ノエルと理理が辿り着いた時、食堂のシートは約半分が塞がっている状況で、その一角に二人は向き合うように腰を下ろし、夕食をついばんでいた。
もっとも、その表現はノエルにだけ当てはまるもので、理理に関しては掻き込む――といった雰囲気に近い。
ノエルにとっては昼食に引き続いて二度目となる理理との食事だったが、彼女の姿に圧倒されている為食事を運ぶ手は普段にも増して遅い。
「どうしたの?」
唐突に、理理がノエルに目をむけ首を微かに傾げて尋ねる。
「いえ……別に」
まさか、理理の食べっぷりに圧倒されて――とは言えず、ノエルは口ごもった。
しかし――
「ノエルって食が細いんだね。もっと食べなければ、胸とかおっきくならなくてよ?」
という、次の言葉には流石に反論した。
「な、何をいってるのよ。余計なお世話でしょ。それを言うなら、天崎さんが食べ過ぎなだけじゃない。明らかに一日に必要なエネルギー摂取量を超過しているわ」
実際に見たわけではないが、理理の胸も自分と”どっこい”だと思っている。
明らかに自分よりも胸が大きな雪野に言われるらなまだしも、そんな理理に言われると流石に腹が立った。
そんな事で腹を立てる自分がどれだけ珍しい事か気が付かないまま、ノエルは理理のペースへと巻き込まれて行く。
「いいノエル?」
理理が表情を改め、そう言い聞かせる様に話し始めるのは、もはや定番となりつつある。
が、続けて語られる内容は大抵の場合、表情の真面目さに反してノエルの首を傾げさせるものだ。
そして今回も多分に洩れず――
「難しい話は苦手だけ確かな事が一つあるわ。私は食べ過ぎなんかじゃ決して無くてよ。それにこの寮で生きて行くには、”食べられる内に食べる”を実践しないと、卒業までとてもじゃないけれど持ちこたえられないの」
と、ノエルの頭を悩ませるには十分な内容だった。
そしてこういう場合、反論や指摘は意味を成さず、また時間の無駄な浪費であるという事を今日一日で学習したノエルは、今回もまた素直に頷く事に留めておいた。
「そ、そうなの?」
「そうなの! それから最も注意を払わなければならないのが朝食よ。夕食はねこうして美味しい物にありつけるんだけど……」
一端話を区切って、理理はテーブルの上におかれたサラダにフォークを突き立て嬉しそうに口へと運ぶ。
モシャモシャと多少品の悪さを感じさせる音を立てて食べている姿は、とても世界有数大企業の社長令嬢とは思えない。
実際、周囲を見回してみれば、多少の会話は聞こえてくるものの、理理の様な大きな声で語っている者が皆無で、その仕草も皆一様に丁寧だ。
そんな中においては、理理の騒がしさは嫌でも目立つ。
更に、クールで格好良い転校生と噂が囁かれつつあるノエルの存在も手伝い、普段にも増して周囲からの注目を浴びている。
そう言えば――ノエルは今日一日、理理と共に過ごして気になった事があった。
それは彼女の友好関係だ。
ノエルから見た理理は、彼女の精神を狂わせるほどに脳天気でフレンドリーな物腰をしている。
彼女自身は決して認めないだろうが、既に理理という存在はノエルにとって、単に護衛目標というだけではなく、心を揺さぶる特別な存在になりつつあった。
先程、部屋で奇妙な不安に苛まれたのも、理理がバスルームへ姿を消してからであって、彼女の姿が見えなくなった事がノエルの心をかき乱し、任務に対する不満や憤りへと発展させたのではなかったか。
ノエルに対する彼女の影響力はそれほどにまで凄まじい。
にも関わらず、彼女に(用もなく)話しかけてくるのは雪野しか居なかったのだ。
明らかに友好関係の広そうな理理であったが、そんな予想に反して彼女の友好関係は極端に狭かった。
ガードをする立場から見れば、それはとても好都合ではあったが、理理が学園で浮いている事実は僅かながらノエルを驚愕させた。
だがその理由も、こうして共に食事をして、周囲と比較してみれば何となく理解できた。
彼女――理理は、何というか……明らかに周囲の女生徒達とは違い過ぎるのだ。
この学園で遅刻をするのは彼女くらいだというし、言葉遣いこそ丁寧ではあっても時折内容が支離滅裂な事を口走る。
目の前でサラダやパスタ、そしてスープへと、せわしくフォークやスプーンを動かしている姿を見ても、彼女が他の女生徒達とは違うのは明らかだ。
厳格で古風、しきたりや伝統を守り、何よりも礼節と礼儀を重んじるアーデルハイドにおいて、彼女の存在は余りにも異質なのだ。
であるならば、いくら彼女自身がフレンドリーな性格をしていても、周囲が必要以上に近づくはずがない。
雪野が例外なのは、彼女自身が理理と同じ立場――つまり、アーデルハイドにおいて異質の存在であるからだ。
