■ N o e l /l e o N #08







 ノエルにとって全てが初めてづくしの一日が終わり、アーデルハイドの全女生徒達が眠りについた深夜。
 彼女は猫の様にしなやかな動きで音を立てずにベッドから出ると、そのままそっと化粧室へと向かった。
「レオンよりスタンスフィールド、状況報告」
 懐のPDAを操作してから、そっと小さな声で話し始める。
 チョーカーに組み込まれた小型マイクは、喉元に当てられている事もあって、僅かな声でも正確に拾い上げてくれる。
『やぁノエル、いい夜だね』
 程なくして耳にはめられた通信機を通じて、聞き慣れた裕樹の声が聞こえてくる。
 的違いな事を話す態度も相変わらずだ。
「定時報告……いい?」
『ははっ、随分真面目じゃないか? 授業中もそんな調子で優等生で居られたのかな?』
 裕樹の態度はいつもこんな感じだが、そんな慣れたはずの言い回しが、今日に限ってノエルを酷く嫌な気分にさせた。
 だからノエルは裕樹の軽口を無視して用件を伝え始める。
「……現時刻までのターゲットV1の安全は確保。D1との接触が今だ行われていない事を除けば現状で大きな問題無し。V1の交友関係者で注意すべき存在は松井雪野と小日向貴子。今後雪野はF1、貴子をF2と呼称する」
『つれないねノエル。初めての学校に通う妹を心配する兄の気持ちも察してくれないかな?』
「兄さんっ」
 ノエルが感情を微かに剥き出しにする。
『ははっ冗談さ。スタンスフィールド了解した。F2の事は既に調べてある。学園長の姪で、環太平洋地域の教育界を牛耳る小日向一族の期待の星だ。昨年には史上最年少で論文審査に合格して、アメリカの研究機関から、奨学金と将来のポストの予約席をすでに得ている。いわゆる超エリートだ』
「彼女、私の目を見て”死んでいる”と言った。”何処から来たのか?”とも尋ねられた。任務を感づかれたとは思えないけれど……」
『へぇ、面白い子が居たものだね』
「面白くなんか無い」
『冗談さ。ま、彼女の立場から考えれば、君の存在を訝しく感じるのも自然だろう。何しろここ数十年、アーデルハイドに途中転入生は一人も居なかったんだ』
「私も……そう思う」
『ま、注意はしておくように。それとF1に関してはこっちでも調べておく。では、レオンは引き続きV1の警護に当たれ。以上』
 軽口にコールサインを無視して本名――もっとも、それが本当の名前かどうかは本人にも判っていないが――を使った裕樹が、今更の様に口調を改めて命令を伝える。
「レオン了解」
 ノエルは短く答えてから、通信を切る為にPDAのスイッチへと指を伸ばした。
 だが、僅かに躊躇して指を止める。
「……」
『どうした?』
 普段であれば即座に切られる通信が、未だに維持されている事を疑問に思った裕樹が呼び掛ける。
「……授業は、数学で問題を解くように先生に当てられたけど解けなかった。でも英語とドイツ語は……発音が良いと誉められた」
『え?』
 突然の言葉に、裕樹は思わず聞き返す。
「だから……初めての学校の事。兄さんが聞きたいって」
 ノエルは意識せず、左手の小指に張られた可愛らしい絆創膏を、右手の指で撫でていた。
『ふははははっ』
「何?」
 笑われた事に腹を立てたのだろう。ノエルの口調には明らかな棘が含まれている。
『いや何でもない。ははっ……それじゃせっかくだ、兄から妹へ入学祝いを送る事にするよ。はははっ』
「……要らない」
 いつまでも笑い続ける裕樹に、恥ずかしさと苛立ちを覚えたノエルは、短く言い放つとそのまま回線を切断した。
 彼は何時でもそうだ。
 作戦中も非番の時も。
 何かにつけてノエルを困惑させる。
 だが、昔からそうだと判っているから、本気で腹を立てたりはしない。
