買いました。教育にかかわる二十八名の方の発言が掲載されています。さまざまな角度から教育の問題が述べられていました。いくつかの意見をわたしの感想とともに紹介いたします。

国際化と教育

 いまの学校教育の規準である指導要領のなかで目立つことばは「国際化」です。

 竹内常一さん(明治大学)はいいます。《今回の学習指導要領の改訂方針は、国際化・情報化などの社会の変化に主体的に対応する必要から作成されたとされているが、それは一九六六年の「期待される人間像」の「日本はたくましくならなければならない」という方針をまっすぐに受けるもの》

 「国際化」のかけ声も鵜呑みにはできないようです。世界的な広がりで教育を考えるとき、どんな理念に足場を求めたらよいのでしょうか。ふたりの方が憲法の理念の重要さを指摘しています。駒林邦男さん(前岩手大学・教育学)は、現代の日本社会をこうとらえます。《教育(学)界でも政界同様、「イデオロギー終焉の時代」「冷戦終結」「五五年体制の崩壊」とかで、立論の根拠が右へ右へとズルズル移動し、……「総″与党化」現象が生じつつある》

 そして、「戦後民主主義″を克服せよ」という主張に対して、《「克服」が必要なほど、戦後民主主義″も戦後民主主義教育″も熟しはしなかった》といいます。それを証明するのは専門学校の学生へのアンケートでした。学生たちは「天皇の地位」「国民の地位」「democracy の訳」についてほとんど答えられません。そこで《未熟に終わってしまった戦後民主主義教育″の「再生・熟成」をこそ目指すべき》だと主張しています。また、村上義雄さん(ジャーナリスト)も《平和主義は、国際貢献という大義名分によって、いま、危うくされて》いるといいます。しかし、《世界中の人びとに私たちの憲法のことを知ってもらえるチャンスを、いまようやくつかみかけている》ともとらえて《つぎの世代にこの理想主義をどう伝えていったらいいか》が肝心だと述べています。

教育の現状

 では、教育の現場にはどのような問題があるでしょうか。銀林浩さん(明治大学)は《文部省の「新しい学力観」の提唱とともに今日、戦後三度目の学力論争が起っている》といいます。《一度目は生活単元学習による学力低下=一九五〇年代、二度目は「現代化」による新幹線授業・乱塾時代=一九七〇年代》です。そもそも「学校」はイタリア語では《「休息」「暇」が原義、次いで「自分の精神力を自由に使用すること」》となったそうですが、いま学校はそのような場ではありません。指導要領はまず教師たちを拘束しています。横山和夫さん(共同通信)は《文部省が、教育内容を盛り込んだ学習指導要領の法的拘束性を強めたために、現場の教師たちは自分で授業を組み立て、工夫し、子どもたちの状況にあわせて臨機応変に授業を展開していくという柔軟性を失ってしまった》といいます。また、佐々木賢さん(元高校教員)は《子どもや若者たちが、教育の対象とされるのを嫌い、教育そのものに嫌悪感を抱きはじめている。この教育忌避の現実を事実として認めるか否か》が問題であるといいます。

 そこで、関曠野さん(評論家)は学校の存在そのものまで問題にして、《なんらかの学校における教育というかたちをとることの根拠と正当性は何か、そこに最大の争点がある》といいます。波多野誼余夫さん(獨協大学)も《学校は多様な教育形態の一つにすぎないこと、生活上必要な知識や技能の多くは学校外で獲得される》といいます。

教育をどうするか

 学校の教師の問題もあります。青木一さん(大阪・元校長)は《いま、全国どこへ行っても、教組活動や教育研究サークルに参加して情熱を燃やしているのは、定年に近い年齢層の人たちである》といい、その理由は《若い教師の採用がないことと、その数少ない新採用の教師たちに対する学校の管理教育の徹底ということ》だといいます。伊藤悟さん(フリーライター)は、生徒たちに暴力やいやがらせという人権侵害をする教師たちを問題にしています。《そもそも教師に「生徒指導」なんてできるのか、といった、教師に何ができるのかという限界論・任務限定論までふくめて》議論すべきだといいます。

 では、教育にたずさわる者は何をすべきでしょうか。丸木政臣さん(和光幼小中高園長)はこう指摘します。《文部省の「新学力観」「子どもの権利条約」の具体化、この双方とも「何を教える」のかという対象をあいまいにしている》。《学ぶプロセス、学び方をふくめて「学力とは何か」を追求すべきでしょう》。教育政策や制度の批判もしながら、子どもたちに何を与えるのか考えねばなりません。わたしの持論である言語論理教育(コトバで論理的に考えを操作する能力の教育)の重要さを感じます。

 教育改革の方法で示唆に富んでいたのは、佐藤学さん(東京大学)の提案でした。現在の教育政策をこうとらえます。《文部省の進めている「規制緩和」は、公立学校を「市場原理」で統制する道を拡大する危険な予兆と言えますが、もう一方では、各学校の自律性を拡大して「公共性」を拡大して「公共性の原理」で統制された「学びの共同体」を創出する道も開いています》。そして、こんなプランを提起します。《一つの建物の学校を「ハウス」と呼ばれる複数の「小さな学校」に分割してみたらどうでしょう。一つの「ハウス」は、異年齢の子ども(生徒)百人以下、教師も十人以下の規模で組織し、各「ハウス」で「校長」を決め、それぞれ独立した「学校」として運営する方式です》。この提案には根拠があります。《ここに紹介した Schools within school と呼ばれる方式は、アメリカにおいて「大量生産の制度」から「学びの共同体」へと学校を転換する改革として広く普及しており、驚くべき成果をおさめています》

 教育の現状と雑誌『ひと』への注文のまとめとなるのは丸木政臣さんのことばです。《教育の現実は救いようがないように暗いのですが、「絶望感と無力感をくぐりぬけたところからの教育づくり」について、各地で勇気づけられるような研究や実践もわずかでもあるので、それを発掘・紹介して、「おちこんでいる」まじめな教師たちをふるいたたせるような「明るい面」もつくってほしい》

 わたしも連帯の気持ちから雑誌『ひと』に期待しつつ今後も注目してゆこうと思います。


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