伏水のごとく 第5章

 第一節 後の鴉が先になる

 第二節 新築造営について

 第三節 宇豆真毘彦の信徳


 第五章 伏見布教の再興

 第一節 後の鴉が先になる

橋本為次郎師

 伏見教会所(現在の伏見教会)の四代目の教会長に推された橋本為次郎とその妻アイについては、前章でも触れましたが、ここで、改めてその生い立ちからのことを、述べてみようと思います。為次郎は、明治四年(一八七一)二月六日に、京都府宇治郡宇治村字六地蔵の池田清七の次男として生まれました。母はモンといいます。為次郎が生まれた翌年の明治五年(一八七二)十一月十八日に、父の清七が死去しましたので、兄清三郎が家督を継いで、伝えるところに依ると、家業の米穀商を営むことになりました。つまり為次郎は僅か二歳で、幼くして父に死別しました。その後の生い立ちについては、今では、それを知るよすがは全くありません。戸籍簿に依れば、明治三十一年(一八九八)七月十五日付で、池田清三郎弟として、京都府紀伊郡伏見町字東柳十五番戸の橋本アイと結婚した旨の届出があります。為次郎二十七歳の時でありました。

 妻の橋本アイは、明治九年(一八七六)五月五日に、京都府紀伊郡東九条村の狭川半次郎の次女として生まれ、母はヨソといいます。幼くして橋本文次郎とタネ夫妻の養女となり、養父母の手許で育てられましたが、明治二十九年(一八九六)九月二十二日に養父文次郎が、翌三十年(一八九七)四月四日に養母タネが、相次いで亡くなりましたので、二十歳の若い女の身で、家督を継ぎ家業の貸席業を切り盛りすることになりました。いわゆる貸席業は、娼妓を抱えて男客相手の商売でありますから、若い娘が店主となってする商いではありません。そこで、世話をする人があって明治三十一年(一八九八)七月十五日付で為次郎を婿に迎えて家督を譲りました。この両人の見合いの時の様子を、晩年になってアイは、「商売柄いろいろな男の人達を見てきたが、この人は、口数の少ない気むずかしそうなひとやなあ」と、その第一印象を語っていましたが、それは、そのまま為次郎の生涯変るところがありませんでした。男と女との駆け引きの世界でもあります遊郭という社会にあって、為次郎夫婦は、店主として謹直一すじの人であったので、新参者であったにもかかわらず、同業者仲間の信望をうけて、同業組合の理事長にも推され、日常茶飯のように起こる揉め事の仲裁や同業者の親睦と和合のための講元などを勤めていました。

 橋本為次郎が金光教に入信した経緯については、前にも述べましたが、いわゆる病気や生活向きの事情ではなく、初代教会長奥田平兵衛から、教祖の信心の教えを聞いて、感服するところがあってのことで、明治三十四年(一九〇〇)一月一日から、ほとんど一日として欠けることなく参拝するようになりました。「夜の遅い商売にも拘わらず、朝早くから教会に参って教話を聴聞し、帰宅すると、店の玄関から隣家の表通りまで掃き清めるというように、この世界では珍しいお人でした」と言われていました。(北本たね談)また遊郭は、女が主役の世界でありますから、妻のアイが商売の采配を振っていましたが、それは、抱えの娼妓の身の回りの世話から、肌着や下着まで、自から洗濯をするという有様で、まるで母親のような振舞であったと言います。教会のお届け帳にも、アイが娼妓の病気や身上のことについて、逐一お願いしているのをみても、そのことが頷けます。世間では、往々売り物買い物として、娼妓を酷使するというような伝えがありますが、為次郎夫婦には、そのようなところは微塵もなかったようで、専ら親代わりになって、彼女等の将来の面倒までも見ていました。それは、夫婦が共に信心深い人柄でもあったからでありましょう。

 さて、このように日参をつづけて信心の道についての教えを頂いているうちに、教会の御用や信者の人達のお世話をさせてもらうようになりました。奥田平兵衛も為次郎を信頼して、信徒総代に用いるようになり、前にも述べたように、臨終の席に立会わせて、後継者である奥田重三の行く末を頼みました。為次郎もまたその信頼に応えようと、教会の御用はもとより、重三の身の上についても、物心にわたって心を配りましたが、重三の行状は改まることもなく、前章にも述べたような伏見布教はじまって以来の不祥事が起こりました。

