伏水のごとく 第3章

 第一節 金光教の独立            

 第二節 初代教会長奥田平兵衛と伏見布教(一)

 第三節 初代教会長奥田平兵衛と伏見布教(二)

 第四節 教導と遺言             


 第三章 別派独立前後の伏見布教

 第一節 金光教の独立

明治37年 前列向かって左から3人目が奥田平兵衛師

 神道金光教会は、明治二十年代の後半になると、めざましい勢いで全国各地に広がり、主要な都市には次ぎ次ぎと布教所が設けられて、信奉者の数も増加してゆきました。この頃の布教所は、その規模や設置の時期によって、支所・説教所・講社事務所などとよばれていましたが、京都市内でも、前に述べた平安支所と島原支所を中心として、近衛支所、嵯峨支所、加茂川支所、聚楽説教所、北野説教所などが開かれ、京都府下の郡部では、寺田支所、伏見支所、亀岡支所、福知山支所、園部支所、宮津支所をはじめ、各町村に講社事務所が設けられました。このような状況は、北は北梅道から南は鹿児島に至るまで及び、明治三十一年頃になると、全国で公認された布教所だけでも二百を数え、教師数も六百をこえる有様となりました。そうして神道本局に属する教会の中でも、屈指の有力な教団となりましたので、宗教としての本来の教団、すなわち金光教として独立する機運が生まれてきました。

 ここで「独立」ということについて、神道金光教会の場合に即して概略の説明をしておきましょう。「独立」ということは、現在では殆んど意味のないことになりましたが、昭和二十年十月の宗教団体法が廃止されるまでのわが国においては、宗教にとって大変重要な意味を持っていました。明治維新以後、国家(政府)は、宗教に関する制度改革をすすめるなかで、民衆宗教の取締りに腐心しましたが、幕末期から勤皇思想を鼓吹してきた黒住講社と修正派とを、明治九年に神道関係の創唱宗教として公認しました。それが最初の神道教派の設立であります。つづいて、前章第一節でも触れた明治十五年一月の神宮教導職の分離政策にともなって、官国幣社に所属していたそれぞれの崇敬講社を、神道教派として独自の宗教活動を行なうことを公認しました。この時は「特立」とよびます。つまり特例として教派の独立を認めるという意味で、その年五月には、神道神宮派(後に解散して、神宮奉讃会という団体になりました)神道出雲大社派、神道扶桑派、神道実行派、神道大成派、神道神習派、更に九月には、神道御嶽派のつごう七教派が公認されました。次いで、明治十七年八月に太政官布達第十九号で、神道仏教を通じて、それぞれの教派・宗派に、国家から監督権を委任された管長が置かれ、その教宗派を統轄・統理することになりました。これが所謂管長制度で、この制度に基づいて、明治十九年一月には、前に掲げた神道九教派に属さない教導職の連絡機関であった神道事務局も、「神道」という独立の教派(現在の神道大教)として公認されました。こえて明治二十六年十月には、神理教が御嶽教から別れて独立の教派として公認され、同時に楔教も独立しました。この時は「別派独立」とよばれましたが、その意味は、全く新しい宗教として認めたのではなく、既に国家が認めている宗教から分派したものであると称したのであります。ここにも、国家の宗教監督の意図が隠されていて、新しい宗教の独立は今後認めないという明治十五年以来の態度を表わしているものと言えましょう。

 ところで、神道金光教会は、教祖金光大神に依って創唱された独自の教義(神観や救済観)を持ち、その信仰実践においても特色のある宗教ですから、神道の諸教派とも自ずから異っています。したがって、本来ならば最初から独立した教団として出発する筈でありましたが、管長制度という国家の監督権のあり方からいって、先ず既成の公認教派に所属して、そこから別派独立の機会を見出さなければなりませんでした。そうしてその機会が、明治三十二年に訪ずれることになったのであります。明治政府は、この年に宗教法を制定するために、帝国議会に法案を提出しました。この法律は、兎角臨機応変、朝令暮改のきらいがあったこれまでの宗教政策を総括して、首尾一貫した宗教制度を確立し、政府の宗教監督権を強化するねらいがありました。そこで、この宗教法が成立しますと、いままでのような別派独立という便法もなくなり、新宗教の公認という途も、結果としてとざされることになります。したがって、宗教法が成立するまでに、金光教会の別派独立を成し遂げなければならぬ、という緊迫感があったわけであります。この法案は、貴族院において、信教の自由を冒すおそれがあるとして、否決されましたが、法案上提の時点では、宗教界に動揺と不安を与えました。

