伏水のごとく 第2章

第一節 神道金光教会について へ  

第二節 京町支所から表町支所へ へ 

第三節 御堂前への移転と伏見支所 へ

第四節 憧れと揺らぎの中で へ    


 第二章 神道金光教会と伏見布教

 第一節 神道金光教会について

 畑徳三郎が東京布教に旅立ってから以後の伏見布教のことを、これから記述しなければなりませんが、その前に、伏見布教の背景にある神道金光教会について、概略の説明をしておきたいと思います。

 このことについては、前章でもその都度、断片的にふれましたが、畑徳三郎が伏見京町三丁目に取次の広前を設けたその年、つまり明治十八年(一八八五)の六月十三日付で、金光大神の道は、神道事務局に所属してはじめて教団を組織しました。その教団の名称を神道金光教会というのであります。それ以来、明治三十三年六月十六日付で金光教という独立した教団になるまでの十五年間は、神道金光教会と称えられていました。

 ところで神道事務局というのは、明治八年(一八七五)三月に、神道(日本固有の信仰に基づいている宗教の総称)に関係する教導職(明治政府が定めた官製の布教師)を統轄する事務所として設けられ、仏教関係の教導職とは独立して、民衆の教化活動を行うことになりました。それと同時に、いままで明治政府が直接に管掌していた教導職も、民間の自主的な教化活動に委ねられることになりましたので、神道事務局は、それらの教導職の連絡機関の役目を果すことになりました。ところが、明治十五年(一八八二)になって、「神社は宗教に非ず」という政府の政策から、いわゆる官幣社、国幣社といわれた有力な神社の神職は民衆の教化活動に直接たずさわることを禁止され、国家神道として専ら祭祀儀礼に従うこととなりましたので、いままでそれらの神社に所属して教化活動をしてきた氏子集団(講社)などは、神社から分かれて教派神道として教団を設立し、ひきつづき教化活動を行っていくことになりました。しかしながら、神道事務局に所属していた教職者の中から、神社の神職にある者らは勿論のこと、新設の教派神道に所属する者らは、事務局から離脱してゆきましたので後に残った人達は、独自の教団を組織して、これを「神道」と名づけ、その事務局を本局と称えました。神道金光教会は、丁度その頃の神道事務局に属したわけであります。

 さて神道金光教会は、明治十八年六月十三日に神道事務局に所属してその一つの教会となりましたが、その翌年(一八八六)には、今も述べたように、神道事務局が教派神道の一つとして「神道」ということになり、その本部事務所を本局と称し、教団を監督する神道管長に、江戸幕府の最後の老中職であった稲葉正邦が就任しました。従って、稲葉管長の統管のもとで、新しく定められた「神道教規」に従って、金光大神の道を布教することになりました。この神道教規に規定された奉斎主神がやがて神道金光教会の信仰上の問題となって、神道から分かれて独立する主なる理由となりましたが、それは改めて後に述べることにします。

 ところで、前にも述べたように、畑徳三郎が開いた広前が、明治二十年(一八八七)十月四日付で、神道金光教会第二等京町支教会所として知事の認可を受けましたが、その一月半ばかり後の十一月二十一日に、金光教会は、いままでの神道備中事務分局に所属する普通教会から神道本局の直轄教会(六等)に昇格し、翌年三月一日には、神道金光教会条規が定められて、教長金光萩雄が金光教会長に就任し、全国各地の広前を、直接に統轄することができる教団の仕組になりました。その条規に依って、京町支教会所も京町支所とよぶことになります。そのように全国的な仕組になったとはいえ、教団を組織して未だ三年ばかりの金光教会でありますから、その布教の実態は混沌として居りました。

 金光大神の道を奉じて各地に布教していた人は、必ずしも金光教会にすべて参加していたとはいえず、当時、西京とよばれた京都市内でも、中野米次郎が主宰する平安支所と杉田政次郎が主宰する島原支所の二ケ所を中心とする信徒集団(講社)が加入していましたが、田中庄吉や芦田道之助等は、御金神社を建てて神道神宮教に所属する教会を設立して布教活動をすすめていました。このような例は大阪市内にも岡山、広島、山口等の各県にも見られましたが、それらの人達の中には、後年になって神道金光教会に加盟することもあったとは言え、それぞれが所属した教派との絆にしばられて、今日では殆どその消息を知ることができなくなりました。

