任務二日目――。
 教室に入ってきたノエルと理理の姿をみた女生徒達は、揃えて「ごきげんよう」と挨拶をしてきたが、それ以上の会話と言えば、精々が天気の事か、公用に基づく連絡ごと程度だった。
 結局、予鈴直前になって、早朝のレッスンを終えた雪野が現れるまで、理理に話しかけてくる者は皆無であり、彼女がクラスで浮いている存在だと言う事を、ノエルは改めて実感した。
 なお、教室におけるノエルの席は、理理の真後ろで、授業中、意識の大半は彼女とその周囲の観察に向けられており、授業そのものに対して向けられている意識は一割にも満たない。
 授業中の教室は、さすが天下の名門校と言えるだけの事はあって、皆が真面目に教師の言葉に耳を向け、真剣にノートを取っている。
 あの理理ですら、それは例外ではない。
 そんな彼女らしからぬ真面目な後ろ姿を眺めながら、ノエルはそっと考える。
 理理を狙っている者がどの様な存在なのか? またその理由は何なのか? 今だノエルには判らないが、単なる営利誘拐程度の危険であれば、彼女に任務が言い渡されるはずがない。
 であるなら、敵は個人やチンピラ崩れではなく、もっと強大な組織的なもののはずだ。
 目的も手段も、そしてその理由も判らない今、ノエルの出来る事は、障害となりうるあらゆる物から理理を護る事だ。
 しかも、理理には自分の正体を感づかれない様に。
 貴女……随分目立ってる――ふと、D1の感情の乏しい声が脳裏に蘇った。
 そうかもしれない――ノエルは自虐的に微笑み素直に認め、そしてそんな自分に驚いた。
 ――私……何か変だ。
 だが、そう自覚しても、それが悪い気分にはならなかった。
 つい昨日は、不慣れな任務と、理理の天真爛漫さが爵に触り、気分を害していたというのに、今はさして気にならない。
 不安を誤魔化すべく意識的にそう思うようにしていた前日と異なり、今のノエルは、純粋に任務を遂行する事を考えられる。
 では彼女をそうさせたのは何だろうか?
 同年代の娘達と過ごす学園生活が、彼女を変えたのか? 否、そうではない。
 ノエルは周囲の少女達など、単なる背景程度でしか認識しておらず、であるならば影響を受けるはずがない。
 彼女が変わったのは、他でもない。
 天崎理理によるものだ。
 初めは気に障るだけでしかなかった彼女の笑顔が、今はむしろ大事な物に思えてくる。
 ――これは、何?
 昨夜までノエルの心を蝕んでいた不安とは異なる、別の知らない感情が彼女を惑わせている。
 ノートを抑えている左手の小指に目がとまる。
 ファンシーな犬の絵がプリントされた絆創膏が、慎ましげに張られている。
 ペンを置き、右手で撫でるように触れる。
 痛みはもう無いが、今朝、そして昨夜、その指を包んだ理理の唇の感触が思い出されて、ノエルは咄嗟に顔を赤らめた。
 ――私は……何を考えてる。
 ふと、目の前で微かに揺れる栗色の髪の毛を見つめる。
 如何にもインテリ風の女教師が、黒板を軽く叩きながら伝える要点を、一生懸命覚えようとしている理理の後ろ姿が目の前にある。
 ――難しい事は考えなくていい。
 ――ただ、守ればいい。
 ――敵が誰であろうと、理由が何であろうと、私が私の命に替えても守り抜く。
 左手で右腕のグルヴェイグを確認すると、ノエルは再び周囲の警戒に意識を向けた。






