鉛色の空の下を、黙々とした人々の黒い列が続く。
 長い長い葬列が向かうその先に、私のママの骸が横たわっているはずなんだ。
 当時はちゃんと「お別れ」出来なかったから、今一度チャンスが欲しい。
 でも、今日も私の身体は意志に反して列を離れると、今までと同じように、植え込みの奥へと入って行く。
 そしてまた意味のわからない同じ会話を聞かされ、無性に気分が悪くなる。
 元々強くない――手術を終えて間もない心臓が痛み出す。
 胃液が逆流し喉を焼く痛みに、身を屈める。
 会話をしていた男の人達が私の事に気が付き、何やら捲し立てている。
 当時の私は怖くて仕方が無くて……それで、また更に嗚咽を繰り返したんだ。
 ペットがどうのと話をしていた男の人の片割れ――黒澤さんが、私に手をさしのべてくる。
 あんまり好きでは無かった人だけど、知らない人じゃない。
 ママとよく一緒に居て、何かの研究をしていた人。
 パパに教えて貰った屋根裏の秘密の場所から、ママに怒られているところも見たことがある。
 私もよくママに怒鳴られてたから、だからほんのちょっぴりだけ、親近感も湧く。
 だからだろう……無意識に手を伸ばし、その手にすがったのは。
 でも手に篭められた力が痛くて、思わず泣き出したんだ。
 今の――十六歳の私にも、彼の力は痛く感じる。
 ふと目が合った。
 涙に濡れた目で見上げる私と、何処かは虫類を思わせる目が交叉する。
 暖かみが感じられない目。
 やっぱり好きになれない。
 六歳の私が必死に「痛い」懇願すると、やがて彼の目に、哀れみ――いや、見下した様な色が浮かび、手の力を弱めてくれた。
 それじゃぁ行こうか――黒澤さんがそう言って、私を引っ張り歩き出す。
 嫌だ。
 この手に伝わる感触が嫌だ。
 私が欲しているのは、こんな冷たい手じゃない。
 再び気分が悪くなり、胃液が込み上げてくる。
 ――吐きたくない。
 ――怒鳴られたくない。
 ――いい子にしていたい。
 でも、そんな私の努力を嘲笑うかの様に、黒澤さんは口元を歪めて、ペースを緩める事なく歩を進めて行く。
 心臓が破裂しそうな勢いで不規則な鼓動を奏で、胃液が体内で暴れ回る。
 もう駄目だ――と思った時、ふと頭を優しい風が撫でた。
 瞬間、周囲の景色が激変した。
 光が溢れ出し、周囲の景色が溶け込んで行く。
 鉛色の空が吹き飛び、何処までも蒼い空が一面を覆い尽くし、眩いばかりの陽光が周囲を照らす。
 陰気くさい喪服の人の群れが消え去り、色とりどりの花々へと取って代わった。
 嫌でたまらなかった手の感触も消え失せ、ふと視線を動かすと、黒澤さんの立っていた場所に一人の少女が立っていた。
 少女と言っても、六歳の私から見たら大きなお姉さんだ。
 丁度逆光を受けて、その表情は伺えないが、穏やかな風に揺れている菫色の綺麗な髪の毛には見覚えがある。
 そう――私はこの人を知っている。
 お姉さんがそっと、手を私に向かって差し出してきた。
 私は黙ってその手に、自分の手を重ねて、ぎゅっと力を篭める。
 何て気持ちが良いのだろう。
 密着した肌から伝わる柔らかさと暖かさに、思わず酔いそうになった。
 この手を伝わる感覚に、もっと、もっと溺れたい。
『理理……』
 心の奥まで響くような心地よい声で自分の名が呼ばれる。
 そして私は気づいた。
 私が待ち望んでいたものが、この手の暖かみと、優しい声だという事なのだと。
 だから私は最高の笑顔と共に、手を握る力を強めて応じた。
 何処までも続く蒼い空の下、私とお姉さんは、互いの体温を感じながら、何処までも何処までも歩いて行く。