 いま一つは、神道本局の内部事情から、金光教会の独立を促す機会が訪ずれました。前にも述べたように神道本局は、その成立の当初から、小規模な宗教会派の寄り合い世帯でもありましたから、それらの会派が本局へ納める各種の幣帛料でもって、維持運営がなされてきました。ところが、管長稲葉正邦から借りていた旧藩邸の用地を買収したことや神殿の建築事業などで、年々に財政が逼迫し、そのために幣帛料の高額化はもとより、臨時経費の徴収などを行なってきましたが、明治三十一年になって、稲葉管長の死去に伴う二代管長稲葉正善の就任、更に二代管長の欧州外遊などの出費がかさみ、いよいよ財政的に窮乏していました。そこで、神道本局管下の有力な教会であった金光、天理、丸山の各教会に対して、別派独立の認証を与える見返りとして、それぞれの教会から本局維持金を醸出するよう働きかけました。当時の本局の事務総長に当る幹事野田菅麿は、金光教会結成の当初から佐藤範雄を通して、金光教独立の願いを知っていましたので、この件についてまことに好都合でありました。明治三十二年五月に、神道本局と金光教会、天理教会の三者の代表が協議して、独立認証の手続きを取り決めました。六月十三日に、金光教会と神道本局との間に定約証を交換して、金光教会から維持金一万円を納めることを定め、神道管長から別派独立の添書か与えられ、七月十三日に岡山県知事の添書を得て、その二十二日に独立請願言を内務大臣に提出しました。それからの約一年間、内務省の担当官と金光教会側の代表である全権委員佐藤範雄との間で、制度・教義・布教・儀式等、金光教の全般にわたって、四十九ケ条の事項についての査問審査が行われました。当時、東京分所長であり専掌でもあった畑徳三郎は、佐藤全権委員の補佐として、独立請願の実務担当者として寧日なきありさまでありました。そうして明治三十三年六月十六日付で、金光教の独立が認可され、十八日付で官報を以って告示されました。官報第五千八十六号に掲載された告示文は次の通り極めて簡単なものであります。

 内務省告示第六十一号

神道所轄金光教会ヲ分離シ金光教ト称シー派独立スルコトヲ許可セリ

 明治三十三年六月十八日

    内務大臣 侯爵          西郷従道

 ここにおいて、教祖金光大神のご在世中からの大願が、めでたく達成されることになりました。

  第二節 初代教会長奥田平兵衛と伏見布教(一)

旧伏見教会所の全景(明治27〜大正10年まで)手前左の平屋建は、奥田平兵衛師の居宅として建てられたもの(明治36年頃)

 さて、いま述べたような経過を辿って金光教独立が達成されたのでありますが、その少し年月を遡った頃からの京都地方における状況から述べたいと思います。

 京都地方には、前節でも挙げたように十数ケ所の支所や説教所が開設され、独立に向って各広前では、日常の御祈念や御理解はもとより、祭典や説教などには、多数の人々が参集するようになりました。なかでも島原の広前では、杉田政次郎の布教教導の優れた才能に加えて、島原花街の土地柄もあって、まことに華やかな雰囲気をもった御広前でありましたので、七条停車場といわれた京都駅前に集っていた人力車夫に、島原の金光さんへ行ってくれと言えば、知らぬ者がないほどでありました。ところが、伏見支所は、風井保橘が担当教師を辞任して、信徒役員達が交替しながら、御広前のお留守番を勤めさせてもろうていました。そうして祭典や説教の時は、島原支所の関係の教師が奉仕して行なわれるという有様で、明治三十年四月になって、島原支所の副支所長であった奥田平兵衛が、支所長に捕任されて、ようやく制度上の体裁をととのえることになりました。しかし奥田平兵衛は、その頃は病気のために、直接御広前に在勤することができませんでしたので、同じ島原支所の所属教師であった北村辰蔵が、留守番役ということで、約八ケ月間にわたって伏見支所の広前の御用を勤めておりました。この北村辰蔵は、金光教独立後、越前の福井へ布教に出ましたが、彼のことについては、また後に述べることにします。

