伏水のごとく 序章

伏水(ふしみず)とは
伏流水つまり、地下水のこと。伏見では豊富な地下水を利用して、酒造りが盛んである。
伏見の酒蔵
手前は高瀬川(運河)

  序章 伏見の風土と歴史

 伏見の郷は、古くから山紫水明を謳われた景勝の地形にあります。近江の琵琶湖から流れ出るただ一つの水脈が、兎道山と木幡山の山裾をめぐって宇治川となり、更に北西へ大きな孤を画くように湾曲して、巨椋・構大路の沼沢を抱えこみながら、山城盆地の西南に向い、木津川・桂川を合わせて淀川となって、男山と天王山とを切り開くように摂河平野に入り、やがて浪速の海(大阪湾)に注いでゆきます。宇治川が最も北上して画いた弧の頂点に、伏見のなだらかな丘陵地帯がありますので、この丘陵の一角に立って、南方に目を移すと、宇治川の水流をへだてて、開豁な水郷の風景が展開し、遥に男山や天王山を望んで、さながら一幅の水塁画を見るようであります。それゆえ、この丘陵地帯は、文人墨客の交遊の地であるとともに、山城と摂津とを結ぶ水路の要衝でもあって更に南すれば大和・奈良に至り、東すれば近江・志賀にも通じる商売、軍事の拠点ともなりました。

 平安京が営まれてからこの地は、ようやく史書や歌集にその名を記され、貴族文人達の交遊の地となりましたが、なかでも藤原頼通(宇治関白)の子、橘綱俊が伏見山荘を築いて、伏見長者とよばれるほどの豪奢な生活を営みました。その没後いくばくもなく、この伏見の庄は、白河院に献上され、更にその猶子であった源有仁(花園左大臣)に下賜されました。その後、有仁の養女になった鳥羽院の皇女頌子内親王に伝えられ、次いで後白河院の御領地となり、代々天皇領または皇族領として受け継がれました。武家が天下の執権を握った鎌倉時代以降も、伏見は皇室領として伝えられ、伏見山には天皇の離宮にもなった伏見殿という宮殿が建てられました。そして、この伏見殿で育たれて天皇になられた後花園院や、ここで生涯をお暮しになった伏見院は、この地に最も由縁の深い天皇でもあります。南北朝時代になると、伏見の庄は、いわゆる北朝(持明院系)の皇室領となりますが、室町幕府の中期以降は、天下争乱の時代となり、皇室の衰微とともに伏見殿も荒廃のやむなきに至りました。

 応仁の大乱は、伏見の庄にも及び、その戦火に遭った人々は、湖沼地帯に難を避け仮屋に庵りして、細々と暮しの煙を立てていたそうでありますが、その戦国の世を統一して天下人となった豊臣秀吉は、文禄三年(一五九四)伏見山の地を選んで宏壮華麗な城廓を築き、諸大名もまた城下に屋敷を構えたので、町は殷賑を極めました。いわゆる安土桃山文化の中心となって、その名を今に残しています。秀吉が伏見城を築城するまでの伏見山麓一帯の湖沼地帯には、ところどころに民家が点在して水郷を造っていました。伝えるところに依ると、山村・舟戸ノ庄村・久米村・法安寺村・即成就院村・石井村・森村・北尾村・北内村など、いわゆる伏見九郷があったと言います。秀吉は、築城に当って、字治川の改修(太閤堤)を主軸とする大土木工事を行ない、伏見山上には、本丸・西之丸・名護屋丸・松之丸・日下部丸の東西七町南北八町に亘る城廓を構え、それを中心に城下町を整えました。その市街は、東は木幡山より大亀谷八科峠にわたる旧大和街道を境とし、南は宇治川を隔てて向島に及び、西は三栖八丁畷に至り、北は竹田より深草直違橋を限る、東西一里余南北一里半に亘って、大名小名の邸宅や商人職人の町家が、街区をわって形成されました。現在の伏見市街の大容は、ほとんどこの時のものであります。天下人となった秀吉は、この伏見城で天下に号令を下し、明国の使節を謁見し、諸侯随臣と親睦の茶会を催すなど、一代の英雄の名を恣にして、慶長二年(一五九七)六月十八日にその生涯の幕を閉じました。