■ N o e l /l e o N #09






 ”ジリリリリリリ”
 目覚ましのベルが室内の静寂を撃ち破る。
 時刻は七時丁度だ。
 陽光が差し込む部屋の中、既に身支度を整えたノエルは自分のベッドの上に腰を下ろしたまま、目覚まし時計の持ち主の反応を見守っている。
 三十秒ほどそのまま眺めていたが、持ち主は僅かに身じろいだだけで、目覚まし時計を止めようとする気配すら見せない。
 呆れたように――それでいて、何処か納得した様な表情でノエルは立ち上がると、理理の枕元まで進み、騒音としての意味しか持たぬ目覚ましのベルを止めた。
「天崎さん。時間よ」
 大きな声を出す事に慣れていないノエルにしては精一杯の大きさだ。
 だが、そんなノエルの地味な努力を無視して、理理は丸めたシーツを両足ではさみ、下着に包まれた可愛らしいヒップを惜しげもなくさらけ出したまま寝息を立てている。
 もう既に判りきった事とはいえ、当初抱いていたお嬢様のイメージとかけ離れている姿に、ノエルは改めて呆れ返る。
 かといって、このまま放置するわけにもいかない。
 ノエルにとって大切なのは、学校に行く事では無く、あくまで彼女を守る事にあるのだ。
「天崎さん」
 もう一度声を掛ける。
「……」
 対する理理は無反応。
 ノエルの周囲に居る者達は、その特異な仕事柄、例外なく寝起きがいい。(というよりも、そう訓練されている)
 また、たとえそうでなくとも、乱暴に起こせばいいだけの話だ。
 だが果たして、理理に対してもそういった行動に出て良いものかどうか、ノエルには判断出来なかった。
 おまけに、寝起きの悪い少女を起こす事など、今までの任務には一度も無かったのだから、力の加減がよく判らない。
 意外な窮地に、ノエルは額を指で押さえながら溜め息を付くと、理理が眠るベッドの上に腰を下ろし、剥き出しの肩へと手をかけて揺すってみた。
 やはり同僚を起こす時の様な、頬にきつい平手を加える手段は止めたようだ。
 ちなみに、ノエルは平手で人を殺める事も可能だ。
 何気に命拾いをしていた理理は、そうとは知らずに朝の微睡みに身を任せたままだ。
「天崎さんっ!」
 もう一度、今度は更に頑張って声を張り上げる。
「う〜ん……むにゃむにゃ」
 妙にわざとらしい寝言だが、世間の通例に疎いノエルには判らなかった。
「天崎さん起きて。時間よ」
 今度は更に身を乗り出し、両手を使って彼女の肩と腰に手を置き、同時に揺する。
 それでも大した反応を見せないので、両手の揺するタイミングをずらして、理理の身体全体にうねりを与えてやった。
「う、う〜ん……っ」
 流石に眠り続ける事が難しくなった理理は、身じろぎをしてみせた。
 理理の意識が覚醒したと判ったノエルは、手を身体から離して安堵の溜め息を付く。
 しかし、ふと目に付いた下着を晒したままの理理の姿が、何だか自分の事の様に恥ずかしくなって、慌てて布団を掛け直して隠した。
「あれ……まだ寝てても良いの?」
 ノエルの行動を親切心からの行為と勘違いしたのか、それとも寝起きのボケなのか、理理が間抜けな質問をする。
「駄目。起きて」
「今、何時?」
 枕に顔を埋めたまま、理理が尋ねる。
「七時よ。もう目覚まし時計は鳴ったわ」
「ねむい〜」
 非常な現実を突きつけられ、理理は不満そうな声を上げると、枕に擦り付けるように頭を動かした。
「……起きて、天崎さん。時間よ」
 何処か事務的な口調に、クリアになりつつある理理の意識が漠然とした不満を感じる。