 さて、畑徳三郎から数えると五代目の支所長になった奥田平兵衛は、その生い立ちや入信の事情については、ほとんど明らかではありません。わずかに「神道金光教会職員履歴書」などの資料に依ると、京都府紀伊郡吉祥院村拾九番戸の出身で、天保十四年六月十四日の生まれになっています。ところが独立後に調製された金光教本部所蔵の「教師名簿」には、天保十四年七月二十三日の出生と記され、月日が違っています。いずれにしても天保十四年の生まれでありますから、明治十九年十一月十四日付での入信は、奥田平兵衛が四十三才の時にあたります。その入信の動機や経緯についても記録的なものがありませんが、彼の内妻であった丸毛うたが、島原支所の信者で、島原花街で商売をしていたことから推測すると、その手引きで島原の御広前に参るようになったのかも知れません。一説には、島原花街の組合事務所に勤めていたとも伝えられています。それはともかくとして、入信の翌年三月二十六日には教徒に改式し、その六月十三日には金光教会準七等教師を、十月十四日には神道教導職試補を拝命していますから、入信後一ケ年もたたぬ間に、教師として島原支所で御用をする身となっています。その後数年を経ずして教導職権少講義に進み、金光教会六等修信講師を拝命しました。そうして島原支所でも副支所長という重きを置かれる地位に居りました。

 奥田平兵衛は、難波分所長近藤藤守の命に依って、島原支所から伏見支所長に転属したことは、前に述べましたが、彼が伏見支所で実際に起居しながら在勤するようになったのは、明治三十五年以降のことで、それまでは、丸毛うたの家から通勤していたようであります。それには、二つの理由があったと思われます。一つは、この頃の伏見支所の建物では、家族連れで起居するには手狭であったことと、いま一つは、後に島原事件といわれた島原布教の土台を揺がす問題が、すでに起こりつつあったからであります。

 伏見支所の建物は、江戸時代からの旅人宿を使用していましたので、敷地は二百坪余ありましたが、二十畳ばかりの御広前と台所が続いた一棟の平屋建でありました。前章でも述べたように、明治二十九年九月一日に山本庄之助が買い取り、土地家屋ともに所有者が変りましたが、明治三十五年六月十六日に、所有者が滞納に因って伏見税務所に差押えられてしまい、これを買い取ることになって、九月十一日に信徒十五名が連名で、西村七兵衛から二百三十円を借り入れて購入し、翌十二日付で奥田平兵衛の名儀で所有権移転の登記を行ない、この土地建物を維持することができました。この時の借金は、翌三十六年二月二十五日に青木仙次郎、橋本為次郎、黒川藤平、檀五三郎の四名で弁済されています。(土地台帳、借用証参照)更にその後に、台所の東側に五畳の間の茶室と十二畳の居間を建て増し、奥田平兵衛とその家族を迎えることができました。

 次いで第二の理由は、「杉田政次郎伝」などの史料に依りますと、杉田政次郎が開設した島原支所は、前にも触れたように、京都の市内はもとより丹波丹後地方や滋賀県下の各地に出社が生まれ、明治二十五年以降には北海道の函館や小樽にまで、その教績は広ってゆきました。そうして明治三十年代になると、その出社は三十ケ所にも及び、独立の前年には京都分所に昇格しました。このような教勢を背景として、杉田政次郎は、かねての念願であった金光教独立後の財政基盤を確立したいと考え、明治三十一年に北海道開墾事業に着手しました。この事業についての詳細な事実は、未だに明らかではありませんが、杉田政次郎が、悔恨の思いをこめて口述筆記した「信仰の径路」に依ると、北海道庁が設けられて、北海道開発事業を民間の活力で推進するために、その広大な土地を払い下げることになりました。その情報を得た彼は、旭川地区の山林原野を一坪一円の地価証明付きで、九十二万坪の払い下げを受けましたが、そのためには二十七万円の資産証明と知事の認証が要りました。更に、農商務省から石狩川の支流ウプン川沿いの砂金採取権も取得し、冬季は開墾に当り、夏季は砂金採取に従事するということで、入植者を三・四十名ほど募って北海道へ送りこみました。そうして、この事業に着手するための資産証明を受けるには、約二十万の資金を調違しなければなりません。そこで各出社や信徒達より基金を集め、銀行融資も得て着工することになりました。奥田平兵衛も、この時には伏見支所長に転出していましたが、杉田政次郎への恩義から、紀伊郡吉祥院村の所有地や家屋を担保にして、西川太兵衛(上京区大宮通寺之内上ル安居院前之町)から三百五十円を借り、その基金に当てました。

 明治三十三年六月の金光教の独立に因って、京都分所(旧島原支所)は一等京都教会所と改称し、この時伏見支所も四等伏見教会所と改まり、初代教会長に奥田平兵衛が就任しました。また教区制も改められ、京都府、滋賀県、三重県を管轄する第三教区支部が、京都教会所に設置され、支部部長に平安教会長中野米次郎が、副部長に奥田平兵衛が任命され、杉田政次郎は金光教議会特選議員に撰任されました。このようにして、いよいよ独立の公認教団として、金光教の布教拡張に力をそそぐ時がきたのであります。翌明治三十四年五月二十、二十一日の両日にわたって、京都教会所の新築落成祝祭が行われて、参拝者は延四千数百人を算えたといわれています。