 本当の兄妹や家族を知らないから、他とどう違うのか判らないが、それでも彼が自分を真剣に想ってくれている事だけは判る。
 まだ新人だった頃、作戦で失敗した自分を必死にバックアップし助けてくれたのも彼だ。
 上層部の叱責からいつも庇ってくれたのも彼だ。
 自分がオフェンス任務に専念出来るのも、彼のバックアップがあると信じているからだ。
 だから多少の軽口も我慢するし、時折自分に向けられる彼の視線に、冷たい何かが含まれている事も気にかけない。
 でも――ノエルは思う。
 何故だか、今日に限ってそんな兄の態度が気に障って仕方がなかった。
 僅かなむかつきを覚えながら化粧室を出てベッドへと戻ると、隣のベッドで寝息を立てる理理の姿へ目をむける。
 カーテン越しに差し込む僅かな月明かりが、静かに上下する布団を照らしている。
 ノエルは任務の特性上熟睡する訳にはいかないが、闇の世界に生きる者として、普段から熟睡した事など殆どない。
 それになにより、熟睡すると決まって悪夢を見る。
 そしてその内容はいつも同じだ。
 血まみれの女性が自分に向かって何かを呟く。
 女性の顔には見覚えがある。
 いや、忘れるはずがない。
 彼女は、ノエルの母親だ。
 正確には”母親の様な存在”に過ぎないが、他に家族を知らないノエルにとっては、母親と呼ぶべき人物だった。
 無機質な部屋の中、血溜まりに埋もれた彼女が、瞬きをしない淀んだ瞳を自分に向けつつ、苦しそうに呻くのだ。
 夢を見ている時、その言葉は確かに聞こえているのだが、目が覚めると何も覚えていない。
 ただ酷く不安になって、気分が悪くなって、自分という存在が虚ろな物に思えて心細くなる。
 その都度、裕樹に抱きしめて貰い、彼の身体と煙草の混じり合った臭いを嗅いで気を落ち着かせてきた。
 そんな弱い自分も嫌だったし、悪夢を見るのも嫌だった。
 だからノエルは熟睡するのが好きじゃなかった。
 ベッドに腰掛け、向かい側のベッドで眠る理理の顔をそっと覗き込む。
 ――きっと幸せそうな顔で寝ているのだろう。
 二十年前の戦争で爆撃すら受けなかったこの国の者達は、何の憂いも無く眠れる事がどれだけ贅沢な事か知らない。
 しかも天崎製薬という大企業の会長令嬢として産まれ育った彼女は、恐らく全てにおいて不自由の無い、恵まれた生活を送ってきたはずだ。
 だが、そう思って彼女の寝顔を見てみれば、彼女が守るべきお姫様の表情には、明らかな苦悶が見て取れた。
 顔にはうっすらと汗が浮かび、眉間には縦皺が刻まれ、固く閉じられた瞼は僅かに震えている。
「うなされているの? ……っ!」
 そんな理理の寝顔を見て、ノエルの心が掻き乱された。
 まただ――正体の判らない不安に心を悩ませる。
 理理の辛い表情が、何故自分を苦しめる? ――答えの見つからない問い掛けを、ノエルは頭を振って振り払う。
 溜息を付いて気持ちを落ち着かせると、ポケットからハンカチを取り出し、理理のベッドに静かに腰を降ろすと、そっと彼女の寝汗を拭ってやる。
 悪夢にうなされた自分が裕樹にそうしてもらう様に、ノエルは理理の頭を優しく撫でる。
 ノエルには、僅かだが理理の表情が和らいだように見えた。
 と同時に、自分の感じていた不安も和らいだ。
 その意味するところは判らなかったが、理理の布団を直してあげると、自分のベッドへ戻りその中へと実を横たえた。
 腰からレギンレイヴをシースごと抜いて枕の下に隠し、右腕のグルヴェイグの感触を確かめてから、ノエルは浅い睡眠へと意識を沈めてゆく。
 悪夢を見ないよう、何かに祈りながら――。





§






「――以上、現時点では特に問題は無く作戦は順調に進んでいます」
 裕樹の声が、多数の機材が目一杯積み込まれた移動指揮車の車内に響く。
 車内には他に誰もいない。