 千五百円という当時としては多額の借財を残したまま出奔してしまった奥田重三夫婦は、大正五年(一九一六)十二月二十七日付の橋本為次郎に宛てた封書に依りますと、金光教甘木教会長安武松太郎の許に身を寄せ、その手続きで、福岡市下桶屋町の金光教博多教会所で布教に従っていますが、その二年後の大正七年(一九一八)七月七日付の封書では、福岡市博多西方寺前町に移り、八畳一間を借りて修業中である旨を知らせています。そうして大正十二年(一九一三)八月十三日付の封書には、香川県高松市塩上町から橋本アイに宛て、教師を解任されたことへの不満を述べている有様がうかがえます。このように為次郎夫婦が奥田重三の身の上を案じて、度々取り計らってきたにも拘らず、遂には彼にそむかれるということになりました。

 さて、四代目の教会長に推された為次郎は、多額の借財を抱えて教会所の再興に当りました。別けても多くの先輩信者が居るなかから、特命に依って教師となり、さらに教会長として取次の御用を勤めることになりましたから、陰では「後の鴉が先になった」と噂されたようであります。(島津ミツ談)

 為次郎夫婦は、教会長に就任すると同時に、家業であった貸席業を廃業して、抱えの娼妓達の借金を帳消しにして自由の身としました。その中には、結婚する者には親代りとなって祝うなど、行き届いた世話をしたそうであります。当時は公娼制度でありましたから、貸席業も正式な商業でありますが、為次郎夫婦は、お道の教えを聴くにつれて、この商売の根にある人身売買と売春行為が、罪深いものであることを知っていました。それゆえに、教会所の御用をさせて頂けることは、何にも増して為次郎夫婦が救われることになりました。そうして今までの家財は「神様の人助けの御用にお使い頂くのだ」という信念で、教会の運営はもとより、教団の御用にも心がけていました。前教会長奥田重三が残していた借財を支払って、教会所の土地・建物を金光教維持財固へ献納することにしたのも、その信念の現れでありましょう。

 第二節 新築造営について

伏見教会所改築願図面

 橋本為次郎夫妻が、その生涯の御用で最も大きな業績は、教会所広前の新築造営でありました。この教会所建築について、現在残っている資料を借りて述べてみようと思います。明治二十七年(一八八四)から教会所として使用されていた建物は、明治以前の旅籠宿を殆どそのまま利用したもので、大正年代になると老朽化して修理もままならぬ状態にまでなっていました。奥田平兵衛が、その晩年の数年間を、ここで過ごすようになってから、十二畳の居間と五畳の茶室を増設しましたが、大部分は昔のままでした。そこで改築の話が信者の間で持ち上ったのは、大正の五・六年頃で、開教三十年記念祭を契機にしてのことでありました。

 ところが、この建物は大正三年(一九一四)十一月に金光教維持財団へ寄附されていましたから、まず維持財団の承認を受けなければなりません。そこで、右の願書を財団総裁宛に提出して居ります。

   御 願
       金光教伏見教会所
右者今般改築致度候ニ付御承認被下候上ハ別紙管長宛伺書ニ添書又ハ奥書被成下度此段連署ヲ以テ御願候也
 大正十一年七月一日
     右 金光教伏見教会長
              権中講義 橋本為次郎印
              信徒惣代 北本 甚吉 印
              同    橋本 秀吉 印
              同    金谷亮太郎 印
              同    園 源次郎 印
              同    坂 利三郎 印
金光教維持財団総裁金光家邦殿

 とあって、別紙として金光教管長宛の改築御伺の文が記されています。

    改築御伺
                金光教伏見教会所
右者旧建造物ニシテ殆ト腐朽セルヲ以テ多数信徒ノ収容上危険ヲ感シ候ニ付今般教則第九条ニ準シ改築致度候条御聴許被成下度維持財団ノ承認ヲ経別紙設計書並ニ図面相添へ連署ヲ以テ此段及御伺候也
 大正十一年七月一日
     右 金光教伏見教会長
              権中講義 橋本為次郎印
              信徒惣代 北本 甚吉 印
              同    橋本 秀吉 印
              同    金谷亮太郎 印
              同    園 源次郎 印
              同    坂 利三郎 印
 金光教管長大教主金光家邦殿