 豊臣秀吉没後、諸侯の間で天下の覇権をめぐって角逐がはじまり、やがて再び東西に分れての動乱となり、伏見城とその城下町も戦火をこうむって破壊されました。関ケ原の合戦後は、結局、徳川家康が天下殿として伏見城を占有し、慶長七年(一六○二)十二月に伏見城番の制が定められ、城の修築も成って、ここに伏見城は、徳川氏の近畿に於ける権力の中心となりました。慶長十九年(一六一四)十月に、豊臣秀頼は大阪城に拠って兵を挙げましたので、徳川家康、秀忠の父子は、伏見城に陣して軍令を発し、いわゆる大阪冬の陣がはじまったのであります。この合戦は、その年末に一旦媾和になりましたが、翌元和元年(一六一五)四月、再び大阪夏の陣とよばれる戦闘となり、五月五日大阪城落城、豊臣家の滅亡によって終息しました。その間の慶長八年(一六○三)二月に徳川家康は、伏見城に於いて征夷大将軍の宣下を受けましたが、その後、二代将軍徳川秀忠も慶長十年(一六○五)四月に、三代将軍徳川家光も元和九年(一六二三)七月に、いずれも伏見城に勅使が参向して征夷大将軍の宣旨を受けました。その時には、全国の諸大名が伏見城に上って、祝賀の品を新しい将軍に献上しましたので、伏見の町は諸侯や卿相雲客の往来で賑いを極めたと伝えられています。

 ところが元和五年(一六一九)に大阪城の修築が完成すると、秀忠は、江戸幕府の近畿及び西国に対する権力の拠点をここに移し、また家光は、朝廷に対する監視守護のために、淀川の中流に新たに淀城を築き、伏見城の遺材をこれに当てたり、社寺に給付するなどして、伏見城を廃城といたしました。ここに於いて、伏見も城下町の面目を次第に失い、町民たちも大阪に移住するものが多くなりました。後世、大阪市街に伏見・京町などの町名がつけられるのも、この時に伏見から集団で移住したものたちが、それぞれ商家を造ったからであります。

 伏見城廃城のあと、伏見の町も一時は衰微しましたが、もともと宇治川・淀川の水路を盛んに利用して、京師に入る関門でもありましたから、木材の集散や商売の流通の中心地となり、商人や旅客の往来も多く、その舟着場をめぐる辺りには、旅人宿や倉庫が建ち並び、脇坂屋敷の跡地を埋めて遊廓もでき、町の活気は再び甦えることとなりました。幕府はこの土地に奉行所を置いて、直轄の支配地としましたが、元禄の末頃には、すでに商工業の町人町となって、町衆の自治が行われ、幕末に至るまで繁栄いたしました。また城跡の荒地には桃樹が植えられ旅客の目を楽しませましたが、その樹齢が短いために、次第に梅樹に替えられ、宝暦以降には観梅の名所となりました。その頃の記録に依ると、伏見の町数は二百六十三町、屋敷六千二百五十軒、橋十力所、寺院九十三ヶ所、社五ヶ所などと記されています。この記録から推定すると、屋敷(家屋)一軒に平均五人が居住するとすれば、約三万人が住んで居たことになります。また寺院は、平均約六十軒の檀家を持ち、神社は、平均約千二百軒の氏子を抱えていたといえます。江戸時代の全国人口が三千万と言われていたことから考えると、伏見は有力な地方都市であったと考えても差支ないでしょう。

御香宮(ごこうぐう)神社
伏見の氏神、境内に御香水(ごこうすい)という水が沸き出していた。

 武家を中心とした城下町から、町人の町に変貌した伏見は、伏見奉行の支配下にありながら、町人の勢力が次第に強くなり、江戸時代中期には、武家に対抗出来る力を持つようになりました。その象徴的な出来事として、天明五年(一七八五)の越訴事件が起りました。

 安永八年(一七七九)二月に、伏見奉行として近江国小室の領主であった小堀和泉守政方が着任しましたが、政方の父、政峰も伏見奉行を勤め、その祖小堀遠江守政一は著名な茶人で造園家でもあり、伏見奉行にもなった人であります。政方は、小室領の藩財政の窮乏を賄うために、伏見町上層の富裕な商人に特権を与えて、その利益の代替として多額の御用金を調達したり、配下の者に無頼の徒を使わせて、一般の町民を脅して強請を行わせ、上層町民と結托し或は穏密方を放って、町民の上納を強制したり法外な過料を科すなど、苛酷な収奪を行いました。

 このような暴政に堪えかねた町民は、団結して幕府への訴訟を図り、下板橋二丁目の文殊九助と京町北七丁目の丸屋九兵衛が代表となって江戸に下り、天明五年(一七八五)九月十六日寺社奉行松平伯耆守邸前で、駕訴しました。その年十二月になって、九助等の訴願が採用され、政方は伏見奉行を免ぜられ謹慎を命ぜられました。翌天明六年(一七八六)一月に後任の奉行として久留島信濃守が着任して、この一揆事件の吟味がはじめられ、政方等奉行側と町民側とで取調べを受けた者は二百余名に及びました。更にこの年の末になって惣方の関係者二十三名が江戸へ送られて評定所で審間を受け、翌天明七年(一七八七)五月六日になって判決がありました。この間に、九助・九兵衛も病死し、奉行側も八名が死亡いたしました。小堀政方は「奉行職にこれ有るまじき義不行跡の至りに候」ということで領地を召し上げられて、大久保加賀守へ永の預りとなり、また政方の子、小堀主水も父政方と共に、大久保加賀守へ御預けとなり改易になりました。政方の家臣四名は、死罪又は遠島に処せられ、奉行所の与力・同心四名は、中追放又は押込となり、政方に加担した町人四名は、過料・江戸伏見払・重叩きなどの刑に処せられ、政方の側室芳子も門前払となりました。ここに、小堀家の正統は断絶し、天明五年(一七八五)からの事件は解決をみることになりました。

