第二十九番 大霊山 泉蔵院(廃寺) 〜案内図はこちら

(現在 鳳林山篁修寺 臨済宗建長寺派 磯子区森5−9−6)


    きりがやつ だいひのはるに めぐりきて
               きのくのたびも ここにしるらん
  
 もとの札所二十九番は大霊山泉蔵院でしたが、明治初年の神仏分離に
より廃寺となったため、篁修寺が二十九番札所となり、札所の観音も、泉
蔵院は聖観音でしたが、失われたため篁修寺にある札所の観音は如意
輪観音です。

ー篁修寺ー

 篁修寺へは二十八番札所東樹院を出て笹下釜利谷道路(バス通り)を
左に進み、村越の交差点を左折、磯子工高入口信号を右折し直進、バ
ス停「森5丁目」の先、大港邸の手前を左に進むと左側に篁修寺への石
段が見えます。

 篁修寺は杉田の東漸寺十一世光室によって永徳元年(1381)に開か
れました。光室は地元の人々の協力を得て、人里離れたこの地を選定
したといわれます。はじめ荒神山篁修庵といいましたが、文久のころ、
山号を鳳林山に変え、昭和39年には庵を改め、篁修寺としました。
 本尊は釋迦坐像で、中原村名主の太郎左衛門が、寄贈したもの。
 ほかの寺宝として薬師三尊十二神将、札所の観音如意輪観音などが
あります。

『横浜市史稿』によると
 
 篁修庵は鳳林山と號し、文久の頃までは荒神山と稱した。磯子区森町
千一番地にあり境内は六百五十九坪。杉田町東漸寺末、寺格は建長
寺派六等地、金澤札所觀音霊場第二十九番である。

 また新編武蔵風土記稿の森公田の条には

   篁修庵
    除地、一段二畝、村の坤の方に在、荒貴山と號す、禅宗臨濟派、
   杉田村東漸寺末、本堂五間半に四間、開山光室永徳元年九月三
    日寂す、本尊釋迦は坐像長一尺五寸、元禄七年村の名主太郎左
    衛門の寄付する所なり、其前の本尊は詳ならす、・・・・・・
            
ー泉蔵院ー
 
 新編武蔵風土記稿の森中原村の条には
 
  泉蔵院
   年貢地、本山修驗京都聖護院末、大霊山桐谷寺と號す、桐谷は
   此所の小名なり、山號古は紀州山と號せしが、三代以前の僧今
   の山號に改むと云、元禄三年七月二十六日年行事職の免許あり、
   尤郡中八ケ村の修験は、松本村の權現堂の支配にして、其餘は
   郡中すべて當院にて支配せり、縁起の略に當山は 右大将頼朝
   の建立、四所祈願所の一に本鎌倉山崎郷に道場を構へしに、争
   亂の世廃して道場所領たるをもて、此地に遷せしと云、南方年
   行事の古跡なりと載す、開山大僧都智覺法院、正治元年六朔日
   寂す、・・・・・・・・・・

 
        篁修寺(横浜市磯子区)   如意輪観音菩薩(磯子の史話 より)
 
  觀音堂
    門を入り正面にあり、金澤札所第二十九番なり、二間に二
   間半、本尊正観音立像、長一寸八分、浅草寺感得の尊像と
    云、前立は行基の作、長一尺六寸、其餘安置するもの出山
    釋迦立像、長一尺、仲算大徳作、地蔵立像、長一尺六寸、
    恵心の作、  
     
 とありますが、 正応2年(1289)に僧祐賢が書き、正徳5年
(1715)に僧善佑が書写した「祐賢社記」には泉蔵院の縁起に
ついて次のように記しています。
 建久4年(1192)に当時この地を領していた鎌倉山崎の泉蔵院
の大僧都真諦知覚は、源頼朝の命により治国安民祈願のため紀州熊
野に詣で、三所権現の三尊像をこの地に勧請しました。知覚が三所
権現の三尊像、牛頭天王のお札、王子石二個、ナギの木一株を樟
(クス)の船に乗せて熊野の海に流したところ、船は中原の海岸に
流れ着いたと伝えています。
 神慮の感に打たれた知覚は東に海を臨む勝地を選び桐ケ谷の大霊山
山上に熊野三所権現を祀り、山麓に紀州山桐谷寺を開創し、自身は
別当となり、のち山号は大霊山と改められました。

 ご詠歌はこうした故事に因っています。

 一方、鎌倉山崎郷の泉蔵院は兵火を避けて桐谷寺に移り、桐谷寺
は大霊山泉蔵院と院号で呼ばれるようになりました。山崎の泉蔵院
は四家といって鎌倉時代に鎌倉にあった熊野修験の道場四所のうち
の一所でした。上記の風土記稿の“本山修驗京都聖護院末”から山
崎の泉蔵院は天台宗の修験の寺であった事がわかります。

 泉蔵院の故地は熊野神社に隣接した地にあります。
 篁修寺を出て、右側の岡部邸の前を通り、道なりに進み、中原公園
手前を右折、公園横を左折し京急杉田駅(西口)方面に向かい、駅手
前の道を右に入りと熊野神社の参道が見えてきます。神社の鳥居左側
のアパートが建っているところが泉蔵院の跡地です。
 泉蔵院は熊野神社の前身である大霊権現社の別当寺として鎌倉時代
の初めに権現社の境内に、知覚法印によって開山されたもので、明治
初年の神仏分離によって観音堂ともども廃されましたが、本堂は長い
間神社の付属建物として使われてきました。
 
 泉蔵院が廃寺後三十二代住職は熊野神社の神職がなりましたが、そ
の後も代々引き継がれています。

ー熊野神社ー

 新編武蔵風土記稿の森中原村の条には次のように記されています。

   熊野神社
    除地、五畝、村の乾にあり、山上は社を建、九尺に二間、泉蔵院持、
    縁起の文は正應二年別当別當祐賢が記を、正徳年中改寫瀬せしもの
    なり、當社は泉蔵院智覺、建久三年十一月造立すと見ゆ、其餘採用
    すべきものなし、社中に太神宮、貴布稱、稲荷、八幡、牛頭天王、
    船玉神の六坐を合祀す
    


         熊野神社(横浜市磯子区)
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