 ともあれ京町支所は、畑徳三郎の上京後も、そのような混迷の時期を通って、取次の広前を維持しながら布教を続けることができました。それは、ひとえに畑徳三郎の徳を慕う信徒の固い結合に依るものであったといえましょう。それらの信徒の人達のことを、次に記述してみようと思います。

 第二節 京町支所から表町支所へ 

 畑徳三郎は、京町支所の将来のことは、恩師の近藤藤守の思し召しに任せて東京へ出立したのですが、直接、広前の日常の取次奉仕については、宮崎二に依託していたようでありました。当時のことを詳細に伝える資料が殆どありませんので、僅かな日伝え程度のもので、いきおい推測の域を出ませんが、それらに依ると、宮崎二は徳三郎の上京後約半年ばかり広前に奉仕していたとのことであります。

 宮崎二という人は、当時は小学校教員であったことから、畑徳三郎とは懇意の間柄でもあったと思われ、信者の中からこの人に事情を打ち明けて依託したのでありましょう。この人は文久三年(一八六三)五月十二日生れで、本籍は山城国紀伊郡伏見表町十八番邸であるという記録がありますので、徳三郎よりは三歳年長で、元来伏見の人であったと思われます。そしてどのような事情から信者になったかは明らかではありませんが、徳三郎が上京した直後の明治二十一年四月五日付で、金光教会の教師(教導職試補)になり、広前の奉仕をすることになりました。その後半年ばかりで、京町支所での広前奉仕をしりぞき、黒田徳次郎と交替して居りますが、その間の事情も明らかではありません。ただ推測すると、本業の学校教員の職務から、広前の奉仕をつづけるのが困難になったのでしょう。

 黒田徳次郎という人は、丹波国南桑田郡亀岡町の出身で、金光教会の教師になって、近藤藤守の広前である金光教会難波分所に所属する特派講師でありました。金光教会の教師には、特派講師と修信講師との二種類の役職に分れ、特派講師というのは、分所や本部に籍を置いて、時に応じて各地の広前に派遣され、その都度の布教や宣教に従事することを役目としていた教師であります。これに対して修信講師というのは、定まった広前に終生奉仕し、ほとんど移動することがありませんでした。金光教会の一般の教師は、大抵この修信講師でありました。黒田徳次郎は、難波分所から派遣されて、京町支所の担当教師となったのであります。しかしこの人も、一年余りで京町支所をはなれ、難波分所に引き取られ、さらに佐藤範雄の広前であった芸備分所に移籍して、明治三十五、六年頃には、北海道の北端に近い稚内で宗谷小教会所を開いて晩年を送りました。京町支所を引き挙げた事情は分りませんが、後の記録に依ると「事故のため奉仕不能」と記されています。

 黒田徳次郎が引きあげた後の京町支所の広前は、伏見京橋塩屋町第四第戸に居住していた中村岩次郎が、その手代りとして留守を預ることになりました。岩次郎は支所の世話係でもありましたが、本業は指物大工職でありましたから、日常の生活には余り支障がなかったのでしょう。恩師である畑徳三郎の広前をお守りするのだという思いで、広前の奉仕にあたりました。彼もまた、前にも述べた北本音吉と同様に、いずれ畑徳三郎が東京から帰って来るものと待ちわびていたひとりでありました。その後前章で述べた伏見町北浜の藤岡作兵衛が、東京分所副長となっていましたが、明治三十年(一八九七)二月六日に亡くなりましたので岩次郎は畑徳三郎のもとで東京分所での広前の作事などの御用にたずさわりました。

 明治二十三年(一八九○)十二月八日に、黒田徳次郎の後任として、難波分所から風井保橘が京町支所長として赴任してきました。この人は、大阪府豊能郡池田町の出身で、嘉永六年(一八五三)十一月二十一日生まれ、明治十九年(一八八四)四月二十九日付で父親の源兵衛の死亡によって家督を相続しましたが、池田町役場の書記から収入役にまでなった町の素封家でありました。彼は、前章でも述べた濱田安太郎が金光教会池田支所を開設した当初からの信者で、文筆も立ち、会計事務にも明るいところから、難波分所の庶務をあずかっていましたが、京町支所に担任教師が居なくなったところから、近藤藤守の命をうけて、支所長として広前奉仕に従うことになりました。風井保橘についての資料が断片ながら多少は残っていますので、それらをつづり合せて、その人物像を画いてみることができます。