 ところが北海道開墾事業は、当初は順調に事が運ばれているかのように思われましたが、北海道の旭川地区はとりわけ寒冷豪雪地帯でありますから、入植者達の厳しい生活を救援するために、賃金の支払いはもとより食糧の調達輸送にも経費がかさみ、目当ての砂金採取の成果も思惑どおりに挙らず、あまつさえ会計担当の丹羽善之助が資金を使い込む等の不祥事が重なって、祝祭直後の夏頃には、銀行手形の決済に追われることとなりました。しかし杉田政次郎は、事業の運営を、一切担当者に任せていましたので、このような実態をほとんど知らぬという有様で、加うるに、この間に思いもかけぬ手形の代筆問題がもち上り、背任罪の嫌疑をかけられて、六ケ月の間末決に収監されることになりました。この手形事件は、翌三十五年十一月に大阪控訴院で無罪の判決となり、杉田政次郎は晴天白日の身とはなりましたが、会計責任者であった丹羽善之助とその実兄であった辻定治郎(元聚楽教会長)とは、七年の懲役刑に服しました。この間に、開墾事業はもとより失敗に帰して、その結果、京都教会所の資産は債権者に依って差し押えられ、杉田政次郎は教師を辞任して、教え子の三田新三郎に教会長の職を譲りました。これが所謂島原事件の概略の経過でありますが、この事件は、単に一教会所や一個人の問題にとどまりませんでした。島原支所といわれた時期から、「島原の金神か、金神の島原か」ともてはやされ、その教勢は、京都市内のみならず近県にも広がっていましたので、一度びこの不祥事件が新聞紙上などで公開されますと、いままでの金光教に対する市上の評価にダメージを与え、加うるに各宗教の勢力が角逐している京都という宗教都市にあっては、他宗教からの格好の攻撃・中傷の材料となりました。各地の教会所においても信奉者に少なからず動揺を与え、伏見教会所でも、布教上のつながりが深かっただけに、多年、信徒の先頭に立って御用をしてきた者達ほど、世間の批評に堪えなければなりませんでした。わけても教会長であり、副部長であった奥田平兵衛は、支部部長中野米次郎が、島原事件が表沙汰になる前年の明治三十三年十二月九日に病気のために辞任し、二代目の支部部長近藤藤守は、第二教区支部と兼務であったので、事実上、教務の責任者として、この事件の善後処理に当らねばなりませんでした。そうして近藤藤守もまた、教縁の出社である京都教会所の問題でありますから、責任をとって部長を辞任することにしネりましたので、明治三十五年一月十七日付で、奥田平兵衛が支部部長に任命されました。当時、金光教本部当局は、事件の性質上、京都教会所の廃止を内定していましたが、奥田平兵衛は、教会所の存続を具申し、事件の冷却期間を置くために、朱雀野教会所と移転改称する処置をとり、更に杉田政次郎と共に教師を辞任した嗣子恒次郎の教師復帰と朱雀野教会所副教会長任命の手続きをとりました。

 要するに、島原事件の顛末とその処理は、奥田平兵衛にとっては、個人的には恩義上の同情と悲哀を感じながら、部長という教務上の責務を公正に果さねばならぬことになってまことに苦渋にみちた出来事でありました。彼が亡くなる前年、つまり明治三十七年九月十八日には、朱雀野教会所は夷馬場町に移転して金光教島原教会所と改称し、その教績を守ることができましたのは、せめてもの慰めであり、彼の教務上の功績も預って大なるものがありました。

さねばならぬことになってまことに苦渋にみちた出来事でありました。彼が亡くなる前年、つまり明治三十七年九月十八日には、朱雀野教会所は夷馬場町に移転して金光教島原教会所と改称し、その教績を守ることができましたのは、せめてもの慰めであり、彼の教務上の功績も預って大なるものがありました。

 第三節 初代教会長奥田平兵衛と伏見布教(二)

 奥田平兵衛が伏見布教の担当者となってからの教績について述べなければなりませんが、それをうかがう資料は、現存するものは、明治三十二年から彼が死去する明治三十八年六月までの御届帳七冊と、伏見教会長奥田平兵衛宛の教徒加列願一冊、信徒加盟届一冊の外には、ほとんど遺されていません。そこで、これらの資料を手がかりにして、当時の信奉者の実情を、多分に推測をまじえながら考えてみたいと思います。

