第八番 野島山 善応寺(真言宗御室派) 〜案内図はこちら

(現在 野島山染王寺 金沢区野島町5−1)


    ただたのめ のじまがさきに ひくあみの
             もらさずすくふ なみのうろくづ
    

「新編武蔵風土記稿」によると

  善應寺
   除地、小名野嶋浦にあり、同じ末野嶋山と號す、当寺古は野嶋山
   の頂にありしが、南風のをりから堂舎を破損せし故、この地に移
   れる由、今も彼頂に善應寺屋敷の名残れり、本堂は六間に五間、
   本尊観音は八寸許の立像なり、古は愛染を本尊とせしが、火災に
   罹りし後改む、札所の内第八番なり、世代の内永禄9年3月17
   日寂せし源朝と云あり、これより舊きを傳えざれば、これ開山な
 るべしといふ

また「江戸名所図会」の善応寺の項には

  “正観音の木像は立像二尺ばかりありて聖徳太子の作なり”
  とあり、善応寺が金沢札所の第八番であり、札所の観音様は正観音であった
ことがわかります。なを風土記稿には“八寸許”とは一尺八寸の一尺の脱字と
考えられています。また同じ末”とは龍華寺末のことです。 

 善応寺は明治40年同じ野島にあった正覚院を合併した際、脇本尊としてお迎
えした正覚院の愛染明王に対する尊崇の念から次号は染王寺となったと言わ
れます。
 善応寺の開山の源朝が入寂したのは永禄9年(1566)ですが、境内にはそれ
よりも年号の古い宝筺印塔があり、寺の創建はそれ以前に遡ることが出来ます。
  山門を入って墓地入口に石のお地蔵様があり、その左右に二基の宝筺印塔
があります。左の方の塔身には「比丘尼了意 永徳二年六月十八日」と刻まれ、
右の方の塔身には「…応永十二年六月二十日」とあり、永徳二年は1382年、
応永十二年は1405年であり、 永徳二年に了意が、応永十二年に義圓和尚が
野島山に小庵を結び、のち源朝が現在の地に 善応寺を開創したものと考えら
れています。




正観音立像 染王寺蔵
木造・玉眼・像高62.8センチ









染王寺山門
従三位徳川慶乗書の「野島山」の扁額が掲げられてある


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