 江戸時代の末期、外国船が渡来して、わが国に開港を迫るようになりますと、開国論と攘夷論との対立抗争が盛んになり、それらの運動のたかまりとともに、安政の大獄、桜田門の変が起こり、幕府も動揺して天下を統制する権力が、急激に衰えてゆきました。これに対して、天皇を擁する公家と西国の諸侯との連合勢力が台頭するなかから、勤王討幕の運動も力を得て、京都は、その運動の中心、論客や活動家達の結集する場となりました。伏見は、あたかも京都の咽喉に当る要地でありましたから、これらの志士達の往来も頻繁となり、また、これを取締るために幕府の出先機関であった京都所司代や伏見奉行所の監視も、厳重を極めました。そうして、世情の不安と動揺が深まりゆくなかで、天下動乱の萌芽は、この伏見を舞台として現われました。

 文久二年(一八六二)四月二十三日の寺田屋事変は、尊王攘夷の急進派であった一部の薩摩藩士等と、これを鎮撫しようとした藩主島津久光の命を受けた奈良原喜八郎等の薩摩藩士との間に起こった殺傷事件であります。伏見京橋畔の寺田屋という一旅宿で起きた乱闘事件は、一見、薩摩落内部の抗争に過ぎませんが、この事件を境として、尊王攘夷の気運が高まり、幕政も開国から攘夷へと変わり、幕政のみならず西国の諸藩はその内部に、分裂と対立の事態を抱え、藩統制に苦悩するようになりました。

寺田屋

 更にその二年の後の元治元年(一八六四)六月から七月にかけて、攘夷派主戦論の長州藩が、朝廷を動かして攘夷の実行を図ろうとした禁門の変が勃発しました。長州藩士とそれに固行した諸国の攘夷論者達は、三隊に分れて、伏見表町の長州藩邸、嵯峨の天龍寺、山崎の天王山・男山を、それぞれ拠点とし、七月十九日を期して一斉にクーデターを決行しました。伏見長州藩邸から進発した福原越後の率いる兵五百は、伏見街道稲荷付近から竹田街道添いに布陣していた大垣藩・会津藩・桑名藩・鯖江藩等の諸藩兵と衝突して戦闘となりましたが、敗北して伏見長州藩邸に立ち帰り、態勢を整えて再び打って出ましたが、彦根藩以下の連合軍に撃ち破られて長州藩邸も焼け落ち、民家三十数戸も類焼したので、山崎方面に退走しました。一方、天龍寺と天王山から進発した長州藩は、中立売門・蛤門・堺町門に迫りましたが、ここでも撃退されて山崎方面に退きました。翌二十日、山崎の天王山に立てこもった残兵は、会津・桑名二藩の攻撃をうけて、僅かに真木和泉等十七人が玉砕し、長州藩兵は領国へ敗退しました。このクーデターの失敗によって、長州藩は朝敵となり、幕府は諸侯に命じて、第一次長州征討の軍を起こしましたが、藩主毛利敬親の謝罪と主謀者の処分によって、終結を見ました。

 ところが慶応二年(一八六六)、土佐藩士阪本龍馬等の仲介により、薩摩・長州の同盟関係ができて、長州藩内は再び討幕主戦論が勢力を持つこととなりましたので、幕府は、将軍徳川家茂みずから大阪城に出陣して、再び長州征討の軍をすすめましたが、長州藩の挙藩一致の抗戦の前に敗北を喫し、あまつさえ家茂の死去によって、第二次長州征討の目的は挫析するのみならず、このために幕府の威信は、いよいよ失われることとなりました。慶応二年(一八六六)十二月、将軍職を継いだ徳川慶喜は、父祖伝来の勤王思想を受けた水戸学の出身であったことと、幕政の衰退を招きつつあった天下の情勢を察知して、翌慶応三年(一八六七)十月十四日に、政権を天皇に奉還することを願い出で、十五日勅許の沙汰を受け、二十四日に将軍職の辞職を願い出たので十二月九日王政復古の大号令が発せられ、ここに二百六十余年に亘る江戸幕府の政冶は終りました。

 この年の七月十六日、わが伏見教会の布教創始者畑徳三郎は、伏見奉行所の門前町であった伏見京町三丁目の西村家で、呱々の声をあげました。そして、その半年の後に、戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦いがはじまり、伏見の町は、戦火の中に灰燼となりました。


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