第二十一番 安養山 阿弥陀寺(浄土宗) 〜案内図はこちら
(磯子区峯町560)


    ごくらくは ほかにはあらじ わけのぼる
               こころのつきの みねのあみだじ  

 第二十番 宝勝寺を出てバス通り(笹下釜利谷道路)を左方向に進み、
 粟木交差点を左折、洋光台6丁目の信号を左に入り、突き当りを右に
 進む。
 さらに道なりに行くと左側に峰の橋が見えてきますが、渡らずに、右の
 細い道を行くと右側に阿弥陀寺の山門が見えてきます。 
  阿弥陀寺は第二十番宝勝寺からは円海山を挟んで、西北の方角に
 あり昔、巡礼者たちは山越えの道を歩いてきたのでしょう。

  阿弥陀寺の草創期の年代及び開山、開基は明らかでありませんが、
 昔は村内字道場(現在の峰市民の森入口付近)にあったといわれま
 す。
  応永年間(1394〜1428)戦乱により火災にあい再興できませんで
 したが慶長年間(1596〜1615)に暁譽覺夢和尚が中興、その後 、
 第七世清譽の代に堂宇、梵鐘を建立し、寺門の基礎を固めました。

 新編武蔵風土記稿の峰村の条には

  阿彌陀寺
   除地、五畝餘、村の中程にあり、浄土宗、京都知恩院末、安
   養山浄土院と號す、本堂は六間半四方東向、本尊坐像にて、
   長一尺餘、恵心の作、當寺往古は村内小名道場と云所にあり、
   本尊は其邊の田間より出現せるよし、故に鍬形の本尊とも呼
   べり、鎌倉戦争の時、火災に罹りてより以来、今の地に移れ
   りと云、又里人の話に、鎌倉戦争死者の屍を埋め菩提の為此
   に移せりと云、中興開山覺夢、寛永一八年六月二十九日叙す、
   又第七世の僧清譽も寺の功労あるを以て、是をも中興と稱す
   と云
 
  觀音堂
   本堂に向て右にあり、二間四方、本尊は春日の作、長一尺七
   八寸、金澤第二十一番の札所なり、・・・・・・ 
                 
 とあり、阿弥陀寺が金沢札所第二十一番だったことが分かります。
 
観音堂(阿弥陀寺)




 
お前立ち(阿弥陀寺蔵)




  阿弥陀寺の本堂には本尊の阿弥陀如来坐像と勢至、観音菩薩の
 両脇侍の三尊が厨子の中に安置されています。
  住職の話では本堂の阿弥陀如来像は何度も修理しており、現在
 は傷もなくが風土記稿にある田の中から出現した「鍬形の本尊」
 かどうかはわからないとのことです。
  そして関東大震災(1923年)では観音堂と山門だけは半壊
 で済んだが、あとは皆倒れてしまい、一時観音堂を本堂の代わり
 にしたことがあったとのことです。
  観音堂には今も札所の聖観音が安置されていますが、秘仏で午
 年に一度開帳されるのみで、普段は拝観することが出来ません。
  秘仏の前には六十センチほどの前立ちの聖観音があります。 
  横浜市史稿(佛事編)によると、秘仏の聖観音立像は春日の作
 で、近江源氏の佐々木高綱の守り本尊でした。

 観音については「阿弥陀寺観音略縁起」には

“聖武天皇の御代、天正十六年(744)佐野近世という人が左
衛門佐に任ぜられた。都から任地へ連れてきた妻はほどなく死に
、娘が一人いたが、十三歳になった時、父の留守中に継母の謀計
で殺されてしまった。
 姫の亡霊は父の枕がみに立ち、罪なくして殺されたことを告げ
たので継母は離縁されて家を追われた。その後近世は妻と娘の菩
提を弔うために出家し、松浦山という寺に引きこもった。
 人々は尊敬して松浦上人と呼んだ。上人は娘のために聖観音菩
薩の造立を思い立ち、仏師を探すうちに数年後、翁が訪ねてきて
正観世音を七日で彫ってあげようといい、御丈二尺ばかりの正観
音を彫り上げ、布施も受け取らなかった。そして「我は汝の氏の
神であるぞ」というと行方がわからなくなった。
 松浦上人は春日明神の氏子であったことから、この像は春日の
御作と世に伝えられている。享保年中(1716)に知恩院大僧
正了鑑上人に寄付され、大僧正の郷里 峰村阿弥陀寺の什宝とな
った”と記されています。              

         阿弥陀寺






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