 月

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間

合計

(註)
明治
32 197 241 39 155 244 295 246 260 290 301 2,268 3月は1日〜9日

6月は11日〜30日

33 287 267 274 208 272 311 275 333 347 287 314 348 3,523
34 295 305 343 304 332 322 363 311 318 297 321 320 3,831
35 290 303 299 244 311 252 310 323 302 262 2,896 10月は1日〜21日

11月12月は欠

36 187 356 307 432 351 317 340 316 286 359 400 3,651 1月は欠

2月は10日〜28日

37 399 334 385 286 359 275 263 313 324 257 344 347 3,886
38 302 286 342 262 329 371 320 135 *2,347 8月は1日〜11日

*9月以降は別帳

 初代教会長奥田平兵衛在任中の御届数一覧表

 ところで、この七冊の御届帳は、信奉者の日々の神前へのお供えをした名簿でありますから、同一人物が何度も記載されています。このことは、前章でも示したように、多い人では毎日記載されている場合もあります。したがって、別掲の「初代教会長奥田平兵衛在任中の御届数一覧表」の数字は、信奉者の実際の人数ではありません。いわゆる延人数であります。そうとして、この一覧表の数字を見ていきますと、金光教独立の明治三十三年六月以降になると、月平均三百人を越えることが分かります。つまり年間三千五百人以上の奉献者があったことになります。これらの御届帳には、「御定」とあるのは金封でのお供えで、その他に品物の名前も記されています。