 だから理理はノエルの言葉を無視する様に、布団を頭から被ってしまった。
「ちょ……天崎さん?」
 布団越しに、少し慌てた感じのノエルの声が聞こえてきて、理理には自分が感じている不満の理由を知った。
 それは彼女の事務的な口調ではなく、もっともっと単純な事だ。
「何で……」
 理理は布団の中で顔をしかめて呟く。
「え?」
 その呟きを聞き取れなかったノエルが聞き返す。
「夢の中では……」
「夢?」
「いや」
「天崎さん?」
「そんな風にノエルが呼ぶから……今日はもう、起きないことにする」
 理理は、布団の中から自分の不満を打ち明ける。
 夢で感じた心地よさを、現実のものとしたい――それは理理のわがままでもあったが、と同時に、ノエルの闇を払う為の、そして二人が家族となるための第一歩だと、彼女は信じていた。
 だが当然、ノエルにそんな理理の真意が理解できるはずもない。
「そんな風……って?」
 意味がわからないとばかりに尋ねてくるノエルの、理理は本気でヘソを曲げてしまった。
「遅刻したってノエルのせいなんだからね」
 彼女自身、無茶苦茶な論理だと思いつつも、ついそんな言葉が出てしまった。
「だから、起こしてるでしょう。ね……天崎さん」
「”天崎さん”……それ。それよ」
 困り果てたノエルの言葉に、理理は遂に問題を指摘する。
 ノエルは大きな瞳を幾度か瞬かせ、布団の中から聞こえてくる理理の寝ぼけ声に耳をすました。
「そりゃー私は、天崎さんだわ。天崎さんだけれども……」
「なに?」
 今だ、彼女の真意が掴めないノエルは素直に聞き返した。
「……」
 だが、理理は直ぐに答えない。
「天崎さん……起きてる?」
 続く沈黙に、理理がまた寝てしまったと考えたノエルが再び声をかける。
「理理っ!」
 突如、布団の中から発せられた大きな声に、ノエルは思わず身を竦めた。
「え?」
「だから私の事は理理って、名前で呼んで欲しいの」
 夢の中みたいに――最後は呟きとなって、ノエルの耳には届かなかったが、理理の言葉に彼女は驚き目を丸くした。
「この布団は私にとっての”天の岩戸”よ。私に起きて欲しかったら……ちゃんと理理って呼んで」
 そう宣言すると、理理は身体全身を覆っていた布団を握る手に力を込める。
「……」
 ノエルは、一瞬理理が何を要求しているのか理解出来ず、無言になってしまった。
 そしてその無言の情況が、理理の心を圧迫しはじめ、急速に彼女の心が不安で塗りたくられる。
「……呼んで欲しいのよ。子供みたいなこと言ってるって自覚はあるの」
 布団に覆われた理理の身体が震えるのを、ノエルは見た。
「ずっと思ってたの。昨日、会ったときから……ずっと」
 理理の言葉がくぐもっているのは、布団の中という事だけが原因では無いだろう。
 告解にもにた言葉は続く。
「……でも、なんだか言いそびれて。……ごめんなさい。私何馬鹿なこと言ってるんだろうね。こんな言い方じゃノエルに悪いよね」
 何時しか理理の声は完全な鼻声となっていた。
 そして、そんな声を聞いたノエルの心に、またあの正体が判らぬ不安が渦巻き始める。
「本当は……もっと、もっとこう……『わたくしたちは家族なのだから、親しみをこめて名前で呼び合いましょう!』……って、言いたかった」
 理理の言葉を聞きながら、ノエルは無意識に左手の小指を右手で撫でて必死に考えていた。
 どうすればこの不安は消えるのだろう? ――と。
 ――呼び名など何でもいいではないか。
 ――ならば、逆に彼女の願いを聞き入れ、そう呼んでやるのも問題ない。
