”ガチャリ”――唐突に聞こえた扉の音が、ノエルの意識を急速に戻した。
 唇を噛み、自分の迂闊さを今一度呪う。
 普段の彼女であれば、扉の向こう側の気配くらい読めて当たり前だ。
 にも関わらず、理理がバスルームを出てくるまで気づかないなんて――もし、部屋に入ってきたのが理理ではなく敵だったらどうなったか? 結果は考えるまでもない。
「あれ? 真っ暗……どうしたのノエル、電気点けないの?」
 バスルームから出た理理はそう言ってから、照明のスイッチを操作すべく入り口へと向かった。
 その合間に、ノエルは感情を殺して意識を切り替える。
 照明が点灯し闇を駆逐すると、理理の姿も照らし出された。
 シャワーを浴びたばかりで朱に染まった彼女の身体を包むのは、寝間着を兼ねていると思われる、薄目の部屋着。
「バスルーム空いたけど……どうしたの?」
 笑顔を僅かに曇らせて首を傾げる。
 頭に巻いたタオルから、クセのある髪の毛が僅かに垂れ、その合間から二つの瞳がノエルを見つめている。
「何でもないわ」
 努めて平然と答えると、ノエルは理理を見つめ返す。
「そうなの? 真っ暗な部屋で座ってたノエル、何だかとても寂しそうだったから」
 先程の自分の姿が見られた事に、ノエルは己を恥じる。
 これ以上の失態は見せられない。
「何でもないわ」
 先程と同じ言葉を、同じ表情で伝える。
 理理の目に僅かな悲しみ――同情が浮かぶのを見て、ノエルは立ち上がった。
「シャワー……使わせてもらうわ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、荷物から着替えを持ってバスルームへと向かう。
「ねぇノエル?」
 その背中に理理の声が投げかけられる。
 ノエルは振り向いて、理理の口から発せられる次の言葉を待った。
「ノエルは……此処がいや?」
 そう尋ねた理理に、脳天気とも取れる普段の笑顔は無く、その目には普段見られぬ闇が浮かんでいた。
 彼女の問いかけは、理理が先の無防備なノエルの独り言を聞いていた事を伺わせる。
 だがノエルは気付かない振りをして、表情を変えること無く逆に尋ね返した。
「何? なんの話?」
 警護任務の事を打ち明ける事は出来ない。
 であるなばら、理理が感じた疑問には、全て首を横に振り続ければいい――そう思う事で、ノエルは自己の平定を保つ事を決めた。
 ノエルはもう話す事はないと思ったが、理理は彼女を解放しなかった。
「つらいの?」
 ノエルは応じない。
「私と一緒じゃ……元気出ないのかな?」
 僅かに伏せた頭から、タオルが静かに音を立てて肩へと落ちると、照明を受け理理の栗色をした髪の毛が艶やかに光る。
 またもノエルは応じない。
 否――応じられなかった。
 『何が?』『別に』と簡素に答えるだけでよかったのだが、彼女を躊躇わせたのは悲しげな理理の瞳と、初めて聞いたか細い声、そしてそれらを受けて感じた不安――先程まで感じていた現状に対するそれとは異なる不安だった。
「私には……理由、言えない?」
 今だ応じないノエルに、理理はすがる様にもう一度問いかける。
 そんな理理の仕草に、形容の出来ない不安が一層強く渦を巻き、ノエルの心を締め付ける。
「……何の事だか判らない」
 感じた不安の正体に気付かないノエルは、用意した答を絞り出すのが精一杯だった。
 理理の視線から逃げるように背を向けてバスルームへと入ると、振り返ることなく後ろ手に扉を閉めた。








■ N o e l /l e o N #06








 湯気の残ったバスルームの中、ノエルは制服の上着を脱ぎ、ブラウスの上から腕に取り付けられたグルヴェイグをアームホルダーごと取り外す。
