第七番 水照山花蔵院 〜案内図はこちら

(現在 知足山龍華寺 金沢区洲崎9−31)


    これやこの けぞうせかいと きくからに
           いつもだいひの はるにやあらなん    

 洲崎の古刹龍華寺の記録帳によると

 「当山ハ元朱印地五石目ヲ有セシモ明治維新の際上知処分ニテ
   消滅シ其後明治九年一月当山塔頭花蔵院引摂院福寿院ノ三箇
   院各檀徒協議ノ上合併ヲ願上許可ノ上動不動産をヲ悉当山ヘ付
   属シ了ル仍テ当山ハ現今ノ生計を観ルニ至レリ」

  とあり、花蔵院等は明治9年1月に龍華寺に合併されたことがわかります。
 記録帳では花蔵院の観音が合併当時あったかどうかについてはふれていま
せんが、金子隆英氏の「金沢巡礼」には七番華(花)蔵院安置仏として正観音
が記されており、少なくとも「金沢巡礼」が作成された昭和6年頃には存在した
ものとみられ、その後いつの頃か亡くなったものと思われていましたが、龍華
寺から新たに発見された観音菩薩立像が花蔵院の観音様ではないかとも考
えられています。
 
 また花蔵院の本尊は新編武蔵風土記稿によると水照山華(花)蔵院は

  “門を入て左にあり本尊不動”とあり不動明王であったことが分かります。

 知足山龍華寺は真言宗御室派の準本山とされる名刹で、昔は末寺二十五
ヶ寺を数える大寺院でした。現在も金沢区にある真言宗十三ヶ寺の本寺格
とされています。
 新編武蔵風土記稿による当寺の寺伝によれば
「源頼朝が瀬戸神社を造営した後、その神宮寺を建立しようと文覚上人と志
を合わせ、文治年間(1185〜89 )六連山中に仏閣を建立、弥勒菩薩を安置
して四方に僧坊を構え、中将姫繍絵のまんだら、弘法太師自作の愛染明王
を納め、これを浄願寺と称した」   とあります。

 さらに寺伝は
「文明年中(1469〜87)浄願寺の住持・融弁上人が、洲崎にあった光徳寺の
住持を兼帯していたころ、両寺とも火災で焼失したが、のち明応8年(1499)
に融弁上人が浄願・光徳の二寺を併合し現在地に龍華寺を創建した」
と伝えています。



 龍華寺には多くの寺宝が残されており天文年間の梵鐘(県重文)のほか、室町時
代の地蔵菩薩の坐像、木造龍頭、弥勒菩薩座像、天平時代の菩薩半跏踏み下げ
像などが横浜市指定文化財となっています。



正観音菩薩立像 龍華寺蔵
寄木造 平安時代 像高53,3センチ
龍華寺の什宝目録には記載がなく
末寺からの移座からと推定される
ことから花蔵院の観音だったので
はないかとも考えられています
(金沢三十四観音霊場めぐり・金沢
札所三十四カ所を歩く会=著)



龍華寺境内の梵鐘(県重文)
天文十年(1541)の銘がありますが、鎌倉時代の作とみられています





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