 不安の正体に気づかないノエルにとって、それは精一杯の理由付けだ。
 だが――
「……理理」
 僅かな躊躇いを含んだ口調で、そう名を口にしてみれば、何ともしっくりくる呼び名だった。
 まるで、最初からそう呼ぶのが当たり前だった様に、ノエルの心に染み渡る。
「え?」
 途端、布団が勢いよくはね除けられ、理理がベッドの上から起きあがった。
 目が赤いのは、やはり泣いていた証だろう。
 朝日を受けて目尻が僅かに輝いている。
 ノエルはベッドに腰掛けたままの姿勢で、理理の目尻に手を伸ばし指先でそっと拭ってやった。
「これからは……理理って呼ぶことにする」
 そう宣言したノエルの表情は、まだ無表情に近かったが、それでも彼女の心に自分の叫びが届いた様に思えて、理理の心は嬉しさに満たされた。
 理理の泣き顔が崩れてゆき和らいでゆくと、ノエルの心を覆っていた不安も消えてゆく。
 何だか判らないけど――ノエルは思う。
 私は……理理が微笑んでいると……安心するみたいだ――それが、今のノエルがやっと導き出した答え。
 二人は僅か十数センチの距離で見つめ合う。
「ふふっ……」
 ノエルの目と鼻の先で、破顔した理理の目から涙が溢れる。
「理理……また泣いてる。悲しいの?」
「ううん」
 頭を振って否定し、ゆっくりとした口調で続ける。
「そうやって……自然に理理って呼んでくれた事が、嬉しくて溜まらないの。これは……嬉しさの涙。私とノエルが一歩前に進んだ事に対する、私の嬉しさの現れ」
 再び涙を拭ってくれたノエルの左手を、理理は両手でそっと掴み胸元へと運ぶ。
「あ……」
 その暖かさに、ノエルは顔を赤らめて声を出した。
「ね、もう一度呼んで?」
「理理?」
 自分の名前にこれほど感激出来るとは思わず、理理はノエルの手を胸に抱いて身を丸めた。
 ノエルはノエルで、自分の手を包み込む理理の身体の感触に酔いしれそうになっていた。
「もう一度……いい?」
 面を上げない理理の、躊躇いがちなお願い。
「理理?」
 応じるノエの手を、理理は更にぎゅっと抱き寄せる。
 しかしすぐ「あ……」と言葉を漏らし、その手を解放した。
 一瞬、寂しさを感じたノエルは、咄嗟に否定し感情をコントロールする。
 だが、そんなノエルの努力も、左の小指を包む暖かな感触を受けて、あっという間に瓦解する。
 ほんの一瞬だったが、昨夜の様に、ノエルの小指を理理が口に含んだのだ。
「な、何?」
 顔を上げた理理は、満面の笑顔をノエルに向ける。
「おまじない。早く怪我が治る様にね。小指……大丈夫? 絆創膏替えよっか?」
 ノエルは赤くなった顔を隠す様に、咄嗟に背けて「い、いい」と答えると、自分の左手を右手で隠すように抱きしめた。
 理理には、そんな彼女の態度が嬉しくて仕方がなかったが、ノエルの方は多少気を損ねた様にそっぽを向いている。
「それよりも……時間いいの?」 
 自分を見つめる理理の視線に恥ずかしさを覚えていたノエルが、取り繕うかの様に時計を指さす。
「あっ! いけない。急いで顔洗ってくるわね」
 理理が慌てて身を起こし、バスルームへ向かって歩き出した矢先――
「わはぉっ!?」
 先程勢いよく放り出されたシーツに足が絡んだんだろう、理理は床の絨毯にキスをしていた。
 いかなノエルの反射神経をもってしても、彼女と床の抱擁を防ぐのは不可能だったが、今後の警護任務の為に、理理の鈍さレベルを上方修正しておく事にした。




続く>

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