 それでは、実際に在籍していた信奉者は何人位いであったかを、教徒加列願と信徒加盟届によると次のような人々があげられます。

 ○教徒の部

・伏見町字上南部町 青木仙次郎

     妻アイ

・伏見町字東菱屋  青木安次郎

     妻リヱ、父九造、母ツル、長男金三郎

     三男幾三郎、長女なお

・伏見町字東浜南  池田 とら、

・伏見町字東柳   糸川 嘉吉

     妻ひさ

・伏見町字新大黒  遠藤 ふさ

     母きの

・伏見京町三丁目  大倉清兵衛

     母あさ、妻シカ、長女しげ、次女きみ

・伏見両替町二丁目 岡本 サワ

     姉イマ、妹ムメ、弟豊次郎

・伏見両替町三丁目 風井 保橘

     母ウメ、甥茂

・乙訓郡羽束師村字菱川 金谷亮太郎

     妻トモ、祖母ノブ、母モヨ、次男次郎、

     三男信次郎、妹チヨ、長女ミト

・伏見町字東柳   雁瀬源兵衛

     妻あさ、母せい

・伏見町字紺屋町  北本 甚吉

     妻ひさ、長男甚之介、二男為次郎、長女光、

     二女登世、三男胤次、三女サト

・伏見町字御駕篭町 木村 嘉七

     妻とめ、長男次三郎、長女いま、次男米吉

・伏見町字御駕篭町 久保田徳蔵

     母やす

・伏見町字弾正町  車田米次郎

     妻たつ

・乙訓郡羽束師村字菱川 黒川 藤平

     妻しな、長男新吉

・伏見町字銀座二丁目  阪源太郎

     妻るい、長男源次郎、妻志げ、次男理三郎

     長男(孫)民三郎

・伏見京町拾丁目  佐々木徳三郎

     妻かめ、父善右ヱ門、母たけ、長男定次郎

     長女ちう、次女きく

・伏見町字東浜南  鈴木 左一

     祖母ふさ、母はる、次男保三

・伏見町字帯刀   園 源次郎

     妻くに、長男梅次郎、長女えつ、次男勇次郎

・乙訓郡下久我村  檀 五三郎

     長男石松、妻つき、次女すみ、長女(孫)たね

     父馬吉、母きし、

・伏見町字車町   塚本喜三郎、妻すが

・伏見町字東浜南  東村 重範

     妻ふさ、父久次郎、母かね

・伏見町字東浜南  友岡 駒吉

     母八重、妻よね、長女きぬ、長男勇次郎

     次男慶次郎、三男正次、四男栄次郎

・伏見町字南浜   中路八兵衛

     妻里う、母しお、長男栄次郎、次男七三郎、

     三男藤次郎

・上京区西洞院二条上ル 中村岩次郎

     寅次郎、よね、みさ、喜三郎、新太郎、ます

・伏見町字京橋   西川 栄吉

     妻くま、長男巳之助、長女きく、次女はる、

     次男音次郎

・伏見京町参丁目  西村七兵衛

     妻しお、長女としの、母くに

・伏見町字東柳   橋本為次郎

     妻アイ、養女トク

・伏見京町三丁目  橋本 秀吉

     妻みよ、長男治助、長女ゑい、次男岩次

     三男順三、次女かね、四男益次郎

・伏見町字帯刀   服部友次郎

     妻いま、長女はな、次女やす、三女トモ、

     父喜左ヱ門

・伏見新町三丁目  福井 音吉

     妻ちか、長男庄次郎、長女ゑい、次女たづ、

     三女あい

・紀伊郡堀内村   福井 吉松

     妻やす、長女はつ、次女ゆき、長男新吉

・伏見町字西柳   松田ちか

     長女ぶん

・伏見町字塩屋町  森 信次郎

     妻みさ、長女よさ、長男新三郎、次女つき

・伏見町字帯刀   森村 熊吉

     妻しか

・伏見新町七丁目  山田繁次郎

     妻かね、妹せい、妹つね、長女ゆき

・伏見町字西柳   山本熊次郎

     妻ゑい、長女はる

・伏見町字銀座二丁目 山本万五郎

     長男熊吉、長男の妻きさ

・紀伊郡竹田村   吉井安次郎

     妻せい、長男小一郎、次男小八、長女ぢう、

     次女しず

・伏見京町二丁目  吉田伊兵衛

     妻イト、次女ハル、養子徳松

・伏見町字平野町  鷲尾 兵助

     妻よね、長男伊三郎、次男亀吉、三男定次郎、

     四男常次郎、長女ゆう、次女まさ

教徒加列願

 以上のように四十一世帯で、その家族を加えると百九十人という教徒数になります。この数は、勿論七年間の合計ですから、奥田平兵衛が亡くなった明治三十八年六月の時点での実態であります。

