第二十二番 村松山 金山寺(廃寺) 〜案内図はこちら〜
(現在 村松山 来光寺(浄土宗) 磯子区洋光台3−12−3)
ここもまた こがねのやまと きくからに
かのきしとても とうからぬかは
第二十一番阿弥陀寺を出て右方向に進み、バス通りの洋光台6丁目
信号を渡り、洋光台通りを直進して洋光台駅前郵便局の信号を右折、
次の信号を左折すると左側に二十二番札所来光寺が見えて来ます。
境内には来光寺と隣町の田中町から移ってきた薬王寺の二寺があ
ります。門を入って正面のお堂が薬王寺、右側のお堂が来光寺で、
安産子育ての観音様として有名な矢部野観音は来光寺にお祀りされ
ています。
この矢部野観音が二十二番札所の観音で、もとは今は廃寺となっ
た金山寺の本尊でした。
昭和四十年代に洋光台団地が造成され、地名も洋光台となりまし
たが、ここは古くから矢部野と呼ばれていました。矢部野の村落に
は無量山来迎寺(浄土宗)と村松山金山寺(浄土宗)がありました
が、明治初年の廃仏毀釈により両寺とも廃寺となり、両寺に祀られ
ていた仏像(来迎寺=阿弥陀如来、金山寺=聖観音)は矢部野の名主
であった内田家の石倉に預けられました。
その後村に疫病が流行しましたが、或る晩名主の内田平九郎さん
の夢枕に観音があらわれ「世に出せば村を守る」というお告げがあ
りました。内田さんは村人の寄進などにより来迎寺のあった場所に
二寺を合わせた寺を建てて村松山来光寺と号し両寺の仏像をお祀り
し、金山寺の聖観音を本尊としました。来迎寺の本尊だった阿弥陀
如来も堂内に安置されました。
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新編武蔵風土記稿の矢部野村の条には
金山寺
年貢寺、村の東にあり、村内来迎寺末、村松山と號す、是も住僧なく辻堂
にひとしき寺なり、本尊子安観音立像にて、長一尺八寸許、行基の作と云、
金沢札所第二十二番なり、堂大さ三間に三間半
と記しています。
土地の伝承では、観音像は矢部野村に住む人の先祖が背負い、各地
を巡礼して回り、房州からこの地にきて止まり、お堂を建てて祀った
のがはじまりといわれています。
来光寺本尊である聖観音(矢部野観音)は午年に御開帳するのみで、
普段は拝観できません。横にお前立ちの子安観音が安置されています。
一方来光寺については、同じく風土記稿には次のような記載があり
ます。
来迎寺
年貢地、村の南寄にあり、浄土宗松本村正覚寺末、無量山寿経院と號す、
開山僧覚梵と云、今住僧なければ尋問に由なし、本堂三間に三間半、本
尊弥陀を安置せり
もとの札所であった金山寺跡へは、来迎寺から左方向に進み右折して
「洋光台第一小」の信号を右折し、四つ角の先の道を左に進み、金山
神社の前を通り過ぎ、さらに進むと人家の前に小さな石段があり、石
段を上ったあたりが金山寺の故地と考えられています。
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