けいさんじ ちかひのうみの かげふかく
ひかりあらはす きしの2とみおか
慶珊寺へは三十一番札所林香寺境内を出て左に進み
屏風ヶ浦の交差点手前を右折、バス通り(国道16号線)
を直進し富岡トンネルを抜けて、富岡町の信号を左折し、
ログハウス手前の信号を右折して進むと右側に慶珊寺
の山門が見えてきます。
慶珊寺は寛永元年(1624)、当時富岡の領主であった
豊島明重が、母親の十三回忌に両親の菩提のために建
立した寺です。山号は父頼重の法名花翁常蓮から、寺号
は母の法名瑚琳慶珊からとって花翁山慶珊寺と名付け、
開山上人として龍華寺の伝栄和尚を招いたものです。
新編武蔵風土記稿の富岡村の条には次のように記され
ています。
慶珊寺
境内、山林除地、村の西方、山の中腹にあり、古義真言宗、洲崎
村龍源寺末、花翁山と號す、寛永元年、地頭豊嶋形部小輔信滿、
其父母菩薩のため建立する所にて、開山を傳栄法印と云、同四年
示寂、當寺もとは海岸によりてありしが、其地次第に打ち崩されし
故 、何の頃か今の所に移れり、其頃は不動院寶龍寺と號す、紀伊
国高野山の直末なりしが、後龍源寺末となり、寺號を改めしと云、
今の寺號は、信滿母の法名瑚村慶珊と云にとれり、此人慶長十八
年十月六日死す、其墓は村の北方地蔵山にありて、村内長昌庵の
持なり、本堂七間半に五間東向、本尊不動を安置す、願行上人の
作と云、
慶珊寺(金沢区富岡)
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十一面観音菩薩半跏像( 慶珊寺蔵)
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昭和6年版の「金沢三十四ヶ霊所」によると
札所の観音は聖観世音となっていますが、風土記稿
や横浜市史にも記載がなく、慶珊寺には本尊の大日如
来像のほかに寺宝として県の重要文化財にも指定され
ている十一面観音菩薩半伽像や阿弥陀像等があります
が、札所の観音と断定できるものはなく、三十二番札
所の観音の行方は不明です。
豊島刑部明重父子の供養塔
慶珊寺の裏手の墓地に豊島明重父子の供養塔がひっそりと
残っている。
寛永5年(1628)当時富岡1700石の領主だった豊
島明重は仲人になって、老中井上主計頭正就の長男と大阪
町奉行の島田越前守直時との縁談をまとめたが、井上正就
は当時大奥で権勢をふるっていた春日局に追従し、将軍の
意向と称してこれを破談にし、島田家より羽振りの良い山
形城主鳥居土佐守忠政の娘と婚約させてしまった。
仲人の面目をつぶされたと怒った明重は、江戸城内で井上
正就を「武士に二言はあるまじき事」とさけんで切り伏せ
た後、後ろから抱き留めた青木小左衛門をも、我が身もろ
とも田楽刺しにして倒れ、まもなく絶命しました。(この
シーンはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」で放映されまし
た)
息子の継重(13歳)も切腹を命ぜられ豊島家は断絶した。
二基の宝篋印塔は姉が供養のために建てたものとつたえら
れる。
豊島明重父子の供養塔(右・父明重 左・子継重)
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