■ N o e l /l e o N #11






 世の学園において、もっと活気が付く時間が昼休みであるのは、アーデルハイドと言えども同じ事だ。
 生物としての生理的欲求に関わる部分だからとか、そういうご大層なものを考えなくとも、授業という抑圧された時間を連続して過ごす学生にとって、もっとも開放的になれる時間なればこそ、昼休みは皆から愛される。
 全寮制のアーデルハイドでは、基本的に全ての生徒の昼食はカフェテリアになるので、昼食時は非常に賑やかだ。
 勿論、皆は節度を持っている上に、生徒執行部の怖いお姉さま方が睨みを聞かせているので、度を外して騒いだり、上品な立ち振る舞いを失う者も居ない。
 だが、どんな場所にも例外は居るものだ。
「へっへっへっへっ」
 お嬢様という認識を改めさせるに十分な声で笑う理理。
「何だか今日はいつもに増して嬉しそうじゃない?」
 流石にノエルよりも付き合いの長い雪野は、そんな理理の態度も慣れたものだ。
「何しろ朝食がS定食だったものから、今日はこの瞬間の為に生きてきたものよ。ね、ノエル?」
「え?」
 突然、同意を求められて、ノエルは困惑する。
 私はそんな事無い――という言葉が出そうになったが、見つめる理理の目が「裏切る気?」と無言で訴えているように思えたので、素直に頷いておいた。
 そんなノエルの反応に満足したのか、理理は「うんうん」と頷いてから、嬉しそうに食事に取りかかった。
「何というか……理理に食べられる食材は幸せね」
 食べられる側に、幸福感などあるのだろうか? 一瞬、そんな事を頭に思い浮かべたノエルだったが、当然口には出さず、黙々と食事を進めた。
「……そういえば、明日は土曜日だけれども、雪野はやっぱりレッスンなの?」
 今回もノエルには信じ難い量の食事を終えて、満足げに食後のエスプレッソを頂いている理理が尋ねる。
「その予定だけれど……何?」
「最近、雪野ってずっとレッスンばかりで大変そうだから、たまには息抜きにでも出掛けた方が良いんじゃないかしら……って思ったの。それに……」
 そこまで言うと、理理は顔を雪野の耳にそっと近づけて、小声で話しかける。
 どうたらノエルには内緒にしておきたい話の様だ。
「そうね。そういう事なら……何とかしてみるわ」
 言葉を聞き終えた雪野が、母親の様な笑顔で答えると、理理は心底嬉しそうな表情を作って、ウインクと共に「有り難う雪野っ」と言った。
「あ、それなら今日の放課後も手伝って……って、今日は無理だよね?」
「そうね。レッスンあるから」
「やっぱり疲れてない? 本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。それに今日は面会だし……」
「あ、そうなんだ。お兄様がいらっしゃるのね?」
 理理の言葉に、雪野は笑顔を向けて頷いた。
「お兄様?」
 黙って二人のやり取りに耳を傾けていたノエルが、そっと呟く。
「雪野にはね、素敵なお兄様が居るの」
「素敵なんかじゃないわよ。ずぼらでいい加減なんだから……」
 言葉とは裏腹に、口調や表情から嬉しさが滲み出ている雪野を見れば、自分にとって大切な兄である事が伺える。
 全寮制のアーデルハイドにおいては、火急の用や長期休暇で無い限り、家元へ戻る事は出来ない。
 であるから、普段の家族での対面は、肉親からの面会という形で行われる。
 勿論その頻度は人によって異なるが、雪野の兄の場合は定期的に面会に訪れており、その事実を知る者であれば二人の間柄の親密さが伺えよう。
 思わず、ノエルは脳裏に裕樹の顔を思い浮かべてみた。
 悪戯っぽく口元を歪める兄の顔。
 世間一般の美的感覚から見れば、まぁ悪くないレベルだろうが、それで素敵な兄だと言えるかどうかは微妙なところだった。
 もっとも彼には「頼れる」という言葉こそあれ、「素敵」という言葉で賞賛すべきで相手ではない。
「そう……」
 ノエルの素っ気なく返答を気にすることもなく、理理はそのまま話題を続けた。
「ノエルにもお兄様が居るのよね?」
 転入挨拶に”同席する予定だった”理理は、ノエルの兄が居る事を知っている。
 もっとも遅刻したので実際に顔を見た事は無いが……。
「面会には来られるのかしら? ねぇノエル、もしそうならご一緒させてね」
 自分だけが一人っ子であるという寂しさを若干感じたのか、理理は紛らわす様に空になったカップを持って立ち上がると――
「あ、私ちょっと、お茶のお代わり貰ってくるわね」
 と言い残して、席を離れていった。
 理理が自分の近くから離れて行動する事は、ノエルにとって好ましくない。