芸術特待生として高等部より入学を認められた彼女は、それまで公立中学に通うごく普通の少女に過ぎなかった。
故に彼女達は学園内で唯一、己をさらけ出し合える存在だった。
だからといって、彼女達がけむたがわれているかと言えば、そんな事は全く無い。
事実、二人に向けられている視線に、敵意や嫌悪が含まれる事は殆ど無く、それどころか彼女達と仲良くなりたいと思っている者も多かった程だ。
それでいて二人が周囲に溶け込めずにいるのは、他の少女達の気質にこそ問題があったからだろう。
それは幼少から植え付けられた上流意識と、それに対する無意識の自己嫌悪によるものだ。
だからこそ、こうして穏やかな夕食が進められている食堂において、場違いな程に賑やかな理理がいても、少女達は咎めるような視線ではなく、どちらかというと羨望の視線を送り続けている。
つまるところ、理理自身も気が付いていないが、彼女の飾らない大っ広げな態度や言動は、厳格な家庭で育てられてきた少女達にとって真似したくとも出来ないものであり、憧れの一種を抱かせるものの、彼女達に踏み込むだけの勇気が無いという事なのだ。
それに加えてノエルの存在が、更にその状況を助長しつつある。
例外的に認められた新入生として現れたノエルは、それだけで少女達にとっては格好の興味対象だった。
しかしノエルにとって、この地は単なる任務遂行の場に過ぎず、「理理を守る」という行動に関係無い事に関しては、全く興味を示す事はない。
今日一日、当然彼女に話しかけてくる少女も何人か居たが、その全てが最低限の挨拶しか返して貰えないという有様だった。
明らかに冷たい反応であっても、時折見せる理理を守る姿勢――今朝の事以外に、つい先程の貴子への立ち振る舞いも少女特有の情報伝達力で、既に多くの生徒に伝わっている――は、良くも悪くも少女達の興味を引いており、そんなノエルと唯一仲良くできる理理に対して、無意識な羨望を感じている少女も少なくなかった。
そんな実状はともかくとして、理理は自分の食欲を満たす合間に、ノエルに対して寮生活で生きる術を真剣な表情で伝えている。
「……でね、この寮には創立以来、延々と受け継がれている絶対の掟があるの。それは、『釜の数には限りがある。そこに先輩も後輩もない。飢え死にがいやなら……寝坊するな!』というものよ。いい? 朝食が重要になるの。だからくれぐれも朝、寝坊するなんて以ての外」
勢い良く捲し立てられたので、ノエルは反射的に頷いた。
「呆れた……よくもまぁ、遅刻常習犯の理理がそんな事が言えるものね?」
理理の背後――つまりノエルの正面からそんな声を投げかけたのは、勿論松井雪野である。
二人と異なり制服を着用している処をみると、学園から帰ってまだ間がないのだろう。
「なによ。別に間違った事は言ってなくてよ? あ、吉川さんごきげんよう」
頬を膨らませて抗議する理理の隣に、雪野は夕食の載せたトレイを置いて腰を下ろし、途中、正面のノエルに会釈をした。
「ごきげんよう」
ノエルの返事に突き放した冷たさが含まれているのは、今だ二人の間の友好関係が一方通行である事の現れだろう。
そんな関係を自覚してか、雪野は少し表情を曇らせたが、直ぐに表情を戻して食事取りかかった。
「雪野、今帰ったんだ。レッスン……だよね? あ、ちょっと顔色悪いよ。大丈夫? 無理してない?」
スープに付属していたクラッカーを行儀悪く囓りながら理理が尋ねる。
「ふふっ、有り難う。コンクールがもう近いから……ちょっと気張り過ぎてるかも」
そう言って溜め息を一つつくと、安心させるように「あ、でも大丈夫よ」と微笑んだ。
雪野が言うコンクールとはピアノのものだろう――そう判っても、それを会話の内容にする気の無いノエルは、黙ったまま紅茶の入ったカップを口に運んだ。
校内のカフェテリアと異なり、寮食堂の紅茶は危険物ではないらしい。
「あ……」
理理が突如声を上げる。
「どうしたの……ん? これ?」
彼女の視線を辿って、自分のトレイに載せられた夕食――和食だった――を指さす雪野。
「うん……美味しそう。私もそれ食べればよかった」
羨望の眼差しでトレイ上の料理を見つめる理理に、ノエルは溜まらず頭痛を覚えた。
結局食事は終始理理のペースで進み、ノエルが皿に盛られたチキンライスを食べ終わるまでに、彼女はパスタセットとポテトグラタンにサンドイッチを平らげ、更に雪野にご飯を少し分けて貰う事となった。
食事を終えてしばし談笑――ノエルは偶に頷く程度だったが――した後、二人は雪野と別れ、最上階にある自分達の部屋へと向かった。