 風井保橋は、明治二十一年(一八八八)十二月二十六日に金光教会の教師を拝命して、明治二十三年(一八九○)の暮に京町支所長になり、当時五十二才になる母ムメと二人の妹(モトが二十七才、クマが十六才)を連れて、伏見京町三丁目二番戸の広前に奉仕することになりました。その他に、内縁の妻(とり)と子供(春吉又は治橘)が居ったようで、その頃の様子を知っている信者は「風井さんは、家族が多く、なかなか複雑な家庭のようでした」と語っています。(坂利三郎談)しかも妹のモトは、未婚のまま三年の後に死亡していますので、恐らく病身(肺結核)ではなかったかと思われます。したがって布教するといっても、参って来る人の中には、そのことを嫌って、布教は困難となり、暮し向きも決して楽ではなかったのでしょう、妻のとりが髪結い仕事をしながら、生計を補っていたとも伝えられています。(島津ミッ談)

 そのような態であったうえに、前章でも述べた寺田支所の田畑五郎右衛門の信者であった岡田豊次郎達の田畑組講社が、伏見銀座一丁目十八番戸の香川愛の所有家屋を借りて、すでに明治二十一年(一八八八)十二月六日付で、神道金光教会第二等銀座支所を設け、田畑五郎右衛門の名儀で布教をはじめていました。この銀座支所の設置は、畑徳三郎が上京した年の暮のことであり、京町支所とは五十米を離れぬ目と鼻の先ほどの場所でもありましたから、多分に対抗的な意味もあったかと思われます。田畑五郎右衛門も定期に銀座支所に出張して教導に当っていたようですが、明治二十二年(一八八九)八月から大西喜三郎が担当教師となり、支所長として専ら布教していました。風井保橘が京町支所に赴任した頃には、銀座支所の布教も安定した活動をしていたようであります。

 このように対照的な京町支所の沈滞した実状に対して、畑徳三郎の実兄でもある信徒総代の西村七兵衛は京町支所の前途に危機感を抱いたのでありましょう、風井保橘に対して家族の者らだけでも住居を移すようにと進言を重ねましたが、風井をはじめ家族等は、連れ立って伏見表町五百七十九、五百八十番地の場所に居を移り、そこで布教をつづけることになりましたので、広前も明治二十四年(一八九一)八月十九日付で神道金光教会表町支所と改称することになりました。それにしても、風井保橘にとっては、止むなきこととは言え、恩師近藤藤守の命を奉じて京町支所での布教に赴きながら、取次の広前を移さねばならなかったことは、何としても心に残ることでありました。

 一方、信徒の中にも、彼の境遇に同情して心を寄せる者もあって、京橋から柳町(現在の中書島)界隈にかけて、新しく信徒に加わる人達もありました。後に信徒総代になった八尾重次郎、池田とらもその中心になって、熱心に信心をしていました。ところがこの表町支所の広前は、移ってきた事情からみて、仮住いのようなもので、当時の法規制から言うと、借家、借地での布教行為は公式のものとは認められませんでしたから、ここで将来とも布教をつづけてゆくためには、家屋か、地所かを買取ることが必要でありました。しかも当時のことを知る人の伝えでは、神道金光教会という公認の宗教であっても、一般には流行神のごとく思われて居り、表町支所の真向いに警察の派出所があって、絶えず警官の監視や検索を受けなければならなかったという有様でした。たとえば、日常の参拝者が、広前に出されていた御神酒を頂いて帰ることも、呪術、迷信の類とみなされ、その撤去を命ぜられることもありました。信者の心ある人達は、こころ置きなく信心のできる場所へ移転したいと、苦慮するようになりました。

 そういう最中に、風井保橘の妹モトが病死しましたので、彼は「わが身内の病気さえ助けることができずに、どうして他人の病気が助けられるか」と思い悩んで、布教への意欲もにぶりがちになり、酒に苦衷をまぎらすようになりました。(橋本あい談)