 とありますが、維持財団の総裁は、金光教管長が自然就任することになっていましたので、両願書とも金光家邦宛になっています。そうして、金光家邦は、初代管長金光大陣(旧名萩雄)が大正八年(一九一九)十二月十七日に亡くなりました後を継いで、管長に就任していました。また、信徒惣代も、畑徳三郎の実兄であって開教以来の長老であった西村七兵衛が、すでに大正三年(一九一四)一月二十八日に死亡し、明治三十三年(一九〇〇)から信徒惣代を勤めてきた青木仙次郎も、大正七年(一九一八)十一月七日に亡くなりましたので、園源次郎と坂利三郎が惣代に選ばれています。

 さらに、この「改築御伺」書には、「金光教伏見教会改築工事設計書」と図面とが添付されていますが、その他に、「金光教伏見教会改築工事概算書」や「金光教伏見教会所建築予算書」が遺されています。それに依ると、改築工事費の見積額は、二万三千八百三十円二十銭となっていますが、その建築予算は、次の通りであります。

  金光教伏見教会所建築豫算
一、金貳萬六千五百九拾四圓也
 内訳
  一金壹萬貳百六拾圓也    積立金
  一金壹萬六千参百参拾四圓也 献納金
 支出の部
一、金貳萬六千五百参拾圓貳拾銭也
 内訳
  一金貳萬参千八百参拾圓貳拾銭也
             本殿建築費
  一金貳千七百圓也
           附属建物改造費
   差 引
  一金六拾参圓八拾銭也   残額
残額は別紙献納以外ニ献納可有之モノヲ加ヘテ諸雑費ニ使用スベク萬一不足ヲ生ズル場合ハ教会長並ニ信徒惣代ニ於テ必ズ負擔可致候
 右之通り相違無之候也
  大正十一年七月一日
     金光教伏見教会長
              権中講義 橋本為次郎印
              信徒惣代 北本 甚古 印
              同    橋本 秀吉 印
              同    金谷亮太郎 印
              同    園 源次郎 印
              同    坂 利三郎 印
 金光教管長大教主金光家邦殿
金光教伏見教会新築落成に付き神座奉斎式(大正12年4月16日)
(中央、洋服)祭主難波教会長近藤明道師(その左横)故橋本為次郎

 となっていますが、この予算書も管長宛に提出されたもので、そこには、大正五、六年以来の「おさがり」に依る積立金と左に掲げる献納金とで以て、主として本殿(現在の会堂のこと)の建築の費用に当てられることとなっています。つまり、この建築は、改築工事ではなく、実際は教則第九号教会構造方式に準拠してすすめられた教会広前の新築造営事業でありました。しかも、旧建物は、すでに維持財団の所有物件でありますから、それを解体して新築するのであります。教会長として全責任を負うて、万一にも成就しないという事態があってはならないのです。そこで、建築の予算計画も立て、その確実な資金についても認承を受けねばならなかったのでしょう。別紙として献納者とその献納額を報告しているのであります。その献納金の内訳として記された名簿を掲げて、教会長や教信徒のこの事業にかけた意欲をうかがってみましょう。

