home もどる つづく

 2001年6月のお嬢(上)




 6月11日 天命を全うす

 あるお爺さんが亡くなった。
 一度も会ったことのない人だけど、いつか必ず会いに行くつもりでいた人だ。
 長年、年に数度は「ガンになった」とふさぎ込み、岩のように動かなくなってしまう、
 ということ繰り返してきたというお爺さんは去年、失踪騒動を起こしてしまった。
 結局、真夜中に途方に暮れた表情で田んぼの真ん中に突っ立っているところを、
 無事発見され、大事には至らなかった。
 私は知人から、お爺さんの家族がどうしていいかわからず困っているのだと相談を受け、
 あれこれ資料をひっくり返して、精神科の受診を勧めた。
 ああ、PSWってのは、こういう仕事なんだろうなぁ、と思った瞬間。そんな縁である。
 
 「うつ病」だと診断されたお爺さんは、治療が功を奏したようで、最近では長年苦しんできた
 重苦しい気持ちからようやく解放された、と話すほど回復していたんだそうだ。
 「朝が来ると絶望する」
 私も調子が悪くなると、今でもそう思うことがあるのだけれど、そのお爺さんもかつて、
 同じ事を言ってたと聞いて、なんだかとても、親近感を感じていたのだ。誠に勝手ながら。
 そんな人が随分良くなったと聞いて、私はまるで自分のことのように喜んでいた。

 それが、今朝の突然の訃報である。
 夕べ、家族と食事をして、好きな酒を飲んで、そして、楽しい話に大きな声で笑って、
 「ああ、いい気分だ。楽しかった。また来よう」とかなんとか言ったきり、
 そのまま帰らぬ人となってしまったのだそうだ。
 今まで異常などまったくなかったはずの心臓が、突然止まってしまった。
 「ガン」になるたびに、何度も検査して、誰より健康に気を使っていて、
 こころ以外はすべて問題ない、超健康体だったのに。
 寿命とはなんと皮肉なものなんだろうか。
 唯一の病気を病気と知らずに苦しんできた分、これからもっと楽しんで欲しかったのに。
 国家試験に受かったら、必ずお墓参りに行こう。
 私にとっての、最初の患者さんだと思うから。




 6月10日 薬物依存とか、そういう話

 私が学生時代を過ごした北九州という町は、薬物問題の深刻なところだった。
 金沢でいう中央公園みたいな公園では、夜になると何処からともなく売人が現れ、
 まぁ、幾らかのお金を払えば、誰でも何でも手に入る、そんな感じで。
 もともと、炭坑の閉山や鉄冷えで、裕福な町ではないから、シャブ(覚醒剤)も買えず、
 30過ぎても40過ぎてもシンナー吸っている人が多い、そんな町だった。

 私はその町で「DARC」の設立に関わった、っていうか、ちょっかい出した。
 DARCとは薬物依存リハビリテーションセンターの略称で、「ダルク」と読む。
 詳しくはココとかココを読んでいただけると幸いである。
 ダルクの面々は多種多様。
 小指のないおじさんや、元看護婦さん、小学校2年で「精神安定剤」に惹かれた人や、
 6年生から保護観察が付きっぱなしの17歳とか。
 そこに週に何度も顔を出している娘を見たら、どこの親でもきっと心配するだろう。
 あぶないから、やめなさい。
 薬物中毒で、精神病院通院歴やら入院歴やら、その上、前科持ちもいるんだから、と。

 よい子の私は、適当に事実をオブラートに包んで、当たり障りのない部分だけ親に話してて、
 もちろん、私にとってそこが妙に心地よい空間で、みんなとタバコをふかしているのが、
 結構な楽しみだったことなんか話してるわけもないので、こっそりボランティアである。
 その上、充実感よりも喪失感を感じる出来事の方が、多い。いや、多すぎる。
 回復できずに死んだ人もいるし、逃げ出したきり、行方知れずの人もいるし、という具合に。
 もちろんスリップ=薬物の再使用なんて、日常茶飯事で、もう、落ち込む暇がないくらい、
 次から次へと騒動が起き、ついでに資金も尽きてくる始末。

 それでも、1日たりともクスリを切れなかった人が、今日一日だけ、とクスリをやめている姿を、
 私は結構尊敬して見ていたものだ。
 本当にSOSの時には、しばらく入院して落ち着くまで静養して、またDARCに戻ってくる。
 そんな人たちが、どうも憎めなくって、結局あの町を離れるまでずっと関わっていた。
 はっきり言って、色々あったけど、楽しかった。