 それにも拘らず、信者の人達は、真剣に広前の将来を考えて、たまたま支所の近くの旅館に火災があったので、その焼跡に移転しようと、焼跡の整理や地ならし工事に、早朝から奉仕作業をしていたということです。(園源次郎談)このような信者の熱意が神に通じたのでしょうか、明治二十七年(一八九四)八月になって、信者の矢野はるが、伏見町字御堂前六百十七番地、六百十九番地に永らく貸家札のかかった旅篭屋の空家があると知らせたので、早速その家屋を借りて支所を移転することに衆議が決りました。

 第三節 御堂前への移転と伏見支所

 畑徳三郎に依って開かれた取次の広前が、京町三丁目から表町に移り、さらに御堂前への三転する間に、田畑組講社が立てた銀座支所も、大西喜三郎が支所長に就任してからは、銀座一丁目から新町六丁目第二十八番戸に移りました。ここで、その後の銀座支所についてふれておきましょう。

 大西喜三郎という人は、近江国滋賀郡大津石橋町(現大津市)の出身で、弘化四年(一八四七)十一月十六日の生まれでありますから、明治二十二年当時には四十二才になります。その前年に金光教会の教師となり、田畑五郎右衛門が銀座支所長の兼任をしりぞいて、専任の支所長となりました。田畑が支所長を退任したのは、おそらく寺田支所長と兼務することが、制度上不適当であったからで、そこで専任者を、当時の金光教会大阪分所の管轄上、麓(後の平安)支所長中野米次郎の紹介で、大西喜三郎を招いたのでありましょう。しかし実際には、田畑五郎右衛門が伏見に在住して信徒の教導に当っていたとの伝えもあります。

 ところが、明治二十五年(一八八九)に、田畑組の中心であった岡田豊治郎が紀伊郡深草北新町に移転し、翌年には大西喜三郎も支所長を辞任していますから、銀座支所も有名無実の状態になっていたと思われます。なお因みに、このような場合に、支所を廃止する手続をすると、再び設置することが出来なかったので、銀座支所の存置は、京都市上京区油小路出水南入る近衛町四番戸にあった講社事務仮扱所に移して、中野米次郎の名儀で近衛支所と改称されることになりました。そこで、伏見町における金光教会の広前は、御堂前に移転することとなった表町支所のみとなったわけであります。田畑五郎石衛門も老齢とともに伏見の地を離れて在所の寺田村に帰り、明治三十一年(一八九八)七月二十三日午後二時四十分に六十五才でこの世を去っています。

 さて、表町支所が御堂前の地に移転することになった時の家屋の賃貸借契約書は、次のようなものであります。

 「第千十二号 不動産賃貸借契約證書正式謄本」

熊本県飽田郡横手村字北岡千百六十二番地住居無業士族
 賃賃主         鵜 殿 基 直
               当六十四年
右鵜殿基直代理人
同県士族当時大阪府大阪市北区中ノ島五丁目百四十九番屋敷寄留
             能 勢 登 馬
               当五十九年
神道金光教会伏見支所
受持主任
大阪府摂津国豊島郡池田町字北新町四十七番
敷住居 平民
当時京都府紀伊郡伏見町字御堂前五番戸寄留
 賃借主         風 井 保 橘
               当四十二年
右風井保橘代理兼信徒総代兼
 保証人
同府紀伊郡伏見町字今七番戸住居青物商平民
             八 尾 重次郎
               当三十七年
右同町字表十番戸住居旅宿業平民信徒総代
 保障人         池 田 と ら
               当四十五年
右池出とら代理兼信徒総代兼
 保証人
右同町字御駕寵四十番戸住居植木商平民
             久保田 徳 蔵
               当三十八年
右同町字南浜二十五番戸寄留滋賀県平民農業
 立会人         下 村 龍太郎
               当二十四年
 右鵜殿基直ノ委任状ヲ所持シタル代理人能勢登馬及ヒ風井保橘ノ委任状ヲ所持シタル代兼人八尾重次郎及ヒ池田とらノ委任状ヲ所持シタル代兼人久保田徳蔵ハ明治二十七年七月二十五日公証人田山邑平役場ニ於テ下村龍太郎ノ立会ヲ以テ左ノ契約ヲ締結ス