 次に信徒加盟届によると、届書の形式は、教徒加列願と同じように家族も連記されていますが、世帯主だけを以下に掲げてみましょう。

○信徒の部

・伏見新町十二丁目  浅野亀太郎

・伏見両替町一丁目  荒木松之助

・伏見町字西柳    井上 シゲ

・伏見町字京橋町   井本 宗一

・伏見町字風呂屋町  岩佐米次郎

・伏見両替町一丁目  氏本長太郎

・伏見町字肥後町   生沼作太郎

・京都市二条柳馬場  大西 和助

・伏見両替町一丁目  加藤長兵衛

・紀伊郡横大路村   糟野 岩吉

・伏見町字東柳    勝村 つね

・伏見町字新中町   川崎 きく

・大阪市北区福嶋   北口 キク

・伏見新町四丁目   北村作次郎

・伏見町字南浜    國嶋 藤七

・伏見町字上油掛   北岡安兵衛

・久世郡槙野島村   小西伊之助

・京都市仏光寺東洞院 斎藤徳次郎

・伏見町字鐘木    佐野小三郎

・宇治郡笠取村    下尾萬太郎

・伏見町字東浜南   館木 サヨ

・伏見町字南浜    鈴木 末吉

・伏見町字下板橋   鈴本政次郎

・伏見町字板橋    諏訪 信明

・久世郡久津川村   高井 タカ

・伏見両替町四丁目  高城 キミ

・伏見京町四丁目   龍野 あい

・紀伊郡竹田村    立川萬太郎

・伏見町字鍋島    田村 庄三郎

・紀伊郡堀内村    月本 ウノ

・伏見町字西柳    辻  音吉

・久世郡槙島村    辻 与一郎

・紀伊郡深草村    寺内伊之助

・紀伊郡深草村南蓮池 寺内鶴之助

・伏見町字京橋町   豊田 べん

・伏見町字下板橋   土井 宇吉

・伏見町字周防    土居種三郎

・神戸市北長狭通七  中野 シゲ

・紀伊郡竹田村    中塚徳治郎

・京都市仏光寺東洞院 半井幸次郎

・伏見町字車     西田 信之

・伏見京町四丁目   西村 清吉

・伏見京町三丁目   西村虎之助

・伏見新町一丁目   西森卯之助

・京都市高倉通竹屋町 長谷川トミ

・伏見京町四丁目   林  ハナ

・伏見町字弾正    原田弥三郎

・伏見町字西柳    場馬 きく

・伏見町字中浦掛   平岩要之助

・乙訓郡羽束師村   本田 寅吉

・伏見町字弾正    前田丑之助

・紀伊郡竹田村    前田小三郎

・紀伊郡東九条村   前田 チヨ

・伏見町字弾正    前田 ツタ

・伏見町字南浜    松井政次郎

・岐阜県安八郡安井村 松岡小三郎

・宇治郡笠取村    松本甚兵衛

・伏見町字備後    宮崎マスヱ

・伏見町字上油掛   宮本 ヒデ

・伏見両替町二丁目  森  平助

・伏見町字竹田口   山口 弥吉

・伏見町字西柳    山田 友吉

・伏見街道本町九丁目 吉田 さと

・伏見新町一丁目   吉田新太郎

・京都市間之町五条  渡辺 タミ

信徒加盟届

以上のように六十五世帯の信徒数が数えられますが、家族数をも合せると二百二十七人にもなります。因みに独立の時点では、信徒数は二十九世帯・百二十一人であり、教徒数は三十五世帯・百五十二人になっています。そこで教徒と信徒の合計数は、二百七十三人となります。その後、奥田平兵衛が在任中に漸次に増加して、前述した七年間の教徒信徒の累計は四百十七人になります。その間には結婚や死亡などの異動も考えられますから、実際には多少の減少はありましょう。

 このようにして、教徒加列願や信徒加盟届をふまえて、当時の教勢を推量しますと、これらの信奉者がほとんど伏見町とその周辺の村々にわたっていますが、それは現在の京都市伏見区に該当します。つまり伏見教会所の地元に信奉者が集中して居ったということで、前章でも触れた金光教寺田教会所(旧寺田支所)が、地元に信奉者が少なかったこととは対照的でありました。

 第四節 教導と遺言

 さて、奥田平兵衛の日常の教導ぶりについては、最早や今日では、そのことを伝える資料は、ほとんど失われてしまいました。ただ、橋本あい(四代教会長橋本爲次郎の妻)が、晩年に語っていましたのは、「奥田先生という方は、とても厳しい方であった。私(あいのこと)が、まだ中書島で店(貸席業)を開いていた頃のこと、忙しいので数日ばかりお参りができなかった時、奥田先生が『おあいさん!商売が忙しうて参拝ができないようなら、信心をやめておしまい!』ときびしい声で叱られたことがあった。その時は、『ヘェ』と頭を伏せて、顔を見ることもできなかった、というのであります。この話から推測しますと、奥田平兵衛は、口数は少ないが、信心のあり方については、本筋をついて教導していたことがうかがえます。あいが店で抱えていた妓の病気や負傷など身の上のことを、なにくれとなくしばしば取次を願うて、その都度のおかげを受けて居りますが、まさしく神のおかげで商売をさせて貰うて居りながら、店が忙しいからお礼の参拝もできないというような身勝手さが奥田平兵衛から見ると、信心をする者としての心得が問違っていると思われたのでありましょう。教祖が「みな、忙しいからなかなかお参りができませんと言う。おかげを受けていれば暇な日という日があるものか。暇をつくって参り、おかげを受けるがよい」という御教えに通ずる筋合いの伝えであります。また、橋本あいは、夫の橋本爲次郎が入信した時のことを、次のように話して居りました。

「主人(爲次郎のこと)は、金毘羅講社の講長や黄檗山萬福寺の講を造ったりして信心深い人ではあったが金光さんのことについては、皆んながご利益やおかげを頂いた話を聞いても、迷信じゃとか、まじないじゃとか言うて、一向にふりむきもしなかった。そこで、私(あいのこと)が、『迷信か呪いかは、一度、奥田先生という人に会うて確めてみなされば、本当のことが分りましょう』と一言言うてすすめました。そこで主人は、ふしょうぶしょう教会所にお参りしました。その時、奥田先生から、

『この御道は、一心に信心すれば安心立命の都に到着することができる道である』と聞かされ、何んと思うたか、それからお参りするようになり、ずっーと日参をつづけるようにならはった」

というのである。この伝えも、推測しますと、こういうことであります。奥田平兵衛の広前に参っていた人々が、病気や商売のことなどで、奇蹟的なおかげを受けたり、ご祈念をしてもろうてご利益があった話ばかりするので、橋本爲次郎は、そこには迷信じみた呪術を使って、何か詐略があるのではないか、と疑っていました。ところが、奥田平兵衛に会うて、金光大神の御道は、祈念祈祷などで助かるのではなく、教えの話を聞いて、その教えを生活の中で実行していくと、そこに安心立命(心の平安)を得る道が開かれる。そういう信心の道であると教えられた。そこで自分が疑いを持ったことをお詫びするとともに、改って金光大神の道を求めさせて貰おうと決心したのでありました。それは、明治三十三年の十二月のことで、前述の御届帳を見ると、明治三十四年一月一日から日参をつづけている様子が記されています。

