第三番 金沢山大宝院 〜案内図はこちら

(現在 金沢山称名寺 金沢区金沢町203−1)


    かなざわの たからの山に いりぬれば
              などかちかひの むなしかるらん

 札所三番大宝院は称名寺塔頭の一つで称名寺境内の右側の小道を入ったところに
ありました。
 本尊の聖観音は、かって金沢文庫に展示された折に、足の裏から二枚の木札が出
てきて、その墨書名から延宝8年(1680)に修理されていることがわかりま
した。
 大宝院は室町時代には称名寺二代目住職釼阿の弟子で四代目住職の実真の隠居所
になっていました。この頃は、北條氏はすでにほろび、関東公方だった足利基氏
の代官の庇護で寺領をいただき、同時に関東公方の祈願所になっており、塔頭で
はありましたが「金沢大宝院」として独自性を保った寺院だったことが、新編武
蔵風土記稿の記載からもうかがえます。
 江戸時代になると称名寺の塔頭の一つとして徳川幕府の保護のもとにあり、本尊
聖観音立像は観音堂に安置され、所願成就の金沢札所第三番霊場として賑わって
いました。
 明治の廃仏毀釈で一時廃寺となりましたが、明治30年(1897)伊藤博文が
横浜の平沼専蔵に出資させ、ここに金沢文庫閲覧所と書庫を作りましたが、大正
12年(1923)関東大震災で倒壊してしまいました。
 その後、当時の庫裡の一部を本堂に転用し、聖観音を安置していましたが、平成
23年頃、聖観音は称名寺に保管、現在は誰も住んでいない老朽化した建物が残
っているのみで実質的には廃寺ですが、住職さんの話では登記上はそのままとの
ことです。(平成27年3月現在)




聖観音立像



昭和50年頃の大宝院


 
新編武蔵風土記稿 巻之七十五 久良岐郡之三 金澤領

大 宝 院
第三揩ネり、光明院の向ひにあり、本尊正観音行基の作、 外に千手観音あり、これも行基の作、金沢札所の一なり、又 維摩像あり、宋陳和卿作と云、この人は建保四年帰化す、古 文書あり 左に載す、 寄進武州金沢大宝院称名寺末寺下総国大須賀保柴村之内田一町、 在家一宇嶋田方扜奈土郷内下坊別当職事段別以別儀寄付仕候畢、右 彼所者、爲院家領、永代所奉寄進之也、違此儀子孫等者、爲 不幸仁、不可知行聖応跡者也、於公方可被召安堵状、寄付之 状如件、 応安四年四月十五日 沙弥聖応 左馬助憲宗 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天下安全祈祷事、被致精誠之状如件 応永三年四月二十八日 判 金沢大宝院 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 禁制 右於金沢大宝院扜当院領等、甲乙人等不可致乱妨狼藉、 若有違輩者、可処罪科之如件、 永享十年十月十二日
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