 京都府紀伊郡伏見町字御堂前六百十七番地
 一宅地百六十五坪三合
 右同町字同六百十九番地
 一宅地八十二坪二合五勺
前記物件ハ鵜殿基直所有ニシテ明治二十七年七月二十五日賃借主ニ於テ金光教会本部ノ認可ヲ経金光教会伏見支所設立ノ為メ借受ケタル旨風井保橘代兼人ニ於テ陳述シ賃貸主鵜殿基直代理人能勢登馬之レヲ承認セリ依テ風井保橘ハ左記各項ノ義務ヲ履行スル旨代兼人ニ於テ陳述セリ
第一項 前記宅地ニ対スル賃金ハ一ケ年七円五十銭ト定メ毎年六月二十五日及ヒ十二月二十五日ノ両度ニ其年分ノ半額乃チ金三円七十五銭宛持参支払スル事
第二項 賃貸借期限ヲ明治二十九年八月二十五日限ト定メ本証物件ヲ賃貸主へ返戻スル事
第三項 本証物件ハ神道金光教会支所設立ノ目的ヲ以テ借受ケタルモノナレハ其使用方法ヲ変セサル事
第四項  本証地所ニ謀スル租税其ノ他ノ公課ハ賃賃主ニ於テ負担支弁スル事
第五項 賃貸主ノ承諾ヲ得ルニアラサレハ地盤ノ形状ヲ変セス又転賃セサル事
第六項 前各項ノ一タリトモ之レニ背キタルトキハ勿論期限ノ利益ヲ失ナフ事
第七項 本証契約ハ神道金光教会ニ於テ其責任ヲ負フハ勿論本証風井保橘一私人ノ資格ニ於テモ連帯義務ノ責任ヲ負フ事
八尾重次郎池田とら久保田徳蔵ハ神道金光教会伏見支所受持主任風井保橘ノ保証人トナリ一切担保ノ責ニ任スルハ勿論債務履行ノ場合ニ当ツテハ債務者ト連帯義務ノ責任ヲ負フ旨代兼人ニ於テ陳述セリ賃借主及ヒ保証人本証債務履行ヲ怠タリタル時ハ理由ノ何タルヲ問ハス一般財産ニ対シ直チニ権利執行ヲ受クヘキ事
右関係人一同へ読聞カセタル處相違ナキ事を認メ左ニ署名捺印ス
              能 勢 登 馬 印
              八 尾 重次郎 印
              久保田 徳 蔵 印
              下 村 龍太郎 印
 右契約ヲ確認スル為メ左ニ著名捺印スル者也
 明治二十七年七月二十五日公証人田山邑平役場ニ於テ
伏見區裁判所管内京都府紀伊郡伏見町字南浜二十七番戸住居
     公證人    田 山 邑 平 印
                (以下省略)

 この契約証からみますと、風井保橘は、この時にはすでに伏見町字御堂前五番地に移っていたようですが、五番地という地番がありませんから、これは書き間違いか、或るいは代理人の思い違いであろうかと思われます。ただ正式の契約がこのときに結ばれ、信徒総代の八尾重次郎、池田とら、久保田徳蔵の三人が、保証人として直接に貸借交渉に当っていたのではないでしょうか。

 この契約条件をみると、債務の支払い金額は、当時としては高額であって、その支払いが滞るか不履行かが理由となって貸借期限に近い明治二十九年(一八九六)七月十四日付で、風井保橘は金光教会の教師を免ぜられ、伏見支所長の職も退いています。おそらく保証人であった三人の信徒総代が、その支払を負担しているものと思われます。そしてその際に、契約を更新するか延長することに依って、引き続いてこの家屋を借りて、金光教会伏見支所を存続することになりました。しかしながら、伏見支所には担任教師が居なくなったので、信徒が交替して広前の奉仕をしていたようです。明治二十九年五月二十三日から翌年一月十二日までの間の数名の筆になる御届帳が、二冊残っています。そこに記載されている人達の名前を、次に列挙してみますと、当時の様子が偲ばれます。

 青木 九三( 四) 青木仙次郎(一六) 青木安次郎( 九)

 芦田 芳蔵( 七) 芦田 うた( 二) 浅田 ます( 一)

 荒木 きみ( 一) 荒木藤次郎( 二) 荒木松之助( 一)

 飯尾 あい( 一) 飯尾 政次( 六) 飯尾柳太郎( 二)

 飯田 正治( 二) 飯田 元吉( 五) 池田 とら(一八)

 池田 きみ( 一) 市田 きく( 二) 市田種治郎( 一)

 市田 万助(一八) 一色 重吉( 三) 今林彦太郎( 三)