すでに位置関係は把握しており、もう先導の必要は無いのだが、それでも理理はノエルの手を掴んで離さなかった。
理理の真意は判らなかったが、ノエルにしても手を繋いだままである現状は、いざという時に身を守りやすいので、されるがままにしておいた。
それに何より、ノエルは理理の手から伝わる温もりが嫌ではなかった。
ノエルが今まで手を繋いだ相手など、握手や格闘訓練での組み手を除けば兄の裕樹だけだったが、兄の手の感触とは明らかに異なる柔らかさがノエルには心地よかった。
少女同士が手を繋ぐ光景は、アーデルハイドにおいてさして珍しいものではなかったが、二人の組み合わせは嫌が上にも目を引くものであり、すれ違う生徒達が、通り過ぎた二人の背を眺めながら何かしら囁き合う事もしばしばだ。
「あ、そうだ。ねぇノエル」
部屋に向かう途中、何かを思い付いたのか理理が振り向きノエルに話しかけた。
「何?」
「せっかくノエルが来たんですもの、歓迎のパーティをしようかと思うの。どう?」
「どう……って、結構よ」
ノエルの返答を聞いて、理理はその場で歩みをとめると、まるで信じられない物を見たような表情を浮かべた。
「何で?」
「必要ないから」
さも、ぶっきらぼうに答えるノエルに、理理は咄嗟に表情を曇らせる。
途端、ノエルの心にバスルームに入る直前に感じた、形容の出来ない不安が押し寄せた。
理理の視線に居心地の悪さを感じたノエルは、たまらず彼女から目を逸らし、そして食堂からずっと繋がれたままの手を解いた。
動作としては、ただ手を離しただけに過ぎなかったが、ノエルにはもっと別の何かが途切れた様な――そんな漠然とした心細さを感じた。
だがそれも一瞬の事だ。
直ぐにプロとしての意識が不安を駆逐し、強制的にノエルの感情をコントロールする。
その結果、彼女の目はまるで深い穴の様に光を飲み込み、一切の感情が消え失せた。
貴子をして”死んでいる目”と称した、無機質な瞳。
この学園の少女達には想像も出来ない地獄を見てきた瞳。
目の前に佇むノエルの変化を見て、理理は短く「……そっか」と呟いた。
やや置いてから――
「うん判った。それじゃ兎に角部屋に戻ろう?」
理理はそう告げて部屋へ向けて再び歩き始め、そして直ぐに立ち止まり今一度振り返った。
「なに?」
そんな理理の行動に戸惑うノエルに向かって、彼女はそっと手を差し向け――たった一言。
「手」
そう口にして、精一杯の微笑みと共に自分の手を差し出した。
ノエルは一瞬の躊躇の後、先程までと同様に彼女に手を預ける事にした。
「うん。それじゃ行こうっか」
理理は満足そうに微笑むと、ノエルの手を引いて歩き始めた。
その背中を見つめながら続くノエルは、先程感じた不安が急速に姿を消しつつある事に少なからず驚きを感じていた。
手にノエルの体温暖を感じながら理理は思う。
この子は、何であんな目を見せるのだろう――と。
続けて、初めて出会った瞬間の事を思い返す。
――自分の聖域に突如現れた、菫色の髪をした天使様。
理理はあの陽光が差し込む講堂の中、初めて彼女の視線が重なった時の事を思うと、自分の胸が熱くなる事を自覚し、そしてその熱に心地よさを覚えていた。
その感覚の正体に理理は気付いていなかったが、あんな目をしたノエルを自分が変えなければならないという使命にも似た感覚だけは、はっきりと自覚していた。
――天使様に、あの目は似合わない。
――その為には、もっともっと親密にならなければならない。
――もっとノエルの事を知りたいと思う。
だが、遠い親戚というだけで他には何も知らない不思議な雰囲気を持った少女は、自分の事を必要以上に全くさらけ出す事はない。
それが彼女のスタンスであるならば、恐らく根ほり葉ほり尋ねるのは逆効果になる事は予測出来る。
ならば、彼女が自発的に自分の事を語るまで待てばいい。
そうだ。何しろ私達はまだ出会ったばかりなのだから、ゆっくり時間をかけていけば良い――そう考えれば、理理も気が楽になった。
それにもう一つ、彼女が気付いた事で、彼女の気を楽にさせるものがある。
それは――自分とノエルが手を繋いでいる時、彼女の表情が幾分柔らかくなる事だ。
理理が咄嗟に振り返りノエルの目を見つめて微笑む。
すると彼女は、少し恥ずかしそうな顔を浮かべて視線を逸らしたものの、手が振り払われる事はなかった。
その仕草に、理理は一層微笑み、繋いだ手に少し力を篭めて部屋への道を進んで行く。
ほら。やっぱりノエルは、いろんな表情を持っている。この子は感情を表すのが苦手なだけなんだ――それだけ判れば、今の理理には十分だった。
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