 対ジャミングや盗聴防止装備を詰め込んだ事で大げさなサイズになってしまった通信機の前、専用のシートに腰を下ろした裕樹が通話していた相手は、彼等実行部隊を束ねる男。
 本名かどうかは判らないが、彼は周囲からエンダーと呼ばれている。
 戦前から傭兵として世界の紛争地帯を渡り歩き、大戦中は国籍も人種もまちまちな傭兵共を率いて外人部隊を編成し、自ら先頭に立って欧州の戦線に参加していた生粋の戦争屋だ。
 敵軍に包囲殲滅されそうになった環太平洋機構軍の機甲部隊を、僅か一個歩兵中隊のみで敵を混乱させ友軍の撤退を成功させたり、現代では自殺行為に等しい空挺作戦を行って敵の拠点制圧に成功したりと、戦場で数々の伝説的武勲を立てた男だと言う。
 流石に老いた今では前線に立つ事は無くなったが、彼の戦術指揮官としての能力を高く評価した統合政府と新世界管理機構によって、エマノン創立の際に実行部隊の指揮官としてスカウトされ現在に至る。
 裕樹も流石に彼に対しては、軽口など挟むような真似はせず、要点だけを短くかつ正確に伝えた。
『了解した……』
 裕樹のインカムにエンダーの低い声が響く。
『あれは……レオンは上手くやれそうか?』
 やや間を置いてから発せられたエンダーの言葉には、任務に対する危惧というよりも、子の身を案ずる親の様な暖かみが感じられた。
「はい。今まで通りに」
 だが裕樹の方は、感情を表に出さない事務的な口調で応じるだけだった。
『最小限の情報しか与えられず、しかも不慣れな任務を押し付けられて……あれは困惑していただろう?』
 自虐的な笑いを含めてエンダーが呟く。
 報告が無くともノエルの心境を的確に把握している辺り、流石はエマノンの実行部隊の親父と呼ばれる男だ。
「いえ。彼女は完璧です。今までも……そしてこれからも」
『……そうだな。ではスタンスフィールド、引き続きサポートを頼むぞ。エマノンの正義と新世界のために』
 裕樹の言葉に、どこか諦めた様な口調で同意を現すと、エンダーは最後に常句を口にして回線を閉じた。
「エマノンの正義と新世界のために」
 裕樹もまた、同じ文句を口にしてヘッドセットを外す。
 背もたれに深く身を預けて、肺の中の酸素を一気に吐き出すと、懐から煙草のパッケージを取り出した。
 口にくわえたところで、指揮車内が禁煙だった事を思い出し、溜め息を付いてから立ち上がるとドアを開けて車外へ出る。
 見た目は運送会社のトラックにしか見えない偽装車の周囲には、同じく偽装されたライトバンが数台あり、その周辺をそれとなく警戒している人影が伺えた。
 裕樹が指揮車を出たのを確認した女性――恐らく通信担当の者だろう――が、軽く敬礼をしてから入れ替わりに指揮車へと入って行く。
 煙草をくわえながら軽く応じると、裕樹は指揮車に寄りかかるようにして火を灯し、改めて周囲を見回してみる。
 アーデルハイド近くの場所を走る林道の、少し奥へ入った工事跡地に、吉川裕樹が指揮する総勢二四名になるノエルの支援部隊は待機していた。
 通常の戦闘員や通信・情報担当員の他に、専門の医療スタッフで構成されている部隊だが、彼等が直接戦闘に加わる事は滅多にない。
 精々が狙撃によるサポートや、長射程火器による火力支援程度で、彼等の主な任務は現場の痕跡を消したり、死体を片づけたりという”後始末”が殆どだ。
 故に彼等は自虐的に自分達の事を”始末班”と呼んでいる。
 煙草を吹かしながら、自分が指揮する部隊を見つめ、そしてふと昔の自分の姿と比べてみる。
 戦後の混乱が続き、一向に復興が進まぬあの東欧の街で、ストーリートキッズ達をまとめ上げて少年ギャングを気取っていた当時、彼の傍らにノエルの姿は無かった。

 戦前、父親の海外出張に家族全員で付き添い、あの国で暮らすことを選んだのが、彼にとっての悪夢の始まりだった。