 今林彦二郎( 三) 今林彦三郎( 四) 今西  某( 一)

 岩見清二郎( 二) 岩見益次郎( 八) 岩見 マス( 一)

 岩見 よね( 一) 宇野 藤吉( 二) 上田富三郎( 二)

 上田 ノヱ( 四) 内山 かつ( 二) 内山新兵衛( 二)

 遠藤 きの( 一) 遠藤 ナヲ( 一) 遠藤 ふさ( 四)

 大倉 あさ( 一) 大倉 きみ( 一) 大倉清兵衛(一五)

 大倉 はな( 一) 太田 仙吉( 一) 太田 みつ( 二)

 大橋 きぬ( 九) 大村 庄蔵( 一) 岡  タキ( 二)

 岡野 とめ( 一) 岡本 いと( 四) 岡本彦二郎(一六)

 岡田治衛門( 一) 岡谷  某( 一) 奥西 なみ( 五)

 奥西 みつ( 六) 奥西安之助( 二) 尾谷元次郎( 一)

 小野作衛門( 二) 小野 直吉( 四) 風井 キヌ( 一)

 風井 とり( 一) 風井 春吉( 五) 風井 保橘( 二)

 風井 ムメ(一〇) 笠原源二郎( 四) 笠原 とも( 一)

 笠原松之助( 二) 笠原 むめ( 一) 加藤長兵衛(一三)

 加藤 つね(一三) 金谷光之助( 九) 金谷 もよ( 二)

 金谷亮太郎( 一) 上辻 たつ( 二) 河野捨次郎( 一)

 北得 清吉(一八) 北岡 こと( 五) 北本 音吉( 七)

 北本甚之助( 二) 北村 せい( 三) 岸本長太郎( 二)

 岸本安次郎( 二) 本村 嘉七(一〇) 木村弥三郎( 一)

 久保田徳蔵( 三) 久保田ゆき( 二) 黒川 しな( 一)

 黒川 新吉( 二) 黒川清兵衛( 二) 黒川 藤平(一六)

 黒田 チヱ( 一) 桑野 甚七( 一) 小中 平吉( 一)

 小林茂太郎( 一) 小林 重門( 二) 阪 源太郎(一六)

 阪 源二郎( 六) 阪  ふじ( 二) 阪 利三郎( 一)

 斉藤 勝恭( 二) 斉藤欣太郎( 一) 沢井 こま( 一)

 沢井忠衛門( 一) 沢井 つね( 一) 沢井 ひで( 一)

 沢井萬治郎( 一) 清水伊太郎( 一) 下尾万太郎( 二)

 下尾 りう( 二) 菅野 惣吉( 一) 杉山甚兵衛( 二)

 鈴木 サヨ( 五) 園 源治郎(一二七)立川梅太郎(一)

 立川 はる( 一) 立川万太郎(一五) 田川 友治( 一)

 田畑爲治郎( 六) 田村庄三郎( 九) 田村 庄蔵( 一)

 田村 与一( 一) 壇弥次兵衛( 六) 辻 伊之助( 六)

 辻  うの( 二) 東村久四郎( 四) 東村久次郎(一二)

 東村 ふさ( 四) 東村 かね( 一) 友岡 駒吉( 三)

 豊田 べん( 六) 中井  某( 一) 中川 新蔵( 三)

 中塚徳治郎(一二) 中島 梅吉( 四) 中西 かの( 八)

 中西 カナ( 一) 中西勝之助( 一) 中西徳之助( 一)

 中西寅治郎( 二) 中西 寅吉( 一) 中西宗治郎( 一)

 中西 安吉( 一) 中西保之助( 一) 中西奈良吉( 一)

 中路八兵衛(一七) 中村岩次郎( 三) 中村孝治郎( 四)

 中村 ふさ( 一) 半井孝次郎( 一) 長島伊三郎( 一)

 長島 いく( 二) 名田熊次郎( 三) 西川 くま( 三)

 西川新之丞( 一) 西川 とよ( 一) 西川 ハル( 一)

 西村 さく( 一) 西村七兵衛(一四) 西村虎之助( 七)

 西村登志野( 一) 納村秀之助( 一) 橋本 秀吉(一七)

 長谷川卯之助( 一)長谷川てる( 一) 服部喜衛門( 一)