 次いで手を後ろへ回し、腰の背部に装着していたシースを外す。
 それに納められているのは、刃厚六ミリ、全長は三五〇ミリを越えるハンティングナイフだ。
 レギンレイヴ――戦いの女神、ワルキューレの名の一つ――と言う名を与えられた、ノエルのもう一つの牙。
 まさかとは思うが、この瞬間に扉を開けられないとも限らない。ノエルは二つの牙を畳んだ制服の中に隠してから、白いブラウスを脱ぐ。
 白い肌と対象のコントラストを放つ黒い下着が姿を見せた。
 彼女の乳房を覆い隠しているそれは、普通のブラやキャミソールとは異なり厚く固めの特殊な素材で出来ており、左乳房の脇にあたる部分には、特殊なギミックを内包した丸いカプセルの様な物が埋め込まれている。
 それこそが、ノエルにとって最後にして最強の牙。
 ノエルを死神と言わしめる物。
 今回の任務で果たして使う事があるか疑問を抱きつつも、兄の裕樹に言われるまま装備してきた。
 指でそれを撫でながら、鏡に映った自分を見つめる。
 いつもと変わらぬ自分の顔。
 整っているとは思うが、無機質で機械の様な顔があった。
 いつもの自分を再確認出来た事で、彼女の心が落ち着きを取り戻す。
「私は戦える」
 自分に暗示ををかけるように、鏡に映った自分へ呟く。
 耳を澄まして神経を研ぎ澄ませる。
 扉の向こうで理理が動いている気配を感じ取る。
「よし」
 じぶんに頷くと、ノエルは特性の下着を外し、耳にはめた通信デバイスと、マイクが仕込まれたチョーカーを例外として、スカートとその中の下着をも脱ぎ捨て全裸となる。
 白く綺麗な肌ではあるが、所々に大小様々な傷痕が見て取れた。
 非常時に備えて制服の合間からグルヴェイグとPDA――当然防水加工品だ――を取り出し浴室へと入ると、備えられたシャワーのコックを捻った。





§






 シャワーを素早く済ませたノエルが、例の下着を着用し、更に用意された部屋着――PDAやグルヴェイグ、そしてレギンレイヴを隠す為にサイズは大きめで、幾つかの内ポケットが備えられている――へと着替えてバスルームから部屋へ戻ると、理理は先程ノエルが座っていた場所、つまりノエルのベッドに腰掛けていた。
 出来ることならば、顔を突き合わせたくはない。
 可能な限り会話を避けたい。
 自分を不安に陥れる、悲しげな顔を見せないで欲しい。
 だから無視でもいい。自分に構わないで欲しい――燻った不安を、必死に意識で抑え込んでいるノエルにとっては、それが本心だった。
 だが、理理の方にそんな気が無いのは、彼女が居る場所からも明らかだ。
 また先程の話しを蒸し返すのだろうか? ならばこちらは、ずっと首を横に降り続けるだけだ。彼女が折れるまで――心にそう決め込み、ノエルは一歩踏み出した。
 だが、そんなノエルを出迎えた理理は、笑顔と共に――
「お帰り。元気になった?」
 ――と、予想外の言葉を投げかけてきた。
 何がお帰りなのかノエルのは判らなかったが、彼女の顔に先程の陰りが無くなっている事には、何故か安堵を覚えた。
 だから間抜けだとは自覚しつつも――
「た、ただいま」
 と口ごもりながらも、ごく自然に応じてしまった。
 そんなノエルを見て、理理はひどく嬉しそうに笑い、立ち上がると彼女の手を掴もうと自分の手を伸ばした。
「あ……」
 理理の手がノエルの左手に触れたところで動きが止まり、一呼吸置いてから彼女はその場で膝を折り、その手を優しく包み込んだ。
 ノエルから理理の表情は伺えなかったが、彼女は一瞬酷く寂しそうな表情を浮かべていた。
「……どうしたの?」
