第六番 擲筆山 能見堂(廃寺) 〜案内図はこちら〜
(現在 知足山 龍華寺 金沢区洲崎9−31)
めぐりきて ねがいをここに みちしほの
かへおきわする ふですてのやま |
巡礼歌に詠われている「ふですてのやま」は擲筆松伝説にもとづく もので奈良時代、巨勢の金岡という絵師が旅の途中、山上から金沢 の風景を見て、潮が満ちた所を見てその景色に感動して描き始めま したが、いつしか引き潮にかわり、跡は干潟となり、一層景観がす ぐれたものとなり、刻々と変わる自然の美しさに圧倒され、描くこ とはあきらめ、ついに松の根本に筆を捨てたと伝えられています。 この松は枝振りのよい大木でしたが、大正7年の暴風で倒れ、根幹 だけになりました。第二次大戦中には松やにを採るために、この根 幹も掘り出され、今は跡かたもなくなりました。 また金沢八景根元地とあるのは“八景は総て能見堂よりいづなり” というように金沢八景はここから眺める八景を起源としたものです。 能見堂の歴史は古く、平安時代に開かれたとも伝えられていますが 「梅花無尽蔵」には文明18年(1486年)には廃絶して無かっ たとあります。 その後、寛文2年(1662)から同9年の間、当時の領主久世大 和守広之が芝増上寺から地蔵院をここに移し堂宇を再興し、江戸時 代には非常に繁栄しました。元禄7年(1694)ころ明の僧心越 禅師がこの地を訪れ、能見堂から見た金沢の景色が故郷中国の瀟湘 八景によく似ていることから武州能見堂八景詩を読みました。 これが金沢八景の由来です。 新編武蔵風土記稿(巻七十六 久良岐郡之四 金澤領)には “能見堂 除地 村北を通ずる街道の傍なる山上にあり、禅宗曹洞派、 江戸千駄ヶ谷端園寺の末、擲筆山地蔵院と號す、本堂二間半四方 南向 本尊地蔵、此地は往昔関白道長卿開基せられ由し之傳ふ” と記されています。 |