第二十八番 如意輪堂(廃寺) 〜案内図はこちら

現在関宮山東樹院( 高野山真言宗 港南区笹下2−24−19)


    せきのとを さかぬみよにも うまれきて
               だいひのやまを めぐるうれしさ     
      
  第二十七番札所(福聚院)を出て松影橋を渡り、鎌倉街道の港南警察
 署の信号を越えて、左折、右折、左折の後、笹下・釜利谷道路に出たと
 ころで、笹下・釜利谷道路を右方向に進み、バス停「関」の手前を左に
 入ると東樹院に突きあたります。
 
 新編武蔵風土記稿の關村の条には
 
    東樹院
      除地七段、山除地五段、村の北金澤道の傍にあり、古義真言宗、
      石川寶生寺末、關宮山寂静寺と號す、古寺號を御大塗寺とゝなへ
      しが、寛文十一年十月四日、時の僧宥圓へ御室の宮より今の山號
      寺号を賜へりと云、其時の文書今に蔵す、本堂六間半に五間、本
      尊大日を置、坐像長さ一尺五寸・・・・・
    觀音堂
      除地、一畝十八歩、村の北東樹院の向にあり、如意輪觀音を安す、
      行基の作、坐像にて長一尺、金澤札所の内二十八番なり、堂は四
      間に三間、古へは如意坊と號せし由、今小名を廃せり 

  とあります。

 昭和6年から8年にかけて刊行された『横浜市史』には次のように記載
されています。

  東樹院の寶物として
   如意輪觀音木立像 長一尺 行基作 一躯
   金澤札所の内、第二十八番の本尊である。
   昔時は境内隣地なる觀音堂の本尊であったが、今は本堂内に安置す。  
 

  東樹院


 これらから金沢札所の第二十八番は東樹院に隣接した觀音堂でしたが、
いつの頃か觀音堂は廃され、本尊の如意輪觀音は東樹院に引き取られ、
昭和8年頃迄は安置されていましたが、現在は存在が確認されません。

『港南の歴史』(昭和54年刊行)によると
 東樹院は、往古寺号を御大塗寺と称したといわれるが、寛文11年
(1671)10月4日、時の住僧宥圓が、京の御室仁和寺の宮から大
圓山寂静寺の山号寺号を賜ったのち、大圓山の山号に紙を貼って関宮山
と訂正したが、後紙が剥がれて、大圓山の文字が、再び現れたと云いま
す。  
 往昔は本尊は大日如来であって、寺伝によると大治2年(1127)
沙門順玉が遊歴の途、この地に立ち寄って当院を創建したといいますが、
その後弘治年間(1555〜58)に至って、寺運が衰退して、荒廃の
様相を呈していたのを、遊歴の道すがら、この有様を眺めた沙門至順は
吾がことのように悲しみ、寺の興隆に一念発起しました。
 当時篠下城ささげじょうは領主間宮豊前が居城であったので、僧至順は、同城にお
もむいて、領主に寺の荒廃の状況を言上すると、三十貫文の地を下され
たので、寺領とすることが出来ました。

 かってこの辺りは交通の要所であり、そして明治から大正時代は東樹
院の隣に久良岐郡役所がおかれたため、登記所、郵便局、警察署、笹下
学校、料亭、代書屋、宿屋等が並び、久良岐郡の行政上の中心地となり
ました。商店も大いに賑わい、道端には常に人力車が列をなしていたと
いわれ、東樹院も繁栄したと想像されます。        
                    

タヌキ寺として有名な東樹院
伝承によれば寛永年間(1624〜44)にこの寺に一夜の宿を借 りた美人が、お礼に二枚の絵を書き、茶釜と共に寺に寄進しました。 ある晩、松本の薬師寺の近くでタヌキがイヌにかみ殺されていまし た。そばにその美人の着物が食いちぎられていたといいます。タヌキ の残した二枚の絵は焼失しましたが、寺宝として茶釜は今もあり、境 内には見事な「横浜焼」の陶製の像が二つおかれています。
タヌキ像 (東樹院境内) 美人像(東樹院境内)
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