第十四番 日光山 千光寺(浄土宗) 〜案内図はこちら

( 金沢区東朝比奈1−37−1)


    かれきにも はなさきみのる せんこうじ
               たのまばちかひ たれもてるひめ 

 千光寺は応永年間(1394〜1427)の創建とされ、数百年の間六浦
の川地区、川郵便局の近くにありましたが、昭和58年2月、現在の東
朝比奈に移転しました。
 山門の手前右側に古い石塔があり、右側面には「照手姫身替本尊」
正面には 日光山 武列金澤三拾四ヶ所第拾四番 千光寺、左側面には
せん志ゅ十一めんくわんせおんほさつ、裏面には宝暦五乙亥天七月
吉丹 と刻まれています。
 寺の本堂には須弥壇中央に御前立ちの千手観音が祀られています。

寺伝によると
「本尊千手観音は照る手姫の守り本尊で有名であり、応永年間の開
  創で寺運隆盛であったが、往昔大津波にさらわれたり、万治元年
  全焼したりし、その後は六浦町字川の農村の菩提寺として法燈を
  守り本尊は鎌倉時代より有名かつ、霊験あらたかであって、秋の
  お十夜はまことに盛んなものである。千手観音を本尊とするもの
  は金沢地域内で唯一のものであって、凡ゆる願い事の何事でも叶
  えて下さる大悲のお誓いを千の御手で現わしてどんな苦悩も、も
  らさずお救い下さる忝けない聖像である。金沢猫を葬ったという
  猫塚がある。」と伝え、千光寺が地元の人々の篤い信仰を受けて
  いたことがわかります。
 
<金沢猫>
 六浦の三艘に着いた唐船には中国からの長い航海の間、積荷や食糧をネ
ズミの害から守るために猫(唐猫)が乗せられていました。
 唐猫は長い船旅から解放されて上陸すると、金沢の地に住み着いて繁殖
し、その子孫は「金沢猫」と呼ばれ、この辺りに居た猫と違い、尻尾の短い
三毛猫でした。背中を撫でると普通の猫とは反対に背中を持ち上げるの
で、それがまた可愛いいと珍しがられ、その愛らしさは全国で評判になり、
「カナ、カナ」と呼ばれ、どこへ行っても可愛がられました。
 「唐猫」が死んだのち埋められた所と伝えられる「猫畑」の地名が川地区
に残っています。
 また川地区にあった千光寺(昭和58年に東朝比奈町に移転)には「唐猫」
の供養のための「ねこ塚」が造られ、今も茂みの中にひっそりと建ってい
ます。画像はこちら

       現在の千光寺(金沢区東朝比奈町)

 新編武蔵風土記稿には
 
  千光寺
   境内除地八畝、小名川にあり、浄土宗町屋村天然寺末、日光山と號す、本
   堂四間半四方東向、本尊千手観音、照手姫の身代佛と云秘佛なり、前立の
   像立身六尺許、照手姫のことは泥亀新田いふし嶋の條にしるす、

と書かれていますが、本尊の十一面千手菩薩は三十三年に一度開帳の秘
仏で普段は拝見できません。胎内にはおや指ほどの大きさの照手姫の観
音さまが収められているといいます。
 
照手姫伝説
昔、常陸国で戦いに敗れた小栗判官満重が落ちのびていく途中、藤沢の 山中で泊った宿で、満重を助けようとした照手姫が朝比奈峠を越えて、六 浦港に出ようとする所で追手に捕らえられ、身ぐるみはがれて千光寺(現 在は東朝比奈に移転)の近くの油堤というところで川に投げ込まれてし まいました。 それから数日後、照手姫の乳母の「侍従」が姫を探して油堤まで来ました が、姫が川に投げ込まれたと聞くと悲しみのあまり、姫の化粧道具をその 場におくと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいまし た。このときからこの川は「侍従川」と呼ばれるようになりました。 また乳母が飛び込んだ川の土手を化粧道具にちなんで油堤(包)といわ れるようになったともいわれます。 侍従側に投げ込まれた照手姫は千光寺の観音様に救い出され野島の漁 師の家につれていかれました。川のほとりにあった千光寺の本尊、千手観 音の胎内仏=腹に納められた小さな仏像、はこのときの姫の身代わり仏だ と伝えられています。 野島の漁師の妻は嫉妬深い女だったので照手姫を松の木にしばりつけ て、松の青葉でいぶり殺そうとしました。しかし姫はまたも観音様に助け られ美濃国に落ちていきましたが、その後小栗判官と再会、夫婦となって 幸せな日々を過ごしました。 瀬戸橋近くの「姫小島跡」がその松葉いぶしの場所といわれます。

  山門の手前右にある石塔    御前立ち(千光寺蔵) 正面には金澤札所第十四番と刻まれている
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