 自分の左手を掴み俯いたままの理理に、再び言いようのない不安を感じたノエルは、そっと問いかけた。
 返事は無かった。
 だが代わりに自分の小指が何か暖かく滑ったものに包まれる感触が伝わってきた。
「……っ?!」
 自分の指――先程自ら傷つけた左の小指を、理理が口に含んでいる。その事実を知って、ノエルは今だかつて味わった事のない動揺に見舞われた。
「あ……」
 動揺が思わずノエルの口から吐息を漏らさせた。
 指先から伝わる柔らかさと暖かさに、ノエルの心が麻痺して行く。
 先程感じた不安は霧散して行き、代わりに身体の奥が火が点いた様に熱くなる感覚に囚われる。
 顔面の毛細血管に血液が流れて表面が火照り、心臓の動悸も早まって思考が鈍る。
 ”チュッ”という音と共に、ノエルの指が理理の口から解放された。
 床に膝を付いていた理理が、ノエルを上目遣いでみつめつつ微笑みかけている。
 音と視線に心の奥がくすぐられる思いを感じて、ノエルは咄嗟に顔を逸らした。
「ちょっと待っててね」
 そんなノエルに理理は笑顔でそう言うと、足早に部屋の隅にある棚へと走り、何かを手にして戻ってきた。
「……何するの?」
 浴室で感じたものとは異なる不安に、視線を戻したノエルが思わず声を上げる。
「いいから、じっとしていて」
 まるで子供をあやす様な優しい口調で言うと、理理は再び膝を折ってノエルの左手を取り、持ってきた絆創膏を傷ついた彼女の小指の先に巻き付けた。
「はい。これでよし」
「……?」
 自分の目の高さに掲げた小指には、可愛らしい子犬の絵がプリントされた絆創膏が貼られている。
 混乱気味でどう反応して良いのか判らないノエルの隙を突いて、理理は自分の手で彼女のもう一方の手――右手を掴むと、昼間の様に手を引いて扉へと向かって歩き始めた。
「あの……天崎さん、何処に行くの?」
「夕食よ。お ゆ う し ょ くっ!」
 ノエルの問いかけに瞬時に応じる理理。
 鼻息が荒いのが、少しノエルは気になった。
「それは判るけど……そんなに急がなくても」
 ここは学生寮であるから、当然夕食は全員が食べられるように用意されている。
 ならば急ぐ理由は無いはずだ。
 難民キャンプじゃあるまいし――ふと考えた言葉にノエルは既視感と微かな頭痛を覚えた。
 だが――
「何を言ってるのよ。夕食よ夕食。一日の最後を飾るメインイベントじゃない。気合入れないでどうするのよ?」
 と、息巻く理理の言葉に圧倒され、既視感は頭痛と共に消え去った。
「いいことノエル。夕食というのは家族にとって最も大切な行事なの。共にテーブルを囲んで、食事をしつつ今日一日に有った出来事を話し合う……それこそが一家団欒。家族の有るべき姿じゃなくって?」
 そう同意を求められたところで、家族に縁のないノエルには答えようもない。
 だから――
「話をしながら食事をするのは……行儀が悪い」
 と答えるに留めた。
 もっとも、理理はそんなノエルの言葉を聞き流して、「さぁ食べるわよ。そして語り合うのっ!」と一層、口調を荒げてノエルの手を引っ張って行く。
 学校と同様、喚きながら転入生のノエルを引っ張ってのし歩く理理の姿は目立っていた。
 おまけに理理が世界有数の令嬢とは思えぬ庶民的な事を口走っているので、すれ違う女生徒達の笑いを買っている。
 周囲の視線に居心地の悪さを感じていたノエルは、理理に抗議の声を上げたが、それが無駄だと理解すると、紅く染まった頬を隠すように俯いたまま、理理に付いて行く事だけに専念した。
 周囲の好奇心に満ちた視線は確かにノエルの気分を害していたが、不思議と先程バスルームで感じていた不安はなかった。