 私が金沢に戻った後のある日、仲間の一人がビルから飛び降り、この世を去った。
 精神分裂病と薬物依存の両方に苦しんだ果ての自殺。
 私の知る彼は、物静かな、少し神経質そうな、少し科学者っぽい顔をしていて、
 発明好き(病気の症状かも知れないが)で家電メーカーに何度もアイデアを投稿しては、
 毎度玉砕して残念そうにしてて、それでもめげずにまた次の発明をする、そんな人だった。
 私もどこかのメーカーから届いた返事を、ワクワクして一緒に開封した事がある。
 そんな彼の死が、何となく解せないものとして、私の中で燻っているという事実が、
 実は、この春勉強を始めようとした、きっかけのひとつではある。
 なぜ、私たちは、彼を死なせてしまったのだろうか、と。

 DARCには繋がってこなかった人だけど、薬害エイズの被害者でありながら、
 感染を告知されていなかった恋人からHIV感染した挙げ句、
 自暴自棄になってシャブ漬けになった女性の話なんかを知ると、
 本当にやるせない気持ちになってくるわけで。
 実際、我々が防げる悲劇、というのは、この世の中にどれぐらいあるのだろうか、と思う。




 6月9日 まつりの夜

 今日は百万石まつりでした。
 仕事の途中に、ビジネス街にあるビルの6階から、松平健ふんする利家公が見えて、
 ちょっと得した気分です。暴れん坊将軍だけあって、顔が濃くて、格好良かったです。
 いえ、普段はあっさりした顔が好みの私ですがね。

 さて本題。帰りにいつも使う電車の駅で、よく見かける男性が2、3年生くらいの子を連れていた。
 初めはその人の息子かな、と思ったのだが様子が変。改札では男性が二人分の切符を出し、
 駅員さんと「どうなりました?」「いや、とりあえず連れていきます」「お願いしますね」との会話。
 気になって気になって、わざと近くの席に座って耳を澄ませると、
 「ぼく、お腹が減って、出店で食べちゃったからお金が無くて、グスングスン」
 「まぁ、男の子が泣くなよ、ほれ、鼻かんでさ」(ティッシュを差し出す男性)
 「ぼく、いじめられてて、石投げられたり、もう、嫌なんだ、いつも、だから、グスングスン」
 その後は電車が動き出したのでよく聞こえなかった。
 思うに、いじめに遭っているというその子は、祭りに幾らかの金を持って出掛けたのだろう。
 いや、出掛けたと言うよりも、呼び出された、と言った方が正確かも知れないが、
 それで、カツアゲにでも遭った、というところではないだろうか。勝手な想像だが。

 ある駅に着いたとき、男の子がここで降りる、と言い出して、電車を降りた。もう大丈夫だから、と。
 男性ははじめ、じゃぁ気を付けてな、と言ったのだけど、ドアを閉めるのを少し躊躇する車掌さんと、
 電車のホームで何度も電車を振り返る少年を見て、彼は「やっぱ僕降ります!」と少年を追った。
 電車の中では、あの人いい人だねぇ〜、格好いいねぇ〜、と賞賛の声があちらこちらから。
 みんな、何だか様子のおかしな二人組のことを、結構気にして見てたんだ。

 その男性は、確か私が電車通学を始めた中学時代から同じ駅で乗る人で、たしか洋服屋さんに
 お勤めのはず。身体は小さくてちょっと気の弱そうな、まぁ、人の良さそうな40歳前くらいの人。
 なんで、洋服屋とか知ってるか、というと、私が乗ってるその電車は、1時間に2本しか走らない、
 2両編成の田舎のちいさなちいさな電車で、客のほとんどが話したことはないけど顔見知りだからだ。
 街をぶらぶらしていれば、1日何人かには必ずすれ違うし、店員さんとして接して貰うことも多い。
 話したこともないのに、勤め先や、名前、家族構成を知ってる人も何人か居るし。

 まぁ、そういう電車だから、今日みたいな出来事があるのかねぇ。
 少なくとも、ホームで殴り殺されるようなことはなさそうだ。
 で、結局、その少年と男性の事の顛末はまだわからない。
 っていうか、知ろうとすれば、来週にでもその男性に尋ねれば良いんだろうけど。
 うちの妹は、きっと男性は家まで少年を送り届けただろうけど、そこの親にきっと、
 「余計なことしないで下さい」だの「もう結構です、お帰り下さい」だの言われるんだよ、
 ありがとうも言えない、そういう家で育った子なんだよ、可哀想に、とかなんとか言っていた。
 私もそんなような気がしてならないけど、今はただ、そうでないことを祈るばかりだ。




