ノエルにとって全てが初めてづくしの一日が終わり、アーデルハイドの全女生徒達が眠りについた深夜。
彼女は猫の様にしなやかな動きで音を立てずにベッドから出ると、そのままそっと化粧室へと向かった。
「レオンよりスタンスフィールド、状況報告」
懐のPDAを操作してから、そっと小さな声で話し始める。
チョーカーに組み込まれた小型マイクは、喉元に当てられている事もあって、僅かな声でも正確に拾い上げてくれる。
『やぁノエル、いい夜だね』
程なくして耳にはめられた通信機を通じて、聞き慣れた裕樹の声が聞こえてくる。
的違いな事を話す態度も相変わらずだ。
「定時報告……いい?」
『ははっ、随分真面目じゃないか? 授業中もそんな調子で優等生で居られたのかな?』
裕樹の態度はいつもこんな感じだが、そんな慣れたはずの言い回しが、今日に限ってノエルを酷く嫌な気分にさせた。
だからノエルは裕樹の軽口を無視して用件を伝え始める。
「……現時刻までのターゲットV1の安全は確保。D1との接触が今だ行われていない事を除けば現状で大きな問題無し。V1の交友関係者で注意すべき存在は松井雪野と小日向貴子。今後雪野はF1、貴子をF2と呼称する」
『つれないねノエル。初めての学校に通う妹を心配する兄の気持ちも察してくれないかな?』
「兄さんっ」
ノエルが感情を微かに剥き出しにする。
『ははっ冗談さ。スタンスフィールド了解した。F2の事は既に調べてある。学園長の姪で、環太平洋地域の教育界を牛耳る小日向一族の期待の星だ。昨年には史上最年少で論文審査に合格して、アメリカの研究機関から、奨学金と将来のポストの予約席をすでに得ている。いわゆる超エリートだ』
「彼女、私の目を見て”死んでいる”と言った。”何処から来たのか?”とも尋ねられた。任務を感づかれたとは思えないけれど……」
『へぇ、面白い子が居たものだね』
「面白くなんか無い」
『冗談さ。ま、彼女の立場から考えれば、君の存在を訝しく感じるのも自然だろう。何しろここ数十年、アーデルハイドに途中転入生は一人も居なかったんだ』
「私も……そう思う」
『ま、注意はしておくように。それとF1に関してはこっちでも調べておく。では、レオンは引き続きV1の警護に当たれ。以上』
軽口にコールサインを無視して本名――もっとも、それが本当の名前かどうかは本人にも判っていないが――を使った裕樹が、今更の様に口調を改めて命令を伝える。
「レオン了解」
ノエルは短く答えてから、通信を切る為にPDAのスイッチへと指を伸ばした。
だが、僅かに躊躇して指を止める。
「……」
『どうした?』
普段であれば即座に切られる通信が、未だに維持されている事を疑問に思った裕樹が呼び掛ける。
「……授業は、数学で問題を解くように先生に当てられたけど解けなかった。でも英語とドイツ語は……発音が良いと誉められた」
『え?』
突然の言葉に、裕樹は思わず聞き返す。
「だから……初めての学校の事。兄さんが聞きたいって」
ノエルは意識せず、左手の小指に張られた可愛らしい絆創膏を、右手の指で撫でていた。
『ふははははっ』
「何?」
笑われた事に腹を立てたのだろう。ノエルの口調には明らかな棘が含まれている。
『いや何でもない。ははっ……それじゃせっかくだ、兄から妹へ入学祝いを送る事にするよ。はははっ』
「……要らない」
いつまでも笑い続ける裕樹に、恥ずかしさと苛立ちを覚えたノエルは、短く言い放つとそのまま回線を切断した。
彼は何時でもそうだ。
作戦中も非番の時も。
何かにつけてノエルを困惑させる。
だが、昔からそうだと判っているから、本気で腹を立てたりはしない。
本当の兄妹や家族を知らないから、他とどう違うのか判らないが、それでも彼が自分を真剣に想ってくれている事だけは判る。
まだ新人だった頃、作戦で失敗した自分を必死にバックアップし助けてくれたのも彼だ。
上層部の叱責からいつも庇ってくれたのも彼だ。
自分がオフェンス任務に専念出来るのも、彼のバックアップがあると信じているからだ。
だから多少の軽口も我慢するし、時折自分に向けられる彼の視線に、冷たい何かが含まれている事も気にかけない。
でも――ノエルは思う。
何故だか、今日に限ってそんな兄の態度が気に障って仕方がなかった。
僅かなむかつきを覚えながら化粧室を出てベッドへと戻ると、隣のベッドで寝息を立てる理理の姿へ目をむける。
カーテン越しに差し込む僅かな月明かりが、静かに上下する布団を照らしている。
ノエルは任務の特性上熟睡する訳にはいかないが、闇の世界に生きる者として、普段から熟睡した事など殆どない。
それになにより、熟睡すると決まって悪夢を見る。
そしてその内容はいつも同じだ。
血まみれの女性が自分に向かって何かを呟く。
女性の顔には見覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
彼女は、ノエルの母親だ。
正確には”母親の様な存在”に過ぎないが、他に家族を知らないノエルにとっては、母親と呼ぶべき人物だった。
無機質な部屋の中、血溜まりに埋もれた彼女が、瞬きをしない淀んだ瞳を自分に向けつつ、苦しそうに呻くのだ。
夢を見ている時、その言葉は確かに聞こえているのだが、目が覚めると何も覚えていない。
ただ酷く不安になって、気分が悪くなって、自分という存在が虚ろな物に思えて心細くなる。
その都度、裕樹に抱きしめて貰い、彼の身体と煙草の混じり合った臭いを嗅いで気を落ち着かせてきた。
そんな弱い自分も嫌だったし、悪夢を見るのも嫌だった。
だからノエルは熟睡するのが好きじゃなかった。
ベッドに腰掛け、向かい側のベッドで眠る理理の顔をそっと覗き込む。
――きっと幸せそうな顔で寝ているのだろう。
二十年前の戦争で爆撃すら受けなかったこの国の者達は、何の憂いも無く眠れる事がどれだけ贅沢な事か知らない。
しかも天崎製薬という大企業の会長令嬢として産まれ育った彼女は、恐らく全てにおいて不自由の無い、恵まれた生活を送ってきたはずだ。
だが、そう思って彼女の寝顔を見てみれば、彼女が守るべきお姫様の表情には、明らかな苦悶が見て取れた。
顔にはうっすらと汗が浮かび、眉間には縦皺が刻まれ、固く閉じられた瞼は僅かに震えている。
「うなされているの? ……っ!」
そんな理理の寝顔を見て、ノエルの心が掻き乱された。
まただ――正体の判らない不安に心を悩ませる。
理理の辛い表情が、何故自分を苦しめる? ――答えの見つからない問い掛けを、ノエルは頭を振って振り払う。
溜息を付いて気持ちを落ち着かせると、ポケットからハンカチを取り出し、理理のベッドに静かに腰を降ろすと、そっと彼女の寝汗を拭ってやる。
悪夢にうなされた自分が裕樹にそうしてもらう様に、ノエルは理理の頭を優しく撫でる。
ノエルには、僅かだが理理の表情が和らいだように見えた。
と同時に、自分の感じていた不安も和らいだ。
その意味するところは判らなかったが、理理の布団を直してあげると、自分のベッドへ戻りその中へと実を横たえた。
腰からレギンレイヴをシースごと抜いて枕の下に隠し、右腕のグルヴェイグの感触を確かめてから、ノエルは浅い睡眠へと意識を沈めてゆく。
悪夢を見ないよう、何かに祈りながら――。
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