 この僅か二つの話題から、奥田平兵衛の信奉者に対する教導ぶりの全べてを、包括することはできませんが、ただ厳格な教導の姿勢だけではなく、信心の核心を会得していたことは想像できます。奥田平兵衛の伏見布教は十年にも満たない短い期間でありました。明治三十八年六月二十三日に、親族の内畑治兵衛と信徒代表の橋本爲次郎の二人を、危篤の病床に呼び寄せて遣言を伝え、正式の遺言証書を作らせました。遺言証書の内容は、八項目から成っていますので、その項目の概略を列記しますと次のような事柄であります。

法定相続人である奥田重三に家督相続させること。

奥田重三が未成年者であるため、内畑治兵衛を後見人に選ぶこと。

後見人の監督人として親族の奥田角次郎を選定すること。

親族会員に、北尾庄右衛門、金谷亮太郎、大倉清兵衛、橋本爲次郎の四名(就れも信徒総代)を選定し、遺言の執行は橋本爲次郎に嘱託すること。

相続人奥田重三は、遺言者(奥田平兵衛)の死後、直ちに金光教伏見教会長とし、その教会事務は、金光教難波教会長近藤藤守に委託すること。

伏見町字御堂前六一七番地、同六一九番地の土地建物と伏見町字表五七九番地、同五八○番地の土地(就れも奥田平兵衛名義の不動産)を、相続人奥田重三の所有とすること。

遺言者が丸毛梅太郎の後見人であるから、遺言者の死後、新たに後見人を定めること。

内畑、北尾両人に預けてある遺言者の衣類等の動産を、丸毛梅太郎に譲与すること。

 以上の事項を内容とした遺言証は奥田平兵衛の病床で確認して、内畑治兵衛、橋本爲次郎、公証人田山邑平の三人が連署押印しています。

 ところで、このような遺言証書が作られた背景について考えてみますと、奥田平兵衛と内妻丸毛ウタとの間には実子がなかったので、ウタが産んだ重三を養子として、法定相続人にしていました。しかも奥田重三は明治二十二年二月二十六日生まれ(戸籍)ですから、この時は十六才になり、金光中学に在学中でありました。そのために、家督を相続しても後見人を選定する必要がありました。後見人に選ばれた内畑治兵衛は京都市下京区西洞院通花屋町下ルにて貸物業を営んでいました。奥田平兵衛が治兵衛を選んだ理由は明らかではないが、丸毛ウタと近しい間柄(姉弟か?)であったからと思われます。しかるに内畑治兵衛は、翌明治三十九年五月十四日に死亡し、長男の治三郎に家督を譲っています。

 次ぎに奥田平兵衛は、重三が未成年で在学中であるから、今直ちに金光教教師となるわけにもゆかず、したがって、伏見教会所の後継について確定して置かねばならないと考え、島原支所在勤時代の信者であった北尾庄右衛門と伏見教会所の信徒総代である金谷亮太郎、大倉清兵衛、橋本爲次郎の四人を、親族会議のメンバーに加えたものと思われます。そして当座の具体的な教務については、難波教会長近藤藤守に一任することを言い渡したのです。

 更に教会所の財産は、当時は教会長の個人名義になる慣例でありましたから、奥田平兵衛から重三に譲られることを定め、信徒総代達に確認させたものでしょう。たとえ別人が教会長になっても、財産の所有権は重三に属するようにして置きたかったものと思われます。

 最後に丸毛梅太郎について遺言してありますが、梅太郎は丸毛ウタの娘ムメの子で、孫に当ります。丸毛梅太郎は明治三十一年三月二十一日の生まれですから、この時は未だ六才であり、祖母ウタの手で育てられてきましたが、ウタもまた明治三十六年五月に死亡しましたので、奥田平兵衛のもとで養育していました。因みに丸毛梅太郎は、後年金光教教師となり、福岡県戸畑市で金光教西戸畑教会長となりました。

 この遣言証書を見ると、奥田平兵衛の長い教務生活をつづけてきた実務家としての面目が出ているように思われます。そうして後継者奥田重三の将来に対する親の思いをしみじみと感じさせるものがあります。明治三十八年六月二十五日、享年六十五才でありました。

 六月二十八日付で、少教正を贈級され、金光教管長金光大陣から「奥田可美真心堅根大人」という説号を与えられました。


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