第二番 長浜山 慈眼寺(廃寺) 〜案内図はこちら

(現在 金沢山称名寺 金沢区金沢町212−1)


    ながはまの まさごのかずは つきるとも
              だいひのじげん かぎりあらじな 

 称名寺周辺の古地図には、赤門東側に「観音堂」と記されたお寺があり、
これが札所二番でした。今は小高い丘だけ残り、上は空地です。
 お堂に祀られた聖観音像はもとは長浜にあった「長浜山慈眼院福聚海寺」
の仏様で、通称長浜観音と呼ばれており身代り観音の伝説が残っています。

 
身代り観音の伝説
称名寺に伝わる「長浜観世音縁起和讃」によると富岡と柴町の間 にある長浜は、その昔「長浜千軒」といわれ大変栄えた漁村でし た。ところが応長元年(1311)大津波に襲われ村は大波にの まれてしまいました。しかしそんな大波にもかかわらず、村人に は一人の犠牲者も出なかったといわれます。村人たちは日ごろ篤 く信仰している福聚海寺の観音さのお姿が見えなくなったことか ら“観音様が身代りになって下さったに違いない”と手を合わせ ました。 その後37年を経た貞和3年(1347)柴村の漁師が海中に 光るものを見つけ、網を入れ引き上げてみるとお姿が見えなくな っていた観音さまが出てきました。観音さまには長い間海中に沈 んでいたためカキ殻が付着、村人たちは「貝付観音」また「海中 出現の観音」とも呼び、お堂を建て手厚くお祀りしました。
新編武蔵風土記稿には、長浜観音がもと長浜山慈眼院福聚海寺にあり、 長浜にあったとことが記されています。 昭和10年、北條実人樹の六五〇忌を記念して大橋新太郎が寄進した 金沢山山頂」の八角堂に観音像は赤門脇の観音堂から移されましたが、 現在、聖観音像は称名寺本堂に安置されています。

長浜観音

新編武蔵風土記稿 巻之七十五 久良岐郡之三 金澤領
観 音 堂 惣門の東に並べり、昔は長浜山慈眼院福聚海寺   と号せし由、今は当寺の境内に属し、堂のみとな れり、これを長浜観音と唱ふ、其故は群内柴富岡 両村の境に長浜といへる地あり、民戸も千軒程に て賑へる地なりしが、応長の頃高波の災に罹り、 かの民屋漁家悉く流失して其蹟は海となれり、其 頃まではそこにありし寺なりしと、斯る大災のおり しも、此観音は万民の身に代て海中に沈しかは、 一人として溺死の者もなかりしと、この後三歳の 程夜は海中に光を放ち、又は鳴動などありしかは、 柴村の民怪しみ、其光をたよりて此観音を網し得 たりなとつたへり、




 称名寺仁王門前の石碑群の中に札所二番の石碑が二基あります。小さい
方は赤門脇の丘に放置されていた石碑の上の部分にあたり、大きい方は
正面中央に「金沢札所第二番」左側面に「本尊海中出現正観世音」右側面
に「長浜山福聚海寺」台石に「三門前」、そして裏面には次のように刻ま
れています。

    裏面   右    宝暦一二午年十月十八日建立
         中 央   慈眼院堂守願主西岸蓮入近住
           左    文久壬二年十月再建立
                      (注 宝暦12年=1762年 文久2年=1862年)

 また仁王門近くの墓地内に次のような石碑があります

           右側面   長浜観音前仏
            正 面   西岸蓮入近住
           左側面   再興之願主也

 この二基の石碑から観音堂の再建願主は西岸蓮入近住(さいがんれんにゅう
きんじゅう) であったことがわかります


称名寺仁王門前の石碑群

@は正面に「金沢札所第二番」と刻まれており Aの正面には「金沢札」のみが見える
墓地内の石碑
正面には「西岸蓮入近住」が刻まれている
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