「私達は育ち盛りなの。だから食事はきっちり摂らないと駄目だし、それで身体が足りないと感じるなら、別の物で補うのは至極当然の事なのよ」
 エレベーターを待つ間、理理は独自の栄養摂取論をノエルに聞かせていた。
 何故か口調は先程よりもヒートアップしており、いつしか「女の子は体重を気にしては駄目」「ノエルはもっと食べなきゃ駄目」「ところでノエルって体重何キロ?」と、支離滅裂な内容に変わっている。
 追求する様な理理の視線に、ノエルが答を言いあぐねていた時――
「ストーーーーーップ!」
 背後から突如として凛とした声が響いた。
「ひっ!」
 驚きの余り妙な声を上げ、そして条件反射だろうか? 理理は背筋をぴんと伸ばし直立不動の姿勢をとると、ノエルの背後へ向けて深く一礼をした。
 近づいてきた時の足音と背後から伝わる気配から、ノエルは振り向く事なく人数は四名だと推測した。
 敵意は感じられないが、その口調が自分達を咎める為の存在である事は伺い知れたので、多少の警戒をしつつノエルはゆっくりと振り返った。
 途端、ノエルの目に鮮やかな金髪が映った。
「二年Aクラスナンバー十四、天崎理理! 絶対規律二章の十二を暗誦せよ!」
 金髪少女の背後に立つ別の少女が、厳しい口調で理理に命ずる。
「え、えっと……二章の十二、ええとぉ……」
 突然の事態に、笑顔を引きつらせた理理が口ごもる。
 その合間に、ノエルは四人を観察する。
 飾り杖を手にした金髪少女を中心に、残りの三名がやや後ろに等間隔で並んでいる。
 全員がまだ学生服姿で、その着こなしには寸分の隙も無い。
 その言動から、ノエルは風紀監督に関わる者達とあたりを付けた。
「えっと……」
 今だ答えられずに居る理理を見て、中央の金髪少女が少しだけ呆れた様な表情を浮かべて、そっと「静寂」――と呟いた。
「あ、そっか。”我ら静寂を愛し、いかなるときも慎ましく、楚々たる所作にて儀を知るべし”……でしたっけ?」
 助言を受けて解答を思いだした理理は、眼前の四人の反応を伺うように身を縮こまらせた。
「はぁ……」
 そんな理理の態度に、四人からため息が洩れる。
「天崎理理。お前はとってもいい子だけれど、少々お行儀がなっていない」
 ややあって、中央の金髪少女が口を開いたが、それはまるで子供を躾ける様な口調だった。
「ご、ごきげんよう貴子お姉さま」
 ばつが悪そうに慌てて挨拶をする理理。
「ごきげんよう」
 貴子と呼ばれた金髪少女が応じる。
「執行委員会のお姉さまがたも、ごきげんよう」
「ごきげんよう、天崎理理、今朝は遅刻しなかったそうね? その点だけはよろしくてよ」
 貴子の背後に立つ少女の一人――先程理理に暗唱を命じた者だ――が、皮肉を含めて返事を返すと、理理は「あははは」と誤魔化すように笑ってみせた。
 どうやら理理は遅刻の常習犯の様だった。そう思えば、ノエルにも今朝学園長が見せた苦笑の意味が判るというものだ。
 他の二人が「ごきげんよう」の挨拶を返し終えると、その内の一人の視線が脇のノエルへと向けられる。
「そちらのあなた、ご挨拶はどうしたの?」
「ごきげんよう」
 ノエルは今朝方理理に教えられた挨拶をして返す。
 挨拶の手法を忘れていたわけでは無いが、どうにもノエルには馴染めないもので、思わず語尾に「オーバー」と付けたくなる程だった。
 一通りの挨拶が済むと、先頭に立った長身の少女が彫刻めいた表情ををゆるめてノエルに向き直る。
「ごきげんよう。貴女が吉川ノエルね? 伯母上学園長先生から、転入生のことは伺っていてよ」
「はじめまして……ごきげんよう」
 精一杯、丁寧に腰を折ってノエルが挨拶をすると、貴子は鷹揚にそれを受け止めて微笑んでみせた。
