第三十三 三十四番 海照山持明院 (真言宗御室派)( 〜案内図はこちら〜)

金沢区富岡東5−8−34


    なもたかき みかはにかけし やつはしの
               うつしてここに わたすめづらし

  第32番慶珊寺を出て右に進み、A'shと書かれた建物の角を右折し、
「宮の前」の信号を渡り直進すると、やがて持明院の案内がある左側の
電柱のところを右に入ると持明院の山門が見えてきます。

 新編武蔵風土記稿の富岡村の条には

  持明院
   除地、小名谷にあり、是も同末、海照山と號す、本堂五間に六間
   巽向、本尊大日を置、開山開基詳ならず、

                                (編者註、同末=龍源寺末の意)
 とあり、また寺伝によれば、次のように述べられています。

  「本尊大日如来、脇仏弘法太師釈迦如来、霊仏薬師如来、伝行基作、
    当寺は応長年間(1311)現在の長浜付近海岸一千戸の漁村の中
    に在ったが、その頃一大海浪に流され、氷取沢富岡等へ逃れた漁
    民と共に現在の処へ移ったらしい。天文十四年(1545)開山源隆と
    いう墓碑があるので、富岡へ移転してから約四百五十年を経ている。
    関東大震災で全堂宇倒壊、昭和五年現住職の代になって再建落慶
   した。正月薬師大祭、九月聖天大祭を修行して大昔から全町民の福
   祉繁栄を祈念し、町の中心地に在って潮風松籟颯々の清韻は千古
   の宝塔を讃め称えている」

 札所の観音については、昭和六年発行の「金沢三十四ヶ所霊所」には
三十三番は持明院で札所観音は正観世音、三十四番は釜利谷の金蔵
院で札所観音は聖観世音となっていますが、現在札所の観音はいづれ
も見当たりません。
 安永四年(1775)の「金沢札所三十四ヶ所一覧」には三十三番と三十
四番札所は持明院となっており、金沢札所成立当時(享保年間1716〜
35)は持明院に聖観音ともう一体の観音があり、結願寺となっていまし
たが、いつの頃か第三十四番の観音はなくなってしまい、昭和6年の「金
沢三十四ヶ所霊所」作成当時は三十三番の聖観音だけあり、その後そ
の観音もなくなってしまったものと考えられています。

持明院(金沢区富岡東)
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 ー札所三十三番 三十四番についてー

 金沢札所三十四か所一覧の
  安永四年版には
   三十三番持明院 三十四番持明院
  昭和六年版には
   三十三番持明院 三十四番金蔵院
 平成版には
   三十三番持明院 三十四番持明院
  となっています。

 札所成立当時(享保年間 1716〜35)は六番能見堂、三十三
番と三十四番は持明院となっていましたが、1870年頃失火によ
り能見堂が廃寺になったことにより、聖観音が能見堂から来たとい
う伝により、六番札所は金蔵院になりましたが、その後龍華寺の塔
頭だった福寿院が六番となり、金蔵院は三十四番になりました。
 その後、金沢札所成立当時と同じく、三十四番は持明院に変わりま
した。このため三十四番の御詠歌は冒頭に掲げたもの以外にもう一
つあります。

    あらうれし むつのちまたの こんぞういん
               めぐりをさむる たびのおひづる 


 六番札所が金蔵院から福寿院になった事情については不明です。
 また三十四番札所が金蔵院から持明院に変わった経緯についは判
 然としませんが、能見堂が廃寺になったことに関係がありそうです。


金蔵寺(金沢区釜利谷)
金沢三十四観音札所(完)
あとがき 先人たちが名勝金沢八景を楽しみながら巡礼の旅を続けた金沢三十四観音 札所の足跡を辿ってみました。 札所成立後、すでに三百年にもなろうとする現在では、すでに廃寺になった寺 院も十五ヶ所となり、札所も半数近くになりましたが、札所観音は推定分も含め 二十六体が残っており、改めて人々の観音信仰の深さを感じられます。 今では金沢札所めぐりの声も聞こえなくなりましたが、古くから伝えられてきた 金沢三十四観音札所の記憶を残していきたいものです。