 服部友治郎(一四) 福井 音吉(一二) 福井 吉松( 二)

 福井 あい( 一) 藤井宗兵衛(一六) 堀井 ふじ( 二)

 本田 朝吉( 一) 本田助三郎( 一) 本間 虎吉( 一)

 前田小三郎( 二) 前田持右衛門(一) 牧野卯之助( 三)

 松田 ちか(二三) 松並 いと( 一) 松並幸治郎( 三)

 松並 よね( 二) 松本甚兵衛( 三) 宮崎利兵衛( 七)

 村上雄一郎( 三) 村木 きく( 一) 村瀬保兵衛( 一)

 村田九郎兵衛( 二)森 新二郎( 九) 森  みさ( 一)

 八尾重次郎(一七) 藪本松之助( 二) 山田岩次郎( 二)

 山田繁二郎( 八) 山田 ヂウ( 三) 山田辰之助( 三)

 山本 磯吉( 一) 山本 岩吉( 二) 山本熊次郎( 一)

 山本徳次郎( 一) 山本松之助( 一) 山本萬五郎( 六)

 矢野 りう( 一) 横山 ミツ( 四) 吉井安治郎(一七)

 吉井 とみ( 二) 吉川 ツル( 一) 吉田 岩吉( 二)

 吉田吉五郎( 一) 吉村 イシ( 一) 吉村 ユキ( 一)

 鷲尾伊三郎( 一) 鷲尾 兵助( 四) 鷲尾 よね( 一)

 渡辺茂次郎( 二) 渡辺竹次郎( 一) 渡辺 常助( 一)

 の合計二百十三名の名前が記され、その他に、島原支所から教師として祭典に参列された辻定治郎、三田新三郎、棚橋春江、西田卯平、加藤馬之助の名前がみえます。なお、名前の下に数字を註記しましたが、この帳面にその人の名前が記載されている回数であります。

御祈念帳

 第四節 憧れと揺らぎの中で

 明治二十年代(一八八七〜一八九六)の日本の社会は、近代国家の体制をととのえながら世界史の舞台に舟出しはじめた時期でもありました。明治二十二年(一八八九)の帝国憲法の発布と明治二十七、八年(一八九四〜九五)の日清戦争とは、この時期を象徴する出来事でありますが、庶民の生活にあっては、旧き時代への懐旧と新しき時代への憧れの間で、不安に揺れ動いていた時代でもあります。千年来の都であった京は、江戸への遷都によって人口は激減し、伝統ある商工芸も衰徴の途を辿りつつありましたので、何とかかつての都の賑いにかえしたいとの機運が興ってまいりました。それは金光教会のような新宗教が拡張していく土壌でもあったのでしょう、伏見支所の場合、担当の教師がいないままに、島原支所の教師が派遣されて、祭典が執行されるという状態が長くつづいて居りました。そういう中での信者の信心の動きを、前節にかかげた人達の内の二、三について述べてみようと思います。

 一、A家の入信

 伏見東・屋町に住んでいたA九三(蔵)には、安次郎と仙次郎の男の子がありました。清酒の卸売業を営んでいましたが、弟の仙次郎が数えの十九才の時、医者から死の宣告をうける病床にありましたので、九三をはじめ家族の者らは、入れ替り立ち替り御堂前の金光教会の広前に日に何度となく参拝して祈願をこめましたが、遂に葬式を出さねばならぬ事態になりました。家族や親族の者らが集ってその準備をして居る最中に、仙次郎は奇蹟的にも息を吹き返し蘇生したのでした。一同は驚きとも喜びともつかず、取るものも取りあえずに直ちに広前に参って神前に御礼を申し、健康の回復を祈りました。そしてその時を境に起死回生のおかげを頂いて、一家をあげて感謝の新生活をするようになりました。(青木りえ談)それは明治二十八年(一八九五)のことでありますが、その後、仙次郎と安次郎の兄弟がそろって信徒総代の御用をいただくようになりました。

