「というわけだから、朝寝坊なんて以ての外……って言ったのよぉ」
 食事を目の前していると言うにも関わらず、理理の表情はげっそりしている。
 その理由は何となく理解できたが、同じ立場にあるノエル自身にもそれが当てはまるか? と言えばそうではない。
 理理も含めた周囲の女生徒達の一部をここまで落ち込ませる原因は、彼女達の目の前に鎮座する朝食だ。
 トレイに乗せられたスープ皿の中には、深い緑色をしたゲル状の物体が注がれている。
 その他の小皿に乗っている物も、似たり寄ったりだ。
 オートミールや野戦用の栄養補給食の類である事は、その香り――というよりも臭いから、食すまでもなく伺い知れる。
 スプーンで中身をすくい口に運び、数度咀嚼してから飲み込む。
 なるほど。確かに料理としては最低のレベルだ――と、ノエルとて思う。
 しかし、栄養補給材として考えれば、バランス、消化共にこれほど完璧な物も無かった。
 実際に任務中に似たような物を口にする機会も多い上に、サバイバル訓練を受けたノエルにとっては、どちらかと言えば馴染み深いものだ。
 だから躊躇する事なく、顔色一つ変えずに食事の動作を続けられる。
「食べないの?」
 ふと視線を感じて、目の前の理理に問い掛ける。
「はぇ〜……ひょっとして美味しいの?」
 ぽかんとした表情で尋ねる理理。
「美味しいか? と聞かれれば、美味しいとは言えない。でも栄養補給という概念から見れば嫌いじゃない」
 水だけで一週間以上耐え抜いた事もあるノエルにしてみれば、それは本心からの言葉だ。
 だが、そんな経験はおろか、多少の空腹にも根を上げる理理にしてみれば、素直に同意出来るものでもない。
「そりゃ、そうなんだろうけどさ……」
 彼女は手にしたスプーンで皿の中身をつつきながら、近くのテーブルで美味しそうに焼きたてのロールパンを口に運んでいる女生徒を、心底うらやましそうに見つめている。
 やがて覚悟を決めたか、もしくは諦めたように、一度溜息を付くと、弄んでいたスプーンを口へと運んだ。
「うぇ」
 何とも行儀の悪い言葉を平然と口にして、理理は食事を続けた。