 6月8日 此邦ニ生レタル不幸とは

 テレビ報道は酷いなぁ。フジ、日テレなんかは、特に酷い。
 これでもか、ってくらいに「精神障害者」の隔離論を声高らかに報じている。
 ひとつの事件を、すべての精神障害者に普遍化して当てはめるのはいかがなものかと思う。
 そんな危険な発想を公共の電波で垂れ流しにするのは、本当にやめて欲しい。
 ハンセン病訴訟の時の報道は一体何だったんだ。偽善?かっこつけ?
 子どものPTSDが心配だと言いながら、子どもにマイクを向ける感覚は完全に狂っている。
 猫なで声で「男はどんな風に刺したのかなぁ?」なんて言うんじゃないよ、まったく。

 「危険な」精神障害者は、施設に絶対隔離するべきじゃないのか、と言ったのは父親だ。
 おそらく、わざと吹っかけてきたのだろう。私が反論するのをわかっての、いつもの挑発だ。
 「危険な」という意味がよく分からないから、一般論で話すことにしたのだが、
 「全員絶対隔離」は無理だし、異常だし、明らかに間違いであると考えるヒントして提示した、
 精神分裂病の発病率が約1%であるというデータによほどショックを受けたらしく、
 「そんなにいるわけないだろ。そんな統計ウソや」と、言ったきり黙ってしまった。いやはや。
 あなたの娘は、わざわざウソついて自分の主張を通す人間には育っておりません。
 だいたい「危険な」人物があらかじめわかっているのだったら、精神障害者の犯罪に限らず、
 この世の中の犯罪の多くが、容易に撲滅できるだろうに。

 「危険な患者」「安全な患者」の線引きとか、たぶんあんまりいい発想ではないとは思うけど、
 応急処置的措置として、そういう政策も必要なのかなぁ、と思ったり、と、色々考える。
 でないと、その他大勢の精神障害者の社会復帰の機会までが、摘み取られてしまうだろう。
 事実として例えば精神分裂病でも躁うつ病でも、退院後、通院服薬を続けながら、
 社会復帰をしている例は少なからずあるわけだけど、それもあまり知られていないから、
 一度心を病んでしまうと一生病院暮らし、というレッテルを貼られ、ますます社会から遠ざかる。
 正しい知識が広まるのには大変な時間が必要だが、差別や偏見が広まるのは早い。
 事件防止と同時に、残酷な差別が当たり前の常識となってしまわない対処が必要だろう。
 患者さんの中には、私たちだって人間として平等に扱って欲しいから、刑法39条はいらない、
 つまり罪を犯したときには、他の人たちと同じように裁いて欲しい、という考えの人たちもいるようだ。
 あと、犯罪傾向にある精神障害者の国公立の保護(隔離?)施設…か。どうなんだろうか。
 あ、民間でそれを進んでやってたのが、安田病院とかそういう病院なんだけど。
 行政側も、必要悪として、ああいった病院を重宝がっていた部分があって、その儲けで設立された
 安田記念財団からは多額の政治献金が届けられ…、ってこんな話はまたいつか。
 とにかく、なんかどっかおかしいっていうか、ややこしいんだよね、いろいろと。

 医療法に「精神科特例」というのがある。
 精神病院は医療従事者が一般病院より少なくてもエエよ、つまり、我が国の精神障害者行政の
 方針は治療よりまず「収容」だよ、と暗に提示する内容だ。
 この特例の廃止論議もやってるはずなんだけど、肩身が狭くなるだろうなぁ、患者側は。
 とにかく患者をかき集めて、閉じこめてさえおけば、治療費は生活保護から天引きすりゃいいし、
 誰も迎えに来るわけないし、来たって追い返すから、病院は儲かって儲かってしょうがないわけで、
 朝倉病院とか安田病院とか、刑務所よりも怖い精神病院が最近まで残っていた理由のひとつ。
 そして、忘れていけないのは、それを許している患者の身近な人間がいるということだ。