「わたくしは小日向貴子。この学園の執行委員長です」
 ほんの僅かな挨拶にも関わらず、姿勢、口調、気品、立ち振る舞い……彼女が発する全てが完璧だった。
 手にした飾り杖で、もう片手の手のひらを叩きながら微笑む姿は、絵本に出てくるお姫様そのものだ。
 彼女から溢れる気品が周囲を圧倒し、先程まで声を潜めて笑い合っていた他の少女達も、じっと貴子の姿を見つめている。
「皆さんごきげんよう。寮の中とは言えども規律を守り、常に誇りある学園生活を」
 そんな少女達に向かって、貴子は振り向き華麗な笑顔と堂々とした口調で挨拶を始めた。
 たったそれだけで、周囲の少女達は色めき立つ。
 その合間に――
「貴子お姉さまは、この学園のクイーンでいらっしゃるのよ」
 怪訝な顔で一人立ち尽くすノエルの腕を小さくつつき、理理がそっと耳打ちした。
「クイーン?」
 ノエルは思わす小さな声で聞き返した。
「そう。誰より美しく、気高くていらっしゃるから」
 理理の説明を聞いても、ノエルにはどうも理解が出来ない。
 クイーンというのは、通常「女王」を指す言葉。つまりはこの学園における特殊な権力構造の段階の隠語なのだろうか? ――少々的はずれな事を考えて、ノエルは貴子と周囲にそっと視線を向ける。
 先程まで時聞達に向けられていた好奇の目が無くなり、全員が貴子の一挙一動を逃さんと注視している。
 なるほど、大した影響力だ――ノエルは素直に感心した。
「吉川ノエル」
 貴子の視線と杖の先がノエルに向けられる。
「我が学園にようこそ……とまずは言っておこうか」
 素性を推し量る様に目を細める貴子に、ノエルは黙ってその視線を受け止めた。
「綺麗な顔をしていること」
「お礼の言葉が、ご所望でいらっしゃるの?」
「おまえの顔は綺麗だけれど……その目。死んでいるね。そんな目をして……おまえは一体どこから来たの?」
 ノエルの不躾とも取れる返答を受けても身じろぐ事なく、貴子は杖を向けたまま問いかけた。
「……」
 ノエルは応じない。
 だが、その内心では、そんな質問をしでかした貴子を嘲り笑うように見下し呟いていた。
 ――私がどこから来たか、本当にそれが知りたいというの?
 ――それほど地獄の色が見てみたいのか?
 ノエル瞳に浮かんだ声なき返答を読みとったのか? 貴子の頬が僅かに引きつる。
 誰もが認めるアーデルハイドのクイーンと噂の転校生が、互いを推し量る様に視線をぶつけ合う。
 エレベーター前の廊下周囲に、奇妙な緊張感が漂い始めた。
 誰もが動けなくなったその時――
「貴子お姉さま!」
 張りつめた二人の間に割って入ったのは理理だ。
 ノエルに向けられた杖を押しのけると、両手を広げてノエルを背に庇い、貴子の前に立ちはだかる。
「え?」
 彼女の行動に最も驚いたのはノエルだった。
「ノエルは今日、この学園にやってきたばかりなんです。あの……だから……」
 理理の抗議の声は尻窄みに小さくなってゆく。
 何も考えずに咄嗟の勢いでの行動だったらしく、貴子に対して反論をするという現実に気が付いた事で、途中から萎縮してしまったのだろう。
 理理を守る為に来たノエルにとって、自分が理理に守られている状況は奇異な物だった。
 例え納得のいかない任務であろうと、引き受けたからにはやり通す。
 つい先程の決意が蘇り、今度はノエルが理理を押し退けて矢面に立ち、彼女の肩を掴んで自分の背後へと回す。
「あれ?」
 ノエルの行動に今度は理理が驚きの声をあげる。
 そんな二人の行動に、鋭い視線を向けていた貴子の頬が弛む。
「冗談よ天崎理理。おまえの従姉妹を、もういじめたりしないわ」
 品のいい微笑み携え、ノエルの背後の理理へと語りかける。