   献納金内訳

一金壹万弐百六十円也    積立金

一金五千円也      橋本為次郎

一金五百円也      仁張守之助

一金五百円也      坂 利三郎

一金五百円也      園 源次郎

一金五百円也      青木金三郎

一金五百円也      若山滝三郎

一金参百五十円也    山本熊次郎

一金参百五十円也    矢野 稲蔵

一金参百円也      小玉 フサ

一金参百円也      辻 栄次郎

一金弐百円也      田村末次郎

一金参百円也      金谷亮太郎

一金参百円也      廣野伝太郎

一金弐百円也      中野半四郎

一金弐百円也      前川音次郎

一金弐百円也      北本 甚吉

一金弐百円也      藤戸直三郎

一金壹百円也      岩村幾太郎

一金壹百円也      玉井 きく

一金百弐拾円也     勝村 こう

一金壹百円也      中島米次郎

一金壹百円也      塚本 音吉

一金壹百円也      上田徳次郎

一金壹百円也      村田種次郎

一金百五拾円也     矢野 ハル

一金六拾円也      友岡 駒吉

一金五拾円也      上野 岩吉

一金五拾円也      堀 松之助

一金六拾円也      小中金之助

一金五拾円也      船崎由兵衛

一金六拾円也      藤本 ぶん

一金五拾円也      田村庄次郎

一金五拾円也      糸川 嘉吉

一金参拾円也      遠藤 勝蔵

一金参拾円也      坂 民三郎

一金五拾日也      中島卯三郎

一金弐拾円也      黒川 新吉

一金弐百円也      澤田 与吉

一金参拾五円也     藤村幸太郎

一金壹百円也     長谷川熊之烝

一金拾円也       山本 うの

一金拾円也       田村 なか

一金拾五円也      中西弥三郎

一金弐円也       笠原辰之助

一金壹百円也      岡本清治郎

一金壹百円也      藤本 善吉

一金五拾円也      横山  峯

一金拾円也       澤田宗次郎

一金五円也       岡田元次郎

一金参拾円也      友井英四郎

一金壹百円也      中村種次郎

一金参拾円也      山田梅太郎

一金拾円也       中井与太郎

一金参円也       笠原末次郎

一金参拾六円也     清水浅次郎

一金壹百五拾円也    石井六次郎

一金壹百円也      松井 寅吉

一金六拾円也      坂本 ヤヱ

一金壹百円也      岡本 万吉

一金拾弐円也      藤原吾三郎

一金拾弐円也      村岸 てい

一金壹百円也      狭川徳次郎

一金七円也       中西安之助

一金参拾円也      橋本 秀吉

一金五円也       曽我 岩吉

一金拾円也       畑山 安蔵

一金拾円也       稲津 真吉

一金拾円也       畑山常次郎

一金五拾円也      清原 コマ

一金五拾円也      丑尾 ナヲ

一金四百円也      無 名

一金拾円也       岩村 光枝

一金拾弐円也      中村 テイ

一金弐拾円也      山本 せん

一金五拾円也      平和卯之助

一金拾弐円也      諏訪 信明

一金参拾円也      鈴木 はる

一金拾円也       中西庄太郎

一金弐円也       田中 広吉

一金参百円也      岩田 朝吉

一金弐百円也      鈴木  一

一金拾弐円也      沢野平五郎

一金拾弐円也     川崎冶右ェ門

一金五円也      内田又右ェ門

一金五円也      栗林吉右ェ門

一金五円也       中井松之助

一金五円也       栗林 広吉

一金拾円也       河崎 米吉

一金弐拾円也      鵜ノロ房吉

一金参円也       山田増次郎

一金参円也       栗林 源造

一金拾弐円也      山田 イサ

一金弐拾円也      鵜ノ口秀吉

一金拾円也       大住 テル

一金拾円        中西甚太郎

一金拾円        梅原滝三郎

一金五円        山田 芳枝

一金弐拾円也      岡村清次郎

一金参拾円也      香山 スミ

一金参拾円也      八尾安次郎

一金拾五円也      山本竹次郎

一金弐拾円也      荒木松之助

一金拾五円也      林 豊次郎

一金拾円也       黒川与三郎

一金拾円也       瀬戸長兵衛