 かと言って、べったり付いて行くには秘匿性に問題が生じる。
 だからノエルは、理理の姿をじっと目で追い続ける。
 そんな事情を知らない雪野には、ただノエルが理理の事を大事に思っている様に見えた。
「吉川さんって、本当に理理の事を大切に思っているのね? それは親戚としての愛情かしら?」
 ふと、雪野にそう声をかけられ、ノエルは僅かに眉を寄せ――
「そうね……」
 ただ、そう短く答えた。
 ノエルとしては、それで会話が途切れる事を望んだが、雪野は身を乗り出してノエルの顔を覗き込むようにして再び声をかけた。
「ねぇ吉川さん……貴女にとって理理は何かしら?」
 そう尋ねる雪野の口調には、追及も妬みも感じない。
 ノエルはこの時初めて、彼女の顔を間近に見た。
 顔だけでなく、身体全体が細い。
 多少痩せすぎと言ってもいいだろう。
 白く細い腕の先、か細いしなやかな指は、いかなる音色を奏でるのだろうか? 今だ、彼女の演奏を耳にしていないノエルのは判らない。
「理理は……」
 何と言うべきか? 警護対象?――それが真実だが、そんな事は口が裂けても言えない。
 遠い親戚――それが設定。だが、そう答えるのも、彼女の問い掛けの答えには相応しくない様に思える。
 では、友達――今まで用いた事の無い言葉で、ノエルのは今ひとつ感覚が判らない。
 と、そこまで考えて、自分が余計な事を考えていると知ったノエルは、結局答える事はせず、そのまま口を噤んで雪野へ向けていた視線を理理へと戻した。
「”理理”と呼ぶようになったのね?」
 椅子に座り直しながら、雪野が呟く様に尋ねた。
 ノエルは見ていなかったが、この時の雪野の表情には、満足げな笑顔が浮かんでいた。
「彼女が……理理がそう望んだから」
 目線と意識は理理に向けたまま、ノエルはそっと答えた。
「そうなの……そうか」
 どこか安心した様な口調。
「それがなにか?」
 意図的に会話を避けていたノエルが思わず聞き返したのは、話の内容が理理の事だからに他ならない。
「あの子のことを、理理と呼ぶ人間は、少ないの。とても」
 ふと、雪野の目が陰る。
「どういう意味?」
 理理の姿を追い掛けつつ、ノエルは雪野の顔にも目を向けた。
 雪野はわずかに目を伏せつつ、どこか儚げな笑顔を向けて口を開く。
「どういう意味でもなくてよ。ただ、私はあの子を理理と……ただの理理と呼んでくれる人が増えたのが嬉しい」
 そう言えば、理理も――今朝、大げさな程に喜んでいた事を思い出す。
 たかが呼び方一つ変えただけで、何を大げさな――そう思いつつも、自分を今”ノエル”と呼ぶ者が、理理以外に二人しか居ない事に気が付いた。
 一人は言うまでもなく兄の裕樹だ。
 もう一人は、上司に当たるエンダーだが、彼がその名で呼ぶのはあくまで面と向かった時だけだ。
 彼女の生活は、ノエルとして居られる時間よりも、レオンとして活動する時間の方が長いという事なのだろう。
 だが、そうだとしても、自分がノエルと呼ばれる事を嬉しいと思うか? と考えれば、そうは思わない……否、思えない。
 誰も今までそう呼ばなかったから、判らない。
 あと一人、ノエルをその名で呼ぶ者が”居た”。
 だが、その者はもうこの世には居ない。
 彼女が――その者が血溜まりの中に沈み込む様に倒れながら息絶えて行く様を、ノエルは見届けたのだ。
 ふと自分が余計な事を考えていると自覚したノエルは、思考を終了して意識を戻す。
「でも……貴女も、理理と呼んでいるでしょう?」
「ええ、呼んでいるわ。ただ……」
 雪野が伏し目がちに話し始めたその時、理理がソーサーを落とさない様、必死にバランスを取りながら戻ってきた。
 そんなに目一杯注がなくてもいいだろうに――何とも危なっかしい理理の姿に、ノエルは思わず身構える。
 ノエルの心配そうな視線が、自分の背後に向けられている事に気が付いた雪野は、言葉を止めて振り返る。
 その直前、周囲の喧噪に紛れてノエルの耳には届かなかったが、彼女はこう呟いていた。
 
「ただ……私は、そう長くここには居られないと思うから……」

 初夏の穏やかな陽光を受け、午後の時間はゆったりと流れて行く。
 やがて訪れるであろう荒波も知らず、今のアーデルハイドは、ただ平和な空気に包まれている。
 世界の全てが、順風満帆であるかのように。

 少女達の笑顔を詰め込んだ宝石箱は、今だ汚れを知らず、陽光を受けて輝きを放っていた。



続く>

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