■ N o e l /l e o N #10










「私、思ったの」
 学校へ向かう道すがら、ノエルの真横を進む理理が、唐突に口を開いてそう言った。
「何を?」
「この学園の学費って多分相当高いと思うのよ。にも関わらず、あんな食事が出てくるというのは、学園経営者側の学費横領や不正使用があるんじゃないか……って」
 それはさぞ壮大な被害妄想だ――ノエルはそう思ったが、口に出しては「そう?」とだけ、答えておいた。
「だって考えてみて? あの食事……S定食の原価って幾らだと思う? 大量生産され、なおかつ作り置き。明らかに他の物より安価のはずだわよね。ああ、私はとんでもない事実に気が付いてしまったのかしら。ねぇ、これは何処かに訴えるべきかしら? 警察? 教育委員会? 文部省? 日本広告機構かしら?」
 食べ物の恨みは恐ろしいという言葉を思い出したノエルが、何かを言っていさめようとした時、背後に近付いてくる足音に気が付き、そちらへ意識を集中する。
「おいおい、幾ら何でも言い過ぎじゃないか?」
 この学園に来て初めて聞く男の声に、ノエルの視線が険しくなる。
「あ、越智先生……ごきげんよう」
 立ち止まって笑顔で振り向く理理に釣られ、ノエルもまた振り向いた。当然無表情だ。
 年の頃は二十台中盤から後半といったところか、スーツに身を包んだ越智と呼ばれた男が、にこやかに微笑んで立っている。
「おはよう、天崎君。それから……そちらは?」
 理理に挨拶を返した越智が、視線を横のノエルへと移す。
 その視線と問い掛けに、ノエルはそっと会釈して「吉川です……ごきげんよう」と、事務的な口調で応じた。
「ああ、君が転入生の? なるほど、貴子姫が言った通り、綺麗な子だね。僕は越智一哉だ。数学の講師をしている」
 自分に向けられる好奇の視線が、ノエルの敵愾心を刺激する。
「……」
 ノエルが目を細めて沈黙を続けると、越智も居心地が悪くなったのか、ノエルとのコミュニケーションを断念して、再び理理へと視線を戻した。
「それにしても天崎君。さっきの言葉は良くないぞ。あんな台詞、貴子姫の耳にでもとまったら大変だ」
「あ、あははは〜」
 越智がおどけた表情で、笑いを交えてたしなめると、理理もばつが悪そうに頭を掻きながら笑って誤魔化した。
「……ん?」
 そんな理理を見つめていた越智が、何かに気が付いたのか? 腕を彼女の肩へと伸ばす。
 途端、ノエルの腕が勢いよく越智の腕を払いのけ、理理を自分の背後へと隠すように回した。
 その気になれば、その一瞬で彼の腕を切り落とす事も可能だったが、それをしなかったのはノエルの慈悲に過ぎない。
 だが、彼の手が理理に触れる事は、その慈悲に含まれていなかった。
「……っ?」
 払われ痺れる手を、もう片方の手で抑えながら、呆然とする越智。
 そして、突然の反応に驚く理理。
 寮と学園を結ぶ通学路であるから、当然周囲には別の生徒達も居り、彼女達も突然のノエルの行動に驚きを隠せない。
 だが、そんな周囲の視線を気にする事なく、ノエルは真正面から越智の目を直視しする。
 ややおいてから――
「失礼しました。急に手を伸ばされたものですから、驚いてしまいました」
 多少無理がある理由ではあるが、ノエルは謝罪を口にして僅かに頭を下げた。
 地面に目を向けていたノエルの意識が、また近づく別の存在を捉える。
「いいえ、吉川ノエル。おまえは謝る必要ななくてよ」
 視線を向けなくとも、その声の主は特定できる。
 小日向貴子――学園長の姪にして、執行委員長を務める本学園のクイーンの登場で、周囲の生徒達が安堵の声を漏らす。
「……越智先生の行為こそ軽はずみだったのだから。吉川ノエル、それから天崎理理、ごきげんよう」
「ごきげんよう。貴子お姉さま」
「……ごきげんよう」
 理理とノエルが揃って会釈を返すと、貴子は二人にそっと微笑み、そして越智に対しては棘のある視線を向けた。
 越智は貴子に促されるような形で、慌てて頭を下げる。
「ああ、そうだ。こちらこそ失礼。女性にいきなり触れようとするなんて、マナー違反だったね。ただ、一言弁明をさせて貰うなら、天崎君の肩に糸屑が付いているのが気になってね。すまなかったよ」
「あらら」
 間の抜けた声をあげて、理理は自分の肩から糸屑を摘み上げた。
 理理の言葉が合図となって、止まっていた時間が動き出すと、周囲の女生徒達もそれぞれ歩みを再開した。
「天崎理理、今日も遅刻はしなかったね。とは言え、気を抜かずにしっかりと勉学に励みなさい。では二人とも、ごきげんよう」
「それじゃ……僕も失礼させてもらうよ」
 貴子が颯爽と歩き始めると、越智もまた並んで学園へ向けて歩き出した。
 並んで歩く二人の背中を見て、ふとノエルは気になった事がある。
 まず一つは貴子の事。
 彼女は周囲の生徒達の意識を常に引きつけていたが、今朝はどうもその影響力が小さく思えた。
 実際、彼女に話しかけようとする者の姿が見えない。
 次に越智の事。
 背後から見る限り、並んで歩く二人の距離には、通常の生徒と教師とは異なる雰囲気が感じられるのだ。
 最後は理理の事だ。
 先程まで……越智に話しかけられるまでの、理理とは雰囲気が異なってしまった。
 まるで心此処に在らずといった感じで、おぼつかない視線を、先を進む二人の背中に送っている。
 そんな理理を見て、ノエルの心がちくりと痛む。
 正体が判らぬ不安と共に感じる微かな痛みに、ノエルは意識せず理理の手を取った。
「あっ」
 驚いた様に小さく声を上げる理理。
「学園、行きましょう……理理」
 いつもの無表情なノエルの顔だったが、理理には彼女が寂しがっている様に思えた。
「うん。行きましょう」
 だから理理は元気づける様に笑顔を浮かべて頷き、彼女の手をしっかり握り返した。
「初めてだね……」
 暫く歩いてから、理理はそっと切り出す。
「何が?」
「ノエルから手繋いでくれたの」
 理理の言葉に、ノエルは初めて自分の行動に気が付き、そして無意識にそんな真似をした自分に驚いた。
 無言のまま理理の顔を見つめると、彼女の笑顔に顔が熱くなってゆく。
 そしてそんなノエルを見て理理は、意味ありげに笑うのだった。
「うふふふふふ」
「そ、そんな事より……あの二人……ちょっと変」
 理理の意識を逸らそうと、ノエルは咄嗟に先程気に掛かった事を尋ねた。
「ああ、あのねノエル。あの方々は特別なの」
「特別?」
「そう。婚約なさっているのよ。来年の春、お姉さまがご卒業されたら、すぐにお式を挙げるんですって。そして、お二人でシカゴに留学されるの。もう何人かの生徒の家には、披露宴の招待状が届いているのよ。だからあのお二人の仲は公認って事」
 理理の説明を聞いて、ノエルは先程の三つの内二つは納得できた。
 では残りの一つ、あの二人の背中を見つめていた、理理のおぼつかない視線の理由は? ――ノエルが残された疑問を考えている合間も、理理の話は続いていた。
「……貴子お姉さまはが素敵なのは当たり前だけれども、越智先生もとても優秀な研究者で、本来なら講師などなさる方ではないの。だけど、貴子お姉さまのために、今年の春から貴子お姉さまが卒業される来年の春までの間だけ、この学園で特別に授業を持って下さっているの」
 ノエルは本能的に越智が好きになれなかったが、理理の話を聞く限り、生徒達の評判は悪くなさそうだった。
 そして、そんな話をしている理理の顔は何処か誇らしげで、先程見せた儚さは感じさせない。
 ちくりと、ノエルの胸が微かに傷む。
 まただ――先程から感じる正体不明の痛みに、ノエルは顔を僅かにしかめ、裕樹に連絡を入れて、診断を受けるべきだろうか? ――と頭を少し悩ませた。
 しかし、そんなノエルの悩みも、理理の手から伝わる暖かさに徐々に消え失せ、学園にたどり着く頃には、綺麗に消えていた。





続く>

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