2006年9月議会
2006年9月25日定例会会議録より

議員定数削減は、
議会制民主主義と市民の生活をおびやかします!

●山田 厚君 甲議第11号 甲府市議会議員の定数を定める条例の一部を改正する条例制定について、反対の立場から討論いたします。
 提案者の方々の論拠をお聞きしますと、一つは全国の自治体議員定数の現員の状況を見ても、今や議員定数の削減は時代の趨勢であるとする時代の趨勢論。もう一つは、危機的な地方財政、多様化する行政需要など、行政改革の取り組みは議会にも当てはまる問題であるとする、議会と議員のコスト論です。
 そもそも自治体の議会とは何か、議員とは何かの問題になるかと思います。議会は、行政機関ではありません。市民の声を反映させるための市民の代表機関であり、市民の意思決定機関であります。自治体議員は、市民の声を反映させる代表者たちです。本来、民主主義の基本を考えれば、直接民主主義、直接市民が行政に、その意思決定に参画すべきです。しかし、現実的には不可能なるがゆえに代表制があると思われます。
 自治体の機能の基本は、住民自治です。それを保障する制度として自治体に議会があり、議員がある。私たち市町村議会は、最も市民に身近な議員として、市民のさまざまな声を行政に反映させ、行政をチェックしていかなければなりません。議員の力が弱かったり、議会の権限があいまいであったら、それは行政の監視にはならず、むだな支出を強いること、チェックがなおざりになることだと思われます。
 もし、市民にとって行政のむだがあるとするのならば、市民生活への乱暴な状態があるとするのならば、それをとめたり、改善する機能があるのは、議会であり、見識ある議員の仕事ではないでしょうか。したがって、むだなのは議会や議員ではなく、むだをチェックするために、むだを少なくするために、有効な財政をしっかり使うために、議会と議員があるのではないでしょうか。議会が活発に機能していればいるほど行政のむだがチェックでき、むだを省き、そして必要な改善ができるのではないでしょうか。
 そもそも地方の自治の基本である議会と議員に、経営上に使われているコスト論が持ち込めるものでしょうか。安易に持ち込み、同じように使うのならば、私は間違いだと思います。しかし、残念ながら議会と議員へのコスト論は極めて盛んです。議員の数は少なければ少ないほどいい。まるで議員はむだな贅肉を落とすように言われているのではないでしょうか。その雰囲気の根っこには、明らかに議会と議員への軽視、蔑視、どうせ遊んでいるんだからというような誤った偏見があるのではないでしょうか。これも時代の趨勢かもしれません。しかし、この時代の趨勢は自然にできたものではありません。10年ほど前の国の地方行革指針があり、それをワイドショーなどの一部マスコミが広げたと思われます。
 そもそも近代の歴史において、先達の皆さんが戦後ようやっと勝ち取った地方自治であり、議会制民主主義であり、それを保障する普通選挙制度ではありませんか。普通選挙には2つの権利が保障されていなければなりません。一つは、選挙をする権利、選挙権。もう一つは、候補者となり、議員となるための権利である被選挙権です。戦前のように、女だからだめ、税金をしっかり納めない普通の貧乏人はだめ、候補者にもなれない、選挙もできない、こういったことでは全くの間違いです。
 主権は国民にあります。こういった国民に基盤を置かない議会とは、戦前のように国の議会であろうとも、軍国主義という時代の趨勢に飲み込まれ、時代の趨勢に物も言えず、そして、国の議会であろうとも、議会そのものが時代の趨勢に押しつぶされていったではありませんか。
 しかし、一連の私どもにある議員定数の削減も、同じ危険な傾向があるのではないでしょうか。自治体の議員、これに定数を重ねれば、定数の削減を重ねれば重ねるほどいいという議論。これは結局のところ被選挙権の行使が迫害されるものです。例えば、私どもの甲府市議会が、38名から32名になると、その削減率は16%にもなります。これを単純計算して比較すると、前回1,500票で当選できた議員さんが、今回は1,800票取らなければ当選できないことになります。
 問題は、一人ひとりの議員の当落のことを言っているのではありません。1,600票の声、1,700票の声、それも届かず死に票になるということ。これは贅肉のむだなものをカットすることではなく、少数精鋭の決意の問題ではなく、大切な市民の声とその代表者の一人ひとりを失っていくことになりかねないということであります。結局、選挙に勝てる人は、有力な人、資産家の人、大きな団体の丸抱えの人でなければ、普通の市民は、選挙にも候補者にもなれない状態になっていくのではないでしょうか。
 市民にとっては、身近な候補者の選択ができなくなり、市民からのさまざまな要望や声が、ささやかな願いが、使いものにならなくなってくることではないでしょうか。しかも、議会と議員のコスト論とは、しっかりした論拠がありません。それだけに突き進めば、議員定数は32名でなくてもいいし、そのときの時代の趨勢によって38名でも20名でも16名でも、場合によったら12名でもいいことになりかねないのではないでしょうか。
 私は、この問題は、市民生活が脅かされるのではないかと危惧するものです。市民生活に直結するさまざまな声を、感覚的にも受けなければいけないさまざまな議員、これがいなくなるということは、結局市民生活に対する政治的な感覚が鈍くなっていくのではないでしょうか。
 例えば、今回の障害者自立支援法で、中央官僚の人たちは、障害者の方々に1割負担の導入を入れました。中でも非常に疑問なのは、車いすや義足、義手といった、こういった補装具でさえ、今まで購入したときに援助していた現物給付方式をやめ、そのときに必要な補装具を買う全額を、一たん障害者が全額払って、それから障害者が申請して、ようやっと援助金がくるという、そういった償還方式を持ち込みました。これは非常に障害者にとって負担だと思います。
 甲府市は今までどおり、ありがたいことに、現物給付方式を継続してくれています。これも、自治体と議会が、また一人ひとりの議員が会派を超えて、中央官僚とは異なる健全な市民的感覚、「それじゃあひどいよね」といった市民感覚があるんじゃないかと、私は思うわけです。市民感覚を持つためにも、多様な階層、いろんな地域から多くの議員さんがいることが、私は議会の活性化と議会の力につながるものだと思います。
 今後、議会の弱体化を許さないためにも、議会の軽視を許さないためにも、さまざまな市民の声を受けた、さまざまの代表者を失わないためにも、だからこそ、普通の市民の生活を守る代表者のためにも、間違った時代の趨勢に乗らず、議員の定数削減に、私たちは今後とも反対していくつもりです。
 以上です。