 中東の混乱を発端として広まった戦乱は、瞬く間に世界中に飛び火し、気が付いたときには第三次世界大戦となっていた。
 戦争の混乱で、帰国も出来ずに取り残された彼と家族の未来は閉ざされ、母国が正式に環太平洋側に参戦する事を表明した瞬間、それは決定的となった。
 周囲の存在全てが敵となり、迫害を受け家を追われた。
 更に放浪の途中で、彼の家族はロシア軍の兵士達によって惨殺された。
 理由は、日本人だったから――それだけだった。
 裕樹は一人辛うじて生き残ったが、周囲が全て敵、しかも母国への帰還が不可能という絶望という状況に、何かに怯えて暮らす日々が何日も何ヶ月も続いた。
 だが、彼は諦めなかった。
 家族を奪った敵への復讐心を糧に、一人で生き抜く術を身につけ、戦争の混乱を耐え抜いた。
 戦争が母国側の勝利に終わった時、彼の周囲には、彼に付き従う沢山の幼い少年少女達が居た。
 戦後の混乱を生き抜く為……そして復讐を遂げる為に、彼等を束ね統率し、そして有りとあらゆる情報を欲した。
 ロシアを支配し、実質的に欧州連合の元締め的存在だった、”ドラゴン”こと新生ロシア帝国の龍帝こそが戦争の引き金を引いた存在であり、そして彼が家族と共に逃亡した情報も得た。
 いつしか自分がドラゴンを討つ瞬間を夢見て、裕樹はひたすら自分を鍛え続けた。
 だが、戦争終結から十年が経っても、彼の住まう都市は今だに復興の兆しが見えず、十九歳となっていた裕樹は先の見えない現状に嫌気が差し始めた。 
 裕樹は……酷い目をしているよね? ――そう自分に言ったのは誰だったか? 裕樹は眼鏡のフレームに手を当てて思い出してみる。
 ――確か、クリスとか言う少女だったか。
 ――そうだ。ナイフの使い方が上手く、回りからは”ナイフのクリス”とか呼ばれていた少女だ。
 裕樹の脳裏に、ロクに手入れされていない乱れた金髪と、いつもつまらなそうな表情をしつつも、自分を慕っていた少女の顔が思い浮かんだ。
 確かに酷い目をしていたと、裕樹は思った。
 だが家族が惨殺されるの直視し、地獄の中を生き続けてきた人間ならば、誰だってあんな目をするだろう、とも思う。
 アンタは私達を何処に導いてくれるの? ――僅かにすがるような視線と共に、そんな事を聞かれた事も思い出した。
「ははっ」
 思わず当時を思い出して笑い声が出た。
 彼女に限らず、裕樹の配下達は彼に救いの手を求めていた。
 一度は失った家族や仲間の暖かみを、彼等は裕樹が創ったチームの中に見出していたのかもしれない。
 しかしその長たる裕樹には、そんな意識は欠片も持ち合わせてはいない。彼にとってチームは繭に過ぎず、常に孵化するチャンスを待ち続けていただけだ。
 だから、情報を欲してエマノンのドラゴン追撃部隊が接触してきた時、彼は迷うことなくチームを見限った。
 そうする事が当たり前だったから、残したクリス達がその後どうなったのか、裕樹は今まで考えた事もない。
 だから、ふと当時の事を思いだした自分が、少し可笑しかった。
「酷い目……か。だが今は違うよ、クリス」
 声に出して裕樹は呟いた。
「僕は……僕だけはあの地獄から這い上がったんだ。そして、もうすぐ僕の目的も……」
 今の彼の身を包んでいるのは、瓦礫の下で暮らしていた頃のボロ布ではない。
 彼の命令で動く者達も、統制の取れたプロの兵士であって哀れな子供達ではない。
 そして彼には大切な妹が居る。
「ノエル……その時、君はどんな顔をしてくれるのかな」
 ゆっくりと吐き出された煙が夜空へと立ち昇ってゆき、やがて夜の闇の中へと溶け込んでいった。





続く>

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