一金参拾円也      佐々木定次郎

一金拾円也       西村兵太郎

一金参拾六円也     金谷 もよ

一金壹百円也      東村 重範

一金拾円也       山田 たね

一金参拾円也      福井竹次郎

一金五円也       荒木浅次郎

一金弐拾円也      辰 之 年

一金壹百円也      黒川 新吉

一金参拾円也      中西栄次郎

一金拾円也       藤田 つね

一金拾円也       木村米次郎

一金拾円也       今垣 伝吉

一金五円也       芦田藤太郎

一金拾円也       斎藤栄次郎

一金五円也       山村 為吉

一金五円也       斎藤 岩吉

一金五円也       山村長之助

一金拾円也       曽我小三郎

一金七百円也      橋本 あい

一金弐百円也      青木彦三郎

一金六円也       木田元次郎

一金壱百弐捨円也    若山 壽子

一金六円也       河村徳次郎

一金五円也       東村 フサ

一金拾弐円也      神戸  初

一金拾弐円也      畑山 吉松

一金参円也       梶山 政吉

一金参円也       江口亀太郎

一金参円也      斎ノ内新之助

一金壱円也      中西文左ヱ門

一金六拾円也      狭川 シカ

一金六円也       橋本 岩吉

一金参円也       中西清次郎

一金六円也       橋本直次郎

一金弐円也       森川巳之助

一金壱円也       中西勘次郎

一金拾弐円也      西川巳之助

一金五円也       岡本 みつ

一金壱円也       中西寅次郎

一金壱円也       木村治三郎

 合計金弐万六千五百九拾四円也

とあります。

 この改築御伺い書に先立って、大正十一年(一九二三)六月二十二日付で、金光教伏見教会所建築委員長金谷亮太郎と工事請負人長谷川新之烝(伏見町字新町五丁目三十一番戸)との間で、契約が結ばれ、設計監督は長谷川嘉三郎(伏見町字新町五丁目三十九番戸)でありました。この長谷川嘉三郎は、別格官幣社建勲神社(祭神は織田信長)の設計施工を監督した人で、長谷川真之烝も優れた宮大工であったと伝えられています。同年七月一日に着工、九月二十四日に上棟式、翌大正十二年(一九二三)四月三十日に附属建物まで一切が竣工しました。それに先立って四月十六日には新しい神殿に、新しい御神座が奉斎され、二代難波教会長近藤明道の斎王に依って、奉斎式が執行されました。そうして五月六日午後二時より東京教会長で金光教教監であった畑徳三郎の斎王のもとに、新築落成祝祭が執行されました。当日の参拝者三百七十名以上でありました。橋本為次郎にとっても、伏見教会所信徒にとっても、生涯の一大事業が完成し、ここに伏見布教の基盤が確立することになりました。

新築成った御堂前広前
 外観

 第三節 宇豆真毘彦の信徳

 大正十二年(一九二三)春の伏見教会所の新築落成は、橋本為次郎にとつての一世一代の建築であると共に、その信心を結集しての表現でありました。会堂は、当時の教則第九号教会所構造方式そのままの建造で、間口五間・奥行九間高床式の総檜造りでありました。建物の規模はさることながら、彼の信心の真骨頂は、参拝者の目には触れる事の無い「内陣」(御神座の間)の四畳敷きの濃やかな心遣いにありました。半間立方の御帳台を中央にして、左右に金屏風を立て、その前の右脇に金光四神様の御神座、左脇に経机を置いて手文庫と針箱を並べ、正しく此処に御神様のまします有様でありました。上は三寸画の格天井であります。御帳台の内には、八角筒型高サ一尺の天地金乃神様と教祖生神金光大神様との二体の御神じが安置されています。

 このように、とりわけ「内陣」は、為次郎が心を籠めて奉納しましたが、自分等が居住する舎屋は、むかし旅籠屋であつた旧広前の古い材木で二階建て八畳四間を建て、客間をも兼ねていました。台所も天井板を張らない旧来のままでした。

 為次郎夫妻は、信者達への教導はもとより、見寄りの者達への世話や心遣いも絶やしませんでしたので、日常的に訪ねて来る者も多く、それらの人に信心しておかげ受けるように諭していました。前節に掲げた献納者の三分ノ一は、それらの人達で、旧恩を忘れずに居たからでしょう。それは為次郎夫妻の信心の徳に由る証しでもあります。もとより夫妻よりも古くから信心してきた信者達が多く、いわば道の先輩として、厚誼をもって接していましたのでしょう、何時しか教会の御取次ぎの先生としての尊敬と信頼を、受けるようになりました。そのころの話として、妻のアイがその晩年に次ぎのように語っています。