 100年前にできた「精神病者監護法」は、患者の私宅監置、要するに座敷牢に入れちゃってOK、
 という法律だったのだが、それ以来、この国の、またこの国民の、精神医療に対するスタンスは、
 法改正こそ何度かなされているけれど、あまり変わっていないのかな、という気がしている。
 確かに頑張っている医療従事者も、そして誰より患者さん自身が頑張っているのだけれど、
 その受け皿の準備が、あまりにも整っていないのが現状だろう。
 大正7年、日本の精神医療のパイオニアとされる東京帝大の呉秀三は、
 国内の精神病患者の処遇に関する実態調査報告書の中でこう記している。
 
 我邦十何万人ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ
 此邦ニ生レタル不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ

 朝倉病院事件の時に頑張っていた民主党、特に水島広子女史のコメントとか聞いてみたいなぁ。
 それから、「らいおんはーと」の小泉純ちゃんも、どうするんだろうね。
 今の場合「ハンセン病患者の人権は守るけど、精神障害者の人権は制限する」とか言う方が、
 実は有権者に受けるんだろう。「そうだそうだ!よく言った!コイズミ!」とかいって。
 実際そんなことになったとしたら、もうこの国はおしまいかも知れない。
 支持率命の内閣は、こういうところが結構怖いと思う。
 …と思って首相官邸HPをメルマガ登録がてら覗いたら、事件についてのありふれた声明があった。

 私は事件をきっかけに、やっぱりちゃんと勉強しようという気になってきた。
 何を格好つけやがって、と思われるかも知れないけれど、中田英寿だってイタリアに帰ったんだ。
 「日本のサッカーの未来にとって大切な何かを得てくるつもりです」だと。格好良いじゃないか。
 イタリアのトリエステという町は、単科精神病院をほぼ廃止したことで有名だ。
 そんな突拍子もない発想をする町がある国で、彼はいつも色んな刺激を受けているのだろう。
 ファンでも何でもないけど、頑張れよ、と思う。
 糸井重里がナカタのことを「Only is not Lonely」の精神だと言っていた。
 私も、と言うには恥ずかしいくらい地味だけど、でも頑張っていこう。
 もう、こうなってくると、なんの話だか、さっぱりわけが解らなくなってきましたな。
 長くなりました。堪忍。
 根気よく最後まで読んでくれた方、どうもありがとう。

 ※データなどの出典を明記しなくてはいけないところですが、たくさんありすぎるので、ここはひとつ、
  みなさん検索エンジンで「精神分裂病」とか、検索してみて下さいませ。手抜きですみません。
  いずれ、精神医療関連のリンク集をつくります。
  でもひとつだけ、ある現役の精神科医の見解をご紹介しておきます。ヒントにさせて貰ったので。




 6月7日

 実はちょっと農業をやってみたいだなんて、思ってます、最近。
 日頃は、こまめに手を洗ってないと、どうも気持ちが落ち着かない私ですが、
 どういうわけだか、爪の中までどろんこになりたい衝動が涌いてきて、
 果ては、ガタリンピックの報道にまで胸ときめかせてしまう始末。
 こうなってくると、農業って言うよりか、どろんこ願望の方が正確かも知れんな。

 子どもの頃の私は、確かどろんこ遊びがあまり好きではなかったと思う。
 服をドロドロに汚して帰ってきたこともほとんど記憶にないし、
 転んだ傷跡さえ、自分できちんと水で流して、こぎれいに始末してきたものだ。
 もちろん、泣いたりなんて、するわけがない。
 とにかく、何かとスマートに済ませることが、何よりの美徳と思っていた節がある。
 ガキんちょのくせに(笑)

 それが、この歳になってのどろんこ願望である。弱ったもんだ。
 しかも、いったん始めてしまったら、恐らくその他のことには目もくれずに、
 朝から晩まで野菜作りに励んでしまいそうな自分が怖い。
 同じ理由で、ガーデニングに手を出すのも、ちょっと我慢している。
 けれど、このことを私をよく知る友人に話したら、
 「今の君がそんなことを言うのは、わかりすぎるくらいよくわかる」のだそうだ。

 それにしても、我ながらちょっと可笑しい。
 我ながら、ちょっと嬉しい。
 なんでかなぁ。こういう感じ。
 ひょっとして、ひょっとすると、単に歳とっただけか?
 うわぉ。



 6月6日 青春の日々

 RCサクセションのCDを2枚買った。
 ネット通販だから、まだ手元には届いていない。
 なんだか急に懐かしくなっての衝動買いだ。
 あの頃は、カセットテープが擦り切れるまで、何度も繰り返して聞いていた。

