大航海時代


 十字軍以来ヨーロッパと東方世界の接触は活
発になり、ヴェネツイァを中止とするイタリア
諸都市の東方貿易は、大きな富と東方に関する
知識をヨーロッパにもたらし、ヨーロッパ人が
海を通じて外の世界に進出していきました。

<ディアスの喜望峰到達>
 大きな利益が得られるアジアとの貿易路はイ
タリアやイスラム商人の手に握られおり、アジ
アへ行く新しい航路を発見するために、未知の
海への探検が盛んに行なわれました。
 特にポルトガルはイベリア半島西部でいち早
くイスラム勢力を追放し、海外進出に積極的と
なり、熱帯地方の胡椒などの香辛料は莫大な利
益を生み出すことから、国王はパルトロメウ・デ
ィアスにアフリカ西海岸への探検を命じ、ディ
アスはアフリカ西海岸を南下し1488年アフリカ
最南端の喜望峰に到達しました。 

<バスコ・ダ・ガマのインド航路発見>
 ポルトガル国王マヌエル一世の命令を受けた
ガマは1497年7月、喜望峰を回ってインドに至る
航路を発見するため4隻の船、170人の乗員を率
いて出発、多くの困難に遭いながら1498年5月イ
ンドのカリカッタに到着しました。
 ガマはイスラム商人の妨害を受けながらも、少
しの香料、宝石を積んで1499年9月ポルトガルの
リスボンの港に帰りました。
 この航海は2年2ヶ月以上にも及んだ大航海で
100人以上の命が失われましたが、ガマが持ち帰
った胡椒は航海にかかった費用の60倍以上の値
段で売れました。
 -ポルトガルのアジア進出‐
 ポルトガルが東方貿易の利益を独占しようと
して、リスボンから毎年インドに船隊が送り出
されましたが、インド洋全体を支配しているイ
スラム商人と対立、1509年ディウ沖の海戦でポ
ルトガルの艦隊がイスラムの艦隊を破り、イス
ラム商人から、商業航路を奪いました。
                    (関連サイト・鉄砲伝来)
 ポルトガルは1510年インドのゴアを占領、東ア
ジアのモルッカ諸島にも進出、1543年には種子
島にも漂着し日本に鉄砲を伝えました。
 こうしてポルトガルはアジアとの貿易が大変
栄え、反対にこれまで地中海貿易で栄えていた
イタリアの国々は次第に衰えていきました。  

<コロンブスの新大陸発見>
 イタリアに港町ジェノバで生まれたコロンブス
は早くから船乗りになり、ポルトガルノのリスボ
ンで航海術を学び、トネカネリの地球球体説と西
回り航路による東洋到達の可能性を信じて、大西
洋横断の計画を立てました。
 航海には莫大な資金が必要となるため、コロン
ブスははじめポルトガル王に援助を頼みました
が断られ、スペインのイサベル女王の支援で1492
年8月、3隻の舟でスペインのパロス港を出航し
10月に入り、ついに陸地を発見しました。
 これはバハマ諸島のサンサルバドル島でしたが
、コロンブスはこれをアジアの島の一つと考え、キ
ューバなど周辺の島々を探検しました。
 コロンブスはその後1492年から1504年に亘って
4度の航海を行なって西インド諸島、パナマ沿岸を
探検、南アメリカの陸地にも足を踏み入れていま
すが、あくまでもこれをインドの一部と考えてい
ました。

  こののち別の探検者によりこれが「新大陸」であ
ることがわかり、その後多くの人々が「新大陸」に
行き、植民地にしていきます。

サンサルバドル島に上陸後原住民と会見する コロンブスの一行(テオドール・ド・プライの版画、1749年)

<マジェランと世界周航> ポルトガルの下級貴族の子として生まれたマジ ェランは西回りで新大陸を経てアジアに行く計 画を立てましたが、東南アジアの香辛料を求めて いたスペインのカルロス一世がこれを援助、1519 年9月5隻の船、265人の乗員とともにスペインの サン・ルカル港を出航しました。 途中嵐や船員の反乱などもありましたが、翌年 マジェラン海峡を発見、1512年フィリッピンに到 達しました。マジェランはここで紛争に巻き込ま れセブ島東岸のマクタン島で現地人に殺されま したが、部下のデル・カーノが生存者を指揮して 1522年にスペインに帰港し3年がかりで世界最初 の地球一周を成し遂げました。

マジェラン(マドリード・海事博物館蔵)

  トップページへ