「貴子お姉さまは、時々すごく意地が悪くていらっしゃるから嫌です」
 理理がノエルの肩越しに駄々っ子の様に頬を膨らませた顔を向けると、貴子は溜まらず笑い出した。
「まあ。ふふ、ごめんなさい、わたくしはいけないお姉さまね」
 貴子は理理に対して少しおどけた仕草を見せると、ノエルの対しては再びその目を見つめ始めた。
 だがその目の中には、いたぶりの色も、あざけりの色もありはしなく、ただ穏やかな光を湛えていた。
「吉川ノエル。おまえには、きっとこれから多くの試練が待ち受けているよ。そんな目をした娘には、ここでの生活そのものが、試練と呼ぶべき時になるだろうからね」
「ええ。そうでしょうね」
 貴子の予言じみた言葉に、ノエルは素直に頷いてみせた。
 そう。そんな事はもう十分に感じている――先の部屋で感じた焦燥と不安、そして苛立ち……それらを踏まえた上での覚悟だ。
「自覚があるの?」
 貴子はキスをするときのように身を屈め、ノエルの耳元に唇を寄せた。
 周囲で事の推移を見守っていた少女達が息を呑む。
 そして――
「かわいそうに」
 と一言、声には出さず、吐息だけで囁きかけた。
 彼女がノエルの正体を知っているはずがないし、ましてや彼女の苦悩を理解しているとも思えない。
 ただ妙に勘が鋭いだけなのだろう。
 だが、その鋭い人間は、任務を全うする上で非常に厄介な存在になる。
 貴子の言葉に、ノエルの双眼が殺気を携え細められた。
 その視線を見なかったのは貴子にとって幸運だっただろう。
 死神としてのオーラを纏ったノエルの視線を受けて、如何に気丈とは言えども唯の少女に過ぎない貴子に耐えられるはずがない。
 直後、”ポーン”という、耳に優しい電子音が背後から鳴って、背後のエレベーターの扉が開き中から私服、制服両方の少女達が姿を現す。
 彼女達は目の前の光景――馴染みの無い転入生の耳元へ触れんばかりに口を寄せている貴子というもの――を見て、一様に言葉を失った。
 そんな状況にも貴子は慌てることなく、落ち着き払った態度のまま耳元から口を離すと、周囲の生徒達に今一度生活の心得を言い聞かせてから、三人の部下を引き連れ颯爽とその場を去っていった。
「私達も行こうっか?」
 去って行く貴子達の背中を怪訝そうな目で見つめていたノエルの手を、ぎゅっと握りしめて理理が言う。
「ええ……そうね」
 短く頷いてノエルは理理の後に続き、エレベーターの中へ向かう。
 扉が閉まり、二人を乗せたエレベーターが階下へと向かって動き始めた頃、廊下の隅で事の成り行きを伺っていた一人の少女が、溜め息を付いてから廊下へ姿を現した。
 一見して華奢だと判る程に小柄なその少女は、二つに結った髪の毛を揺らしながら歩いてエレベーターの前に立つ。
 ふと視線を感じたのか、彼女はその元を求めて微かに周囲を伺った。
 やがてその目が、エレベーターを挟んで反対側の廊下の隅で、こちらを――正確にはエレベーターの位置を示す電光パネルを――見つめていたもう一人の少女の姿を捕らえた。
 それと判らぬように観察を続けていると、その少女の視線が”睨み”に近いものである事が判った。
 微かに眉を寄せて憎悪を現している少女は、エレベーターが一階へ辿り着いた事を確認すると、ぷいっと顔の向きを変えて、そのまま足早に去っていった。
「香坂詩織さん……か」
 もう一人の小柄な少女はそう呟いて、廊下を去ってゆく少女の背中を見送っていたが、暫し悩んだ様な表情を浮かべてから、詩織と呼ばれた少女を追って歩き出した。




続く>

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