 「ある信者で、若くして禿頭になった人があった。為次郎が御神灯の灯油を掃除していたところへ、その人が参って来た。為次郎はフと『この油を塗れば髪の毛が生える』と言葉を洩らしました。その一言を真に受けたその人は『先生!その油を戴かしてください』とお願いした。今さらに冗談とも言えぬほどの熱心さに、その人に油を与えた。ところが、その人は、毎日参って来ては灯明油を戴いて帰るので、為次郎はホトホト困った。しかしその元は、何気なくいった一言である。相済まぬことを申したと、それから時を問わず一心に神さまにお詫びをして、その人がおかげを頂くようにと祈願を籠めつづけた。ところが、やがてその人の頭にうっすらと毛が生えだし、一ヵ月後には禿頭とは見えぬ程になった。為次郎は、神さまに御礼を申しあげるとともに、お道の教師は軽はずみにものを言うてはならぬ、と自戒していた」

 ここには、為次郎の洩らした一言を、人知れず悩んでいたその人が、これぞ神のお言葉と信じて一心に願ったおかげであり、また為次郎も引くにも引けず唯一心に神の慈悲に縋つたおかげでありました。しかし為次郎にとっては、二度と繰り返してはならぬ辛い経験でもありました。

 また伏見教会所のことばかりではなく、教団の活動や事業の上にもお役に立ちたいという思いで、大教会所御造営や復興事業などに、毎年多額の献納をしていました。それは、為次郎夫妻が、生活費はつつましく教会所のお下りで賄い、借家からの家賃収入はすべて、これらの教費献納に充てていたからです。たびたびの水害や震災の場合にも、同様でありました。つまり家賃はすべて神様のものであると、考えていたからでしょう。前にも述べましたが、新築された伏見教会所の建物も、改めて金光教維持財団へ献納しました。このことも、神様の土地と建物であるという当時の制度に則っての措置であります。

 昭和四年(一九二九)八月十六日付けで京都府綴喜郡八幡町字山柴に、金光教石清水小教会所が設置され、初代教会長塚本英蔵が布教を始めました。塚本は、元々は大阪の靱教会所(教会長は和田安兵衛)の所属教師でしたが、京都府下で教会所を設けるためには、府内の教会所の教会長を保証に立てて京都府知事の認可を得ることになっていたので、靱教会長の依頼をうけて、伏見教会長の橋本為次郎が保証手続きをしました。そうした関係で、同年九月十四日の石清水小教会所開教式には、齋主を勤めました。それは為次郎が死去する一ヵ月半前のことであります。

 この年の春ごろから身体に不調を覚えていましたが、日常の広前奉仕には支障なく勤めていました。夏過ぎる頃から食欲が衰え、食パンを番茶にしたして食べていましたが、十月の二十日前後に床に就くようになり、十一月一日朝六時の月次祭を、副教会長であり養嗣子でもあった橋本真治が、塚本英蔵と奉仕する旨を挨拶すると、「頼むぞ、頼むぞ」と二度言葉にしたが、祭典が終るや息を引き取りました。享年五十九才で、病名は胃潰瘍でありました。

 橋本為次郎の葬儀は、十一月二日・三日が教会恒例の教祖大祭であったので遺骸を柩に納めて過ごし、四日夜に帰幽奏上祭・遷霊式・鎮祭(現在の終祭)が仕えられ、五日(時刻不詳)告別式が齋主平安教会長中野辰之助に依って行なわれました。多数の信奉者に見送られて、宇治川のほとり月橋院墓地に埋葬されました。金光教管長より大講義を追贈され、齋主に依って「橋本宇豆真毘彦(ウズマビヒコ)」と謚号をつけられました。この真毘彦の毘という字は、「たすける」とか「まもる」という意味で、真毘彦というのは真心で師匠を輔け、伏見教会所を守り通した男子≠ニいう謚り名であります。橋本為次郎の生前の働きを、逐一見届けてきた中野辰之助ならではの命名でありましょう。

 その後、昭和五十四年(一九七九)十一月三日に教祖大祭に併せて橋本為次郎大人五十年祭を執行しましたが、その翌年二月に、五代教会長橋本真治大人の遺志もあつて、清水山市営墓地へ移築し、初代教会長奥田平兵衛大人の奥城の傍らに改修しました。

石清水教会開教記念式
(前列中央)伏見教会長 橋本為次郎
(向かってその右)伏見教会副教会長 橋本真治
(向かってその左)初代石清水教会長 塚本英蔵


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