 宝くじは買わない
 だって僕は
 お金なんか要らないんだ

 宝くじは買わない
 だって僕は
 お金で買えないものをもらったんだ

 冷たいコンクリートの校舎を抜け出して、犀川の河原に仰向けに転がれば、
 オーティス・レディングの「(Sittin’On)The Dock of Bay」が聞こえてきて。
 友達と進路の話なんかしちゃったりして、あーあ、と溜息ついたつもりが、
 でっかい深呼吸とでっかいあくびが一緒に済んじゃったりして。
 ああ、これって「トランジスタラジオ」じゃん、とか思ったりして。

 私にそんな歌を教えてくれた人は今、某宗教団体の下部組織?という会社の
 幹部社員になって、HP上で何だか反吐が出るような美しい文句を吐いていた。
 拍手を送りたくなるようなほどの、気持ち悪い笑顔をした顔写真付きで、だ。
 ちゃんちゃら可笑しい話ではある。
 あれから随分と長い時間が経った、ということだ。
 まぁ、大して意味のない話。

 そうそう、次は、というとね。
 シーナ&ロケッツのアルバムを買おうとしているワタシ。
 「ちゅらさん」をはじめ、NHKに頻出する鮎川誠が気になって仕方がない。
 いよいよ壊れてきたか?




 6月5日

 北海道のえりも町でこの11年間、たった一人で町の診療所を守ってきた、
 ある女医、っていうか「おばちゃん」のドキュメントを見た。
 辺地(最近「僻地」とは言わないのかな)医療の困難さ、町の人々の暖かさ、
 なんていう、ドキュメンタリーによくある話はこの際ここでは書かないことにして。
 なにがすごいって、その女医が、42歳で医者になった人だ、ということだ。

 なんでも専業主婦だった33歳の時に、テレビで偶然自転車で往診に駆け回る
 おっちゃん医師の姿を見て、医師を志す決心をしたんだそうだ。
 で、3年間の猛勉強を経て、36歳で大阪市大医学部に入学、
 42歳で医師免許取得、という離れ業をやってのけた、浪花のおばちゃん。
 こういう人の話を聞くと、ああ、私はこれまで「猛勉強」ってしたっけな、
 ガリガリに痩せてしまうほど何かに一生懸命取り組んだことがあったかな、
 何かをそこまで頑張ったことがあったかな、と自分のちっぽけさが情けなくなってくる。

 「私は勉強ができなかったから」
 これまで何度この言葉を言い訳に、あらゆる壁から逃げてきただろう。
 そして、自分が出来ないことを、他人のせいにしてきただろう。
 最近になって、このままじゃいつか後悔するんじゃないか、という不安が、
 浮かんではくすぶり、浮かんではくすぶり、決して消えることがない。

 あるHPで、「酒もタバコも男もやめて、予備校に行きなさい」と書かれてしまった。
 ほかに色んな人からも「目指せばいいのに」「諦めるなよ」「君は医者顔だ」と、
 背中を押して貰っている。まぁ目標は医者だったり記者だったりバラバラなのだが。
 いつか踏み出さねばならない歩みではあるのだけれど、
 今はまだその心の準備が出来ていない。
 不思議と、巷の大学院なら1年そこら、東大だって数年勉強すればひょっとして…、
 とは考えられても、医学部だけは10年かかっても受からないような気がしてる。
 医者になった友人達の、死に物狂いの努力の様を幾度も目にしたからか、
 また私の中の醜いヤツが小声で囁く。
 お前に出来るわけがないだろう、と。

 まったく、やる前からこんな調子で、我ながら腹立たしいのだが。
 要するに勇気がない。
 意気地なし。

 「ちゅらさん」の主人公えりぃは、今朝、看護婦になる夢を見つけたようだ。
 ドラマではあるけれど、彼女がとてもいい顔をしていたのが、印象的だった。
 私は今、どんな顔をしているのだろう。




 6月4日 渡る世間は愚痴だらけ

 新しい部署に来てからほぼ2週間が経ち、結構慣れたこともあって、
 マイペースでぼちぼちまぁまぁ頑張っている。
 そんな私の様子は「とても楽な部署に配属になった、とても楽してる人」
 と、思われているようだ。態度でかいし。
 同じ時期に派遣社員として勤め始め、今は別の部署に配属になった人が、
 何やかんやと、私に愚痴をこぼしに来る。
 こっちの部署はいいわねぇ、いっつも暇そうで楽しそうだねぇ、と。
 いや、別にそれはそれでいいんですけど、私もそれなりに頑張ったんだよ。
 薄っぺらいマニュアルだけど、何度も読んで、赤ペン入れて、くちゃくちゃになるまで
 いつも側に置いて仕事を覚えたし、だからちょっとは要領よくやって、暇そうにしてる。
 そういうわけなんだけど。

