第二十番 氷取沢(廃寺) 〜案内図はこちら

現在飯盛山宝勝寺( 浄土真宗大谷派 磯子区氷取沢126)


    れいがんじ たづねてここに ひとりざは
               みぐみもふかき やまのおくかな
      

  第十九番札所(正法院)を出て右に進み、信号手前を左折し、バス通
 りを右に進む。二本松トンネルを抜けてバス停「氷取沢」のすぐ先に宝
 勝寺が見えます。

 住職の話によると

 「当寺は平安時代の終り頃天台宗の寺として創られました。その後応
  永年間(1394〜1427)に鎌倉五山の禅寺、淨妙寺住職 天端守政
  (じゅせい)禪師がすっかり荒廃していた天台の旧跡を再興して禅宗
  (臨済宗)の宝積寺(ほうしゃくじ)を開山し、禅僧修道の道場としまし
   た。その後、僧湛瑞真空(〜1560)が関東巡錫の蓮如上人の法話
   を聴いて深く帰依し、寺を真宗に転じ寺号を宝勝寺と改めました。
   当寺の観音堂の本尊の千手観音が札所の観音でした。残念なこと
   に昭和三十二年一月十五日に盗まれてしまいました。かっては檀家
   も十戸位で、お堂の中も見せていましたので持っていかれました。
   村の人たちが山狩りなどして探しましたが、見つかりませんでした。
   台座だけ残っていて、今は阿弥陀様を安置しています。」

  とのことで今は二十番の観音は寺にはありませんが、像高1メートル
 ほどの木造千手観音立像で、安産の観音様として人々に信仰されて
 いたといわれます。
 
 また寺の縁起によると

  宝勝寺の前身の宝積寺の守政禪師に夢のお告げがあり、夢の中に
 一人の童子が現れて

 「戦国の兵火を避けるため、ここより西方の巌の中に尊像を隠しまし
   た。どうぞこの尊像を掘り出して供養して下さい」

 と涙ながらに訴え、この山中に住む飯盛(ばんじょう)童子と告げるや、
 禪師は夢から覚めました。翌朝西方の山中に分け入ると、はたして大
 きな岩屋があり、“ここよここよ″ という声が、どこからともなく聞こえ
 きました。岩屋の前の大岩を取り除くと中には堅牢な箱があり、禪師
 の夢の中に現れた観音像が納められていました。
  禪師はその矢倉の中に堂を建て観音を祀ったと伝えられています。
  
 宝勝寺の飯盛山という山号はこの飯盛童子に由来し、禪師が祀った
 童子の祠が寺の裏山にあります。

  宝勝寺

            新編武蔵風土記稿の氷取沢の条には
 
                   寶勝寺
                    除地 三段 村の中程なり、浄土眞宗東本願寺末、飯盛山大音院と
                    號す、寺域山の半腹にありて喬木枝葉茂り極て幽邃の梵刹なり、
                    古此所に天台の寺院ありしが、久く廃墟となりしを應永年中に、
                    相州鎌倉五山の一、稲荷山浄妙禪寺住職守政、隠棲の爲に眞心庵
                    を造り、又後に當寺を開基して此所に移り、飯盛山寶積寺と號し
                    て、済家の法燈を掲ぐ、守政は同三十年十一月晦日化す、致年六
                    十、後享祿・天文の頃の住僧某、本願寺證如に帰依し、禪家を改
                    て真宗となり、釋空眞と改名し、寺號を寶勝に改む、是を中興開
                    祖とす、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                觀音堂
                 免除、字中嶋にあり、堂は二間半四方、千手観音なり、長三尺
                 程、弘法太師の作、持ち前に同じ(宝勝寺持)
   
               と記載されています。
             昭和32年宝勝寺の境内の観音堂から千手観音が盗まれましたが、
            残された台座の中央の穴から三枚の棟札が出て来ました。その棟札
            の銘記によると寛永20年(1643)に石窟矢倉の内に堂を再建、
            延宝5年(1677)九世了人が、観音山に観音堂を建て、堂は矢
            倉から外に出ました。
             昭和53年、現在の観音堂を建てるさいに取り壊した旧堂の棟札
            から明治31年(1898)一九世古河法潤住職が、観音山から宝
            勝寺境内に観音堂を移し再建したことが明らかになりました。それ
            ま山中の観音堂に詣でていた巡礼者は以後、宝勝寺を札所とするよ
            うになりました。

             安永四年(1775)版「金沢札所三十四か所一覧」には二十番
            は 廿氷取沢とあるのみで寺の名がありません。安永四年版は天保
            十五年(1844)に林定次郎が書き写した際に、寺の名を書き落
            としたものではないかとも考えられています。
             ご詠歌では札所を“れいがんじ”と詠っています。霊巌(岩、岸)
            とは氷取沢間宮氏初代綱信が文禄3年(1594)に宝勝寺の西方、
            邸の近くに建立した寺で、出家して休庵と号した綱信の持仏堂でも
            あったと考えられており、その跡地は「上之橋」を渡ってすぐの右
            側にあり、人家の庭に「霊巌寺境内観音堂跡、明治7年廃寺・・・
              ・・」と記された記念碑が建てらてています。
            山中の観音堂も霊巌寺の観音堂も明治時代に宝勝寺に移されていま
         す。
氷取沢間宮氏と宝勝寺
氷取沢間宮氏の祖である間宮綱信は江戸幕府から隠居料として氷取 沢五百石を与えられ、宝勝寺の西方に閑居し宝勝寺を菩提寺として堂 宇を再建しています。慶長十一年(1606)に亡くなり、お墓と板 位牌が宝勝寺にあります。境内の鐘楼の前に梵鐘が二つありますが大 きな方は間宮氏の寄進によるもので、享保九年(1724)十三世了 継の銘があります。今は外していますが、「観音堂」の扁額も五代目 間宮重都が元禄二年(1689)に書いたものです。
霊巌寺跡 (磯子区 氷取沢) 菩提樹(宝勝寺境内)
横浜市の名木古木指定
蓮如上人が立てた杖が根付いたと伝えられる
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