第三十一番 霊桐山東漸寺「多福院」(臨済宗建長寺派) 〜案内図はこちら

(現在 晴峯山林香寺〈臨済宗建長寺派〉磯子区森2−20−26


 ひろびろと だいひのじげん りんこうあん
              わけてこやすの みなもたのもし
 
  林香寺へは第三十番東漸寺を出てバス通り(国道16号線)を左折、
 杉田小学校、中原、屏風浦小学校下等の信号を経て屏風ヶ浦の交差
 点を越えたところで左折、トンネル(林香寺の敷地)を抜けてロイ
 ヤルホストの手前の坂を上ると、林香寺の境内に出ます。

 新編武蔵風土記稿の森公田村の条には

  林香菴
    年貢地、村の西にあり、本山前に同じ、(編者註:東漸寺に同じの意味)
    雨峯山と號す、本堂六間半に四間半、開山聖渓龍公、應永二十三年五月
    二十九日化す、本尊釋迦坐像二尺、
   觀音堂
    境内、巽の方にあり、本尊千手觀音長二尺八寸、
   十王堂
    除地、二畝、村の東にあり、三間四方の堂なり、本地地蔵、傍に如意輪
    觀音を安す、 林香菴持、

  とあり、また横浜市史稿には 
   
   “林香庵は晴峯山と號し、大正十一年以前には雨峯山と稱した。
     磯子區森町字東谷四百二十二番地にある。
     境内は三百九十九坪二合。臨濟宗建長寺末、寺挌二等法地、
     金澤札所觀音霊場の第三十一番である。
     當山は應永二十三年の創立で杉田村東漸寺第一九世、同寺
     塔頭多福院七世雲渓龍公和尚の開創した所である。・・・・・・・
     従来東漸寺末であったが、明治十七年、第十三代、建長寺末
     となった。本尊は釋迦如来の坐像、長四尺、作者は不詳であ
     る。・・・
       寳物
         千手觀世音立像 丈四尺  一躯
          往昔同村陣屋橋際觀音堂に安置してあったものと云う
          が、今は同庵に安置し金澤札所觀音霊場の第三十一
          番である
     と記されています。
  安永4年版(1775)の金沢三十四ヶ所一覧では第三十一番札所は東
 漸寺となっており、当初の三十一番札所は東漸寺塔頭の多福院であり、
 本尊の子安観音が札所の観音であったと考えられています。
  多福院は明治初年に廃寺となり、子安観音も行方不明となり、東漸寺
 十九世で、多福院七世でもあった雲渓龍公によって十五世紀初め頃開
 かれた東漸寺末寺の林香寺が三十一番札所となり、その観音堂に祀ら
 れていた十一面千手観音が札所の観音になったと考えられています。


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十一面千手観音立像(林香寺蔵)
  
  
  


 横浜市史稿の記載や枕がえしの伝説によると十一面千手観
音は十王堂にあったとされ、風土記稿には観音堂にあったと
書かれていることと相違します。この点については『金沢三
十四観音霊場巡り』では林香寺は明治初年に全焼し、このと
き観音堂も焼失しており、十王堂もいつしか廃され、十王堂
の庭にあった石塔類も林香寺の墓地に移されたことなどから、
こうした伝承が生まれたのではないかと推測しています。

 
ー伝説 枕がえしの観音ー
昔、陣屋橋の側に十王堂があって、延命地蔵とともに十一面千手 観音が祀られていました。 屏風が浦の浦風が涼しい夏の夜などは、この湾に注ぐ、陣屋川の 橋のほとりやお堂の庭などに、村人は暑気をさけての夜遊びに集ま ってきました。笑いさざめく若い衆の中には夜更けまでおしゃべり して、そのまま堂の中に寝ころんで一夜を明かすこともありました。 ごろ寝した若い衆が寝とぼけて、観音様の方に足を伸ばしたりする と、眠っている間に足が反対の方向となり、どの頭もみんな観音様 の方を向いてしまうというのです。不思議だなあ、と村人のうわさ 話になっていました。 ある時、一人の強情な男がこの話を聞いてそんなばかばかしいこと があるものかと笑いました。そんならやってみろということになっ て、おれは絶対だまされんぞといって、その夜、わざと仏の方に足 を投げ出して寝てしまいました。よく朝 、目がさめてみると、果し て向きが変わっていたのです。強情者の男も驚いて、観音様に手を あわせてあやまったという話です。人々は枕がえしの観音様と云い ました。この十一面千手観音は、いまは林香寺の本堂に安置されて います。
林香寺(横浜市磯子区)