 二、B家の入信

 B光之助ともよとの夫婦の間に三男一女がありました。長男が亮太郎、次男が次郎、三男が信三郎、そして末娘が千代であります。千代は明治二十年(一八八七)四月二十三日に生まれましたが、男児ばかりの末に生まれた女児でありますから両親はもとより祖父の伝左衛門も大そう喜びました。ところが間もなく肺炎に罹り、生死の境をさ迷う病状になりましたので、当時島原の金神さまの霊験あらたかであるとの噂を耳にした祖父は、孫娘の可愛さに杉田政治郎の島原支所の広前に参詣しました。その日は、丁度大祭が仕えられていたので、その直会の白雪こうの絞菓子を頂いて帰り、早速その一片を、母乳さえ飲もうとしなかった千代の口にふくませますと、美味そうにいただきました。それ以来回復にむかい、やがて健康になりましたので、祖父は、さらまって島原の広前に千代を抱いて御礼に参りました。

 この千代がおかげを受けたことを機縁に、一家をあげて信心するようになりましたが、とりわけ母親のもよは、乙訓郡羽束師村菱川から一里余の道のりを歩いて、伏見支所の広前に日参をつづけました。(O千代談)後年、亮太郎は金光教伏見教会所の信徒総代として、次郎と信三郎とは、金光教教師となりました。そうして兄は金光教山手教会長として、弟は神戸教会長となって、共に布教に従いました。

 三、C家の入信

 伏見町・二丁目に住居のあるC源太郎は、明治十六年(一八八三)に息子の利三郎が病気の時、親類の山本国吉からすすめられて、寺田村の田畑五郎右衛門の広前に参ったのが、金光大神の道に信縁をいただいたはじめであります。その後、利三郎が六才の時、再び病気になり腸チフスと診断されました。この時は、丁度、伏見京町三丁目に畑徳三郎の広前が開かれたときでもありましたから、その取次をうけて全快のおかげをいただきました。それ以来、畑徳三郎が上京した後も、京町支所に参拝をつづけ、明治二十一年(一八八八)七月二十五日には金光教会の教師を拝命しました。

 C源太郎もまた、畑徳三郎の帰りを待ちわびた信者のひとりで、伏見支所となってからも、その広前を守りつつ信心をつづけましたので、明治三十五年(一九○二)七月二十六日には、金光教教師として権訓導に補せられました。明治四十年(一九○七)四月二十九日に五十九才で亡くなりましたが、息子の利三郎は、父の跡をついで信心をすすめ、後年、信徒総代として教会長を輔けて、教会の祭典の御用や信徒のお世話に、骨身を惜しまず仕えました。

 四、D家の入信

 D家は、もともと京の東山二年坂の旧家でありましたが、D源治郎の父の利兵衛の代になって家運も傾き、あまつさえ若くして亡くなり、母の笑も相次いで世を去りましたので、源治郎は、十二歳で父方の実家であった中路家に引き取られ、祖母の手で育てられました。伯父である中路八兵衛の店で働きながら、祖母とともに畑徳三郎の広前に参ったのが、信心のはじめであります。家運の再興を願う源治郎と孫の将来を思う祖母との祈りが一つになって、信心をつづけました。

 明治二十九年(一八九六)に源治郎は、伏見・屋町に独立して塩物商の店を出すようになり、その時妻を迎えて家庭を持ちました。その日その日の仕入れた品物の初穂を、必ず広前にお供えして商売をはじめましたので、前節に掲げた御届帳には、群を抜いて彼の名前が記帳されています。仕入れのこと、売り物のこと、事細く神前にお届けしての商売は、人に対しても誠実でありましたから、誰からも厚い信用をうけました。それはD源治郎の生涯を通して変りませんでした。明治三十六年(一九〇三)には、かねて念願であった伏見町で最も賑った商店街の・町(通称・屋町)に店を構えることができ、それとともに「N源」という彼の名を知らぬ人がないほどの篤信者として尊敬され、信徒総代の御用もつとめるようになりました。

 ここに採りあげた人達の他にも、その入信についての伝えがありますが、例えば、K本音吉は長男の甚之助の病気を機縁に、K川藤平は一粒種の新吉を授けて頂くために、F井吉松もわが命にかけて一子の新吉を授かりたいとの願いで信心をはじめたことなど、この時期の信者の人達のことが「おかげ話」として伝えられています。

 ところで、明治二十九年(一八九六)九月一日、伏見支所の土地建物が山本庄之助の所有となりましたので、同氏から改めて借用することになり、金光教の独立後、金光教伏見教会所となってから、つまり明治三十五年(一九○二)九月十二日に買取ることができました。その経緯については、改めて述べることとします。


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