 どうも、人間ってのは愚痴っぽくなると、それが生き甲斐、みたいになってしまって、
 極端な話、自分以外のものはすべて悪、というような思考回路になってしまうようだ。
 (いや、私も愚痴っぽい人間だからこんなHP作ってんだけどさ)
 聞いてみると、その愚痴の中にはお局の話とか、私にしてみりゃ面白い出来事が
 盛りだくさんなのに、それも笑えないほど追いつめられてて、何だか哀れ。
 「女同士の職場はこれだからイヤよねぇ」とか、ちょっと前まで私も言ってたけど、
 実は今となっては、さほどそうは感じてない。
 っていうか、男だらけでも女だらけでも、楽しいことは楽しいし、嫌なことは嫌。
 ただそれだけのこと。
 たぶん、配置替えになって、今の状態の彼女が私の部署に来たところで、
 やっぱり思い詰めた顔して、ずっと愚痴っているんじゃないかしら。
 要は、気の持ちよう、ってことなんでしょうけど。いやはや。




 6月3日 早起きは三文の?

 またおかしな夢で目が覚めた。
 ……。
 内容はもうよそう。

 今日は11時からの出勤だというのに、7時前に目が覚めた。
 朝飯をたらふく食って、1週間分くらいの時間をかけて歯を磨き、
 そしてこれから犬の散歩に出掛ける。
 ただ今、8時半。
 何を好きこのんで、朝っぱらから日記を書いているのだ。
 頭がクラクラしてくる。

 あ〜、それにしてももったいない。
 ゆっくり朝寝坊するつもりで眠っていたのによぉ。




 6月2日 よりによって

 変な夢をよく見るようになった、と書いた。
 確かにほんの少しだけ、疲れている。
 そして、その合間合間の読書だけが最近の唯一の楽しみ。
 それで、何も考えず気楽に読める彼の本を、6冊続けて読み終えた。
 だからといって。

 何も浅田次郎と恋に落ちなくったっていいだろう。

 そんなに疲れているのか?私。
 夢の中で、なぜかバスの中で二人は一瞬にして恋に落ちるのだが、
 その直後、彼は極道時代の復讐だかなんだかで刃物で刺され、
 私はそんな彼を必死で看病しておった。
 なんじゃそりゃ。
 久々にインパクトの強い夢だったので、驚きで目が覚めたわ。

 というか、1周年記念の日記がこれかい、という気もするが、
 それだけ私にとっては衝撃的な出来事だった、ということで、ご勘弁を。
 しかし、そんなに疲れているのかぁ???
 謎は深まるばかりである。




 6月1日 1周年

 あす、このHPが1周年を迎える。
 それにしても、よくまぁ、ここまで続いたもんだ。
 ダイエットだって、お肌の曲がり角をとっくに過ぎたスキンケアだって、続かない。
 男と付き合ったって、まぁ、1年続いたのって???という始末。
 熱しやすく冷めやすく、とにかくぐうたらで悪評高い、かに座のB型のこの私が、だ。

 それにしても、初期の日記は我ながら暗いな。
 なんか、神経過敏だったのか、研ぎ澄まされていたのか、どう表現すべきか判らないが、
 あそこで医者に行かなければ、私は間違いなく倒れていただろう。
 そんなだった私が、今、PSWを目指している、というのも、不思議な話ではある。

 この1年で、私の何が変わったか。
 あまり怒らなくなったな、と思っている。
 (それはあんたが思っているだけ、という突っ込みはこの際無視することにして)
 それは言うなれば、諦め上手になってしまったのかな、という疑念もあるにはあるのだが、
 じゃあ私は何かを諦めたか、というと、そういうわけでもないようだから、
 まぁ、ここはひとつ、ひとつオトナになった、とでも言っておこうか。

 何より、このHPが1年も続いたことが、私にとっては大きな驚き。
 自分がどんなに元気だろうと不機嫌だろうと、ここだけはいつも私のためにある。
 実はこの1年、そういう安心感をここに求め、ここに感じていたのかも知れない。
 そんなことに気付